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ブローニュの森はフランス・パリ16区にある森林公園で846ヘクタール(東京ドーム180個分)の広さがあり、公園内には代表的な施設として、ルイ・ヴィトン財団美術館、全仏オープンテニスの会場になっているローラン・ギャロス・スタジアム、世界的に有名なロンシャン競馬場などがある。パリ市民の憩いの場になっており、散歩やジョギングやサイクリングで賑わう。一方で夜になると強盗や売春婦が出没する物騒な一帯でもある。
1981年(昭和56年)6月13日の真夜中近く、男が公園内にあるアンフェリウール湖のほとりの草地からスーツケース2個を湖に投げ入れようとしていたところ、近くを散策していた中年カップルに目撃されたことに気づき、あわててスーツケースを近くの茂みに投げ入れ、逃げ去った。不審に思った中年カップルがスーツケースに近づくと半開きになっていたスーツケースから血まみれの腕がのぞいている。2人はすぐに公衆電話から警察に通報した。
2個のスーツケースの中身はひとつには両手足のない若い女性の胴体で、もうひとつには同じ女性の手足と頭部が入っていた。検視の結果、臀部と大腿部から肉がえぐり取られていること、銃で至近距離から首筋に打ち込まれた弾があり、これが死因とされた。また、強姦されていたことが分かった。
その男の特徴として中年カップルのほか多くの目撃者が男は「東洋人」で非常に小柄だったことやタクシーで来ていたことも証言した。早速、マスコミによって「ブローニュの森の切り裂き魔」と名付けられた。警察は遺体の入ったスーツケースを投げ捨てた男を特定するため、パリ中のタクシー会社に聞き込み捜査した結果、スーツケース2個をもった東洋人をブローニュの森に運んだタクシードライバーを見つけ出した。ドライバーは電話で配車された住所を記憶していた。それはブローニュの森の南端から数ブロック外れたオートゥイユの一角、エルランジェ街10番地で、さらに捜査を進めるとそこから2階にあるスタジオ(ワンルーム)を佐川一政(いっせい/当時32歳)という男が借りていることが分かった。
2日後の15日、凶悪犯の抵抗を予想し警察官6名で男の住む一室を訪れたが、男は抵抗せず、警察の質問に自分は郊外のソルボンヌ大学(パリ第3大学/正式名称は新ソルボンヌ大学)東洋学部で比較文学を研究していると答えた。スーツケースから発見された女性のバラバラ死体は自分が殺して解体したことをあっさり認めた。女性は知り合いのオランダ人学生のルネ・ハルテベルト(25歳)で彼女の肉体を食べるために殺害したと言った。冷蔵庫の中からはポリ袋に入れられた被害者の臀部、大腿、腕、唇などの肉片を発見した。
ソルボンヌ大学・・・「ソルボンヌ大学」という呼称は単一の大学だけでなく、歴史的にはパリ大学の系譜を継ぐ複数の大学群を指す総称。パンテオン・ソルボンヌ大学(パリ第1大学)、パンテオン・アサス大学(パリ第2大学)、新ソルボンヌ大学(パリ第3大学)、パリ・ソルボンヌ大学(パリ第4大学)、パリ・デカルト大学(パリ第5大学)、ピエール=エマリー・キュリー大学(パリ第6大学)・・・。
ルネ・ハルテベルトはオランダのライデン大学で学士号を取得した後、1981年(昭和56年)初めにパリ大学で博士課程を履修するためにパリにやってきた。フランス語、英語、ドイツ語が堪能だった。5月、大学の教室で佐川はルネに出会い、ひと目でルネに惹きつけられた。ルネが教室でダダイズムに関する論文を朗読しているときだった。ある日、帰りの地下鉄で佐川はルネと偶然出会い、2人は互いの博士課程の論文について語り合った。佐川の論文のテーマは「川端康成とヨーロッパ20世紀前衛芸術運動の比較研究」であった。日本初のノーベル賞作家・川端康成の作品と20世紀アバンギャルド文学を専門に研究していた。川端康成はロマン主義作風の作家で初期の作品はロマンチックな性描写と悲しみと憂愁に満ちている。
次の講義の後、佐川とルネはほかの学生たちと一緒にギリシア料理屋へ出かけた。このとき、一人の学生が次は日本食にしようと言い出し、佐川はその場で自分のアパートですき焼きを作ろうと提案した。しかし、やってきたのはルネただ一人だけだった。2人の会話は和やかに進み、佐川は自分の好きなベートーベンやヘンデルの曲を聴かせている。ルネが帰った後、佐川は長い間、夢にまで描いてきた倒錯的な性的幻想が高揚してくるのを感じていた。ルネの背後に回り、むき出しの肩のすぐ上あたりを狙ってカービン銃を発射する。そして服を脱がせてルネを食べる自分を想像した。
数日後、ルネがドイツ表現主義の詩集を録音するために佐川のアパートにやってきた。佐川はルネに高い報酬で依頼しており、ルネは喜んで引き受けている。だが、このとき佐川はルネ殺害計画を実行に移すことができなかった。
佐川の父親は水処理技術で知られている栗田工業の当時の社長・佐川明(3代目の社長/在任期間1977年10月〜1981年9月、事件を機に退任)であったが、栗田工業の社員が日本食を手土産に佐川のアパートを訪れた。東京からわざわざやってきた来客にパリの街を案内しようと考え、その夜、日本料理屋に行った。冷凍ケースに並ぶ生の魚を見て、佐川をとらえた思いがあった。
翌日、ルネが佐川の誘いに応じてアパートにやってきた。ルネが戸棚に背を向けて座り、詩を朗読していたとき、佐川は戸棚からカービン銃を取り出し、ルネの首に狙いを定め引き金を引いたが、なぜか不発に終わった。ルネは撃鉄が落ちる音にも気づかず朗読を続けた。
6月11日、3度目の機会が訪れる。ルネがドイツ近代表現主義の詩人・ベヒャーの詩を朗読し始めると、佐川は静かに戸棚からカービン銃を取り出し、ルネの首筋に狙いをつけ、ルネが読み終えたとき、引き金を引いた。即死だった。このとき、佐川は失神したという。
翌12・13日の2日間、佐川はルネの体から切り取った肉片を料理したり食べたりして過ごした。13日の夜、佐川は前日に購入しておいた2個のスーツケースに死体を詰めてブローニュの森へ遺棄した。
バラバラ死体の発見と同時にセンセーションが巻き起こった。2日後の15日に佐川が逮捕されるとフランス中の新聞が「人食い日本人」に関する毒々しい見出しとともに冷血殺人犯を連想させる無表情な顔写真を掲載した。逮捕された佐川はラ・サンテ拘置所に収監された。佐川の父親・明がパリに飛んで収監されている息子を訪問した。このとき、フランスで最も優秀で費用のかかる弁護士・フィリップ・ルメールに息子の弁護を依頼した。
日本の大手映画会社が佐川事件を映画化すれば大ヒット間違いなしと考え、劇作家の唐十郎に映画化するにあたり、脚本を依頼する話が持ち上がっていた。佐川はこのニュースを新聞で知り、ラ・サンテ拘置所から唐宛てに次のような書き出しの手紙を送った。
<突然御手紙を差し上げます御無礼をお許し下さい。私は、この六月に、オランダ人の若い女性を殺し、その肉を喰ってパリ警察に逮捕されたものです、、、>
思いもしなかった相手からの手紙に唐は喜んで返事を書いた。映画脚本の下書きにするための了解を得て、3ヶ月に渡り何度も手紙のやりとりが交わされた。
1982年(昭和52年)河出書房新社の文芸誌『文藝』11月号?に佐川との手紙のやり取りを元にした唐十郎の著書「佐川君からの手紙」が掲載される。これが1982年下半期の第88回芥川賞受賞作品となった。1983年(昭和53年)1月、河出書房新社から単行本として出版されると、わずか数週間で32万部を売り上げるベストセラーになった。
唐十郎(本名・大義英 [おおつる・よしひで] )・・・1940年(昭和15年)、東京生まれ。1960年代を代表する新進劇作家。アングラ演劇の始祖。1963年(昭和38年)に新設した劇団は状況劇場といい、テント興行するようになってからはその色にちなんで「紅テント」と呼ばれるようになった。演劇作品に『少女仮面』(1969)『ふたりの女』(1979)がある。2024年(令和6年)、死去。84歳だった。
1949年(昭和24年)4月26日、佐川一政は神戸で生まれた。体が非常に小さく、父親の手のひらに載るほどだったという。出生1年後には腸炎を患い、カリウムとカルシウムの静脈注射によって命を取りとどめていた。事件により逮捕されたとき、佐川の身長は150センチ、体重40キロだった(「35キロ」と書かれた参考文献もあり、はっきりしない)。
佐川によれば、食人の願望に取り憑かれたのは性的な目覚めよりもはるかに以前の幼いころのことで、いつの間にかそれが、女性の肉体を食べたいという願望に転じていったという。佐川が3歳のころ、佐川と1歳違いの弟・佐川純は新年会でいつも同じ遊びをしていた。母方の叔父・佐川満男が人食いの大男を演じ、子ども2人を捕まえようとする。それを助けるのが叔父の友人だった。だが、勝つのはいつも大男役の叔父だった。佐川はこの遊びによって病的なマゾヒズム的興奮を感じたという。思春期に入り性的な目覚めを経験するころになっても性交渉そのものよりも柔らかい女性の肉をむさぼり食うことを空想した。16歳のとき、精神科医にアドバイスを求めたが、医師は電話での相談には応じられないと言った。弟に相談しても兄が冗談を言っているのだと思ったという。
佐川純・・・1950年(昭和25年)生まれ。慶応義塾志木高等学校から慶應義塾大学文学部、専門学校東京デザイナー学院を経て大手広告代理店に勤務。50歳で退職後、油彩画家として活動。『カニバの弟』(東京キララ社/2019)という著書がある。
佐川満男・・・1939年(昭和14年)生まれ。歌手・俳優として活動、昭和期には芸能界で広く知られていた。代表的な歌に『今は幸せかい』(1968)があり、オリコン週間ランキングで1位を獲得している。
小学生時代の佐川は精神的にも肉体的にも活発で自分の体が小さいことを気にもしていなかった。中学生なると『戦争と平和』(ルイ・トルストイ/1869)『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ/1847)『若草物語』(ルイーザ・メイ・オルコット/1868)などを読む読書好きの少年だったが、これらの読書体験から欧米女性を天使のように考え、強いロマンティシズムを芽生えさせていった。
佐川は和光大学人文学部文学科3年生のときのある晩、団地に住んでいるドイツ人女性(当時35歳)の部屋へ忍び込んだ。殴りつけて気絶させ、肉体にかじりつく自分を想像したが、体に触れただけで大声で騒がれたため逮捕されたが、佐川の父親が示談に持ち込み、訴えを取り下げてもらっている。
28歳の時、佐川は関西学院大学大学院英文学専攻修士課程でウィリアム・シェイクスピア文学の研究で修士号を取得し、その後、パリへ留学する。佐川はシェイクスピア後期の戯曲『テンペスト』に特別な意味を見出していた。この戯曲は登場人物のキャリバンの荒々しい性格とミランダへの欲望で知られており、佐川は自分自身を重ね合わせている。フランス語で著した論文は教授たちから高い評価を受け、出版される予定だったが、事件により逮捕され、出版されることがなかった。
ある日、佐川は自室に美しいブロンドの売春婦を連れ込んだ。女がビデを使うためにバスルームに入ったとき、佐川はナイフを手に後を追ったが、実行できなかった。結局、佐川はこの女と普通にセックスをしたが、セックスが食人願望を紛らわしてくれることを知った。
だが、しばらくすると食人の空想が頭をもたげてきた。そこで、佐川は狩猟用22口径カービン銃を無許可で購入した。佐川は再び若い売春婦を部屋に入れた。だが、空想を実行に移すことはできなかった。
1979年(昭和54年)8月30日、『聖女 ジャンヌ・ダーク』(監督/オットー・プレミンジャー)、『悲しみよ、こんにちは』(監督/オットー・プレミンジャー)、『勝手にしやがれ』(監督/ジャン=リュック・ゴダール)などの映画作品に出演した女優のジーン・セバーグがパリ16区で車の後部座席で自殺しているのが発見された。佐川は憧れの対象だったジーンをスーパーマーケットのカートに乗せて自宅に運び、切り裂いて食べる様を空想した。
1980年(昭和55年)10月、佐川が一時的に日本に帰国。翌1981年(昭和56年)2月、再び、パリに戻り、川端康成とシュールレアリズムに関する博士論文に着手した。このころの佐川は自分の妄想を実現する行動に出なければならないと決意していた。そして、5月になり、ルネ・ハルテベルトに出会う、、、。
1983年(昭和58年)、予審判事・ジャン=ルイ・ブルギュリエールは佐川は殺人を犯した時点で心神喪失状態にあったとして刑事責任を問わず、不起訴処分とした。その措置としてアンリ・コラン精神病院へ無期限の入院を命じた。ブルギュリエールはフランス屈指の判事の一人でこれまで、何度も命を狙われたこともあり、裁判所内にある彼のオフィスは防弾ガラスに囲まれているという。
フランスの予審判事・・・刑事事件の捜査段階で登場する裁判官で検察官とは独立して証拠収集や捜査を指揮する権限をもち、逮捕や勾留の決定、捜索や差押えの許可、証人尋問などを行い、事件を公判に進めるかどうかを判断する。
1月、佐川の著書『霧の中』(話のの特集編集室)を刊行。
アンリ・コラン精神病院に14ヶ月間、収容された後、1984年(昭和59年)5月、退院し、日本へ強制送還。5月21日、日本へ向かう飛行機の中で、佐川は仕事熱心な記者やカメラマンに取り囲まれていた。さらに、成田で飛行機から足を一歩踏み出した途端、多数の報道陣に囲まれてしまう。翌22日、都立松沢病院に自由意志による患者として入院。病院側の診断結果では、佐川は人肉食の性癖など一切なく、フランス警察に対する欺瞞であるというものであった。松沢病院の当時の副院長・金子医師は、佐川は精神病ではなく人格障害であり、刑事責任を問われるべきであり、フランスの病院は佐川が1歳のときに患った腸炎を脳炎と取り違えて、それで誤った判断を下したのではないかとしている。日本警察も全く同様の考えであり、佐川を逮捕して再び裁判にかける方針であったが、フランス警察は不起訴処分になった者の捜査資料を引き渡すことはできないとして拒否した。翌1985年(昭和60年)8月12日、佐川が松沢病院を退院。
事件を起こした直後からの拘禁生活の4年間を終えて家族の元へ帰ることになった。父親は弁護士や入院費などのために巨額の費用を使っていたが、家族は温かく佐川を迎え、協力を惜しまなかった。
雑誌『話の特集』では数十ページに渡り、佐川との長時間インタビューと多数の写真を掲載した特集を組んだ。
佐川は普通の生活をするため、アパートを借りて引っ越しをし、名前も変えた。収入を得るため、主にSMや変態性欲を専門にするマイナー雑誌に原稿を書いた。佐川は常勤の仕事を探していたが、面接を受けるとすぐに身元がばれてしまい、不採用となった。皿洗いのバイトさえ、断られる始末だった。
佐川は暇つぶしに絵を描くようになった。
1989年(平成元年)7月、宮ア勤(当時26歳)が幼女4人に対する未成年者誘拐、殺人、死体遺棄などの容疑で逮捕されたとき、宮アが死体の一部を食べたと弁護士が発表すると、マスコミは佐川に電話でコメントを求めた。佐川はすでに名前を変えていたが、マスコミはすぐに居場所を探し出している。宮ア勤幼女連続殺人事件
1990年(平成2年)1月、ラ・サンテ拘置所での生活を執筆した『サンテ』(角川書店)を刊行。
事件をモチーフに制作された作品のイタリア映画『愛のかたち』(VHS/監督・アルド・ラド)が東京で公開されると佐川は再びマスコミの取材を受けるようになった。この作品には男が女の腕の一部を食べるシーンがあるが、佐川は感想を求められてあまりの興奮に3回も勃起したと答えている。
同年、エッセイとインタビューをまとめた『生きていてすみません 僕が本を書く理由』(北栄社)を刊行。表紙の絵は暇なときに画いた自画像。
1991年(平成3年)、『霧の中』の改訂版『蜃気楼』(河出書房新社)、『カニバリズム幻想』(北栄社)という短編集を刊行。
1992年(平成4年)、ドイツ・ハンブルグのテレビ局のプレミア・メデイアンが「0137」というトークショーに佐川を招待した。だが、佐川は日本に送還されて以来、パスポートの発給を拒否されていた。このとき、外務省に対し、佐川は無罪となっているため、法的には犯罪歴とならないことからパスポートの発給をするよう異議を申し立てた。結局、パスポートは発給され、佐川はドイツを訪問した。テレビ・インタビューでは自分の生活や過去の殺人について語った。佐川はルネ・ハルテベルトを殺害したとき、妄想の世界をさまよっていることを認めると同時に殺害行為自体やその後に続いた行為によって暴力に対する欲望はなくなったと語った。
日本に帰国するとパスポートが再び没収された。
佐川は自宅でフランスの雑誌『VSD』のインタビューに応じ、美しいヌードモデルを前に絵を描いているポーズで写真を撮らせている。だが、佐川に届けられた掲載誌を見ると写真は加工されていてヌードモデルにナイフとフォークが二重写しになっていた。
1993年(平成5年)、『喰べられたい 確信犯の肖像』(ミリオン出版)を刊行。
英国の1時間のドキュメンタリー番組が佐川の自宅で撮影された。タイトルは『Excuse Me for living』(生きていてすみません)だった。殺人などの著書が多い英国の作家・コリン・ウィルソンがナレーションを担当している。この番組では佐川の生涯に対して事実に基づいた心理学的考察が加えられた。
1994年(平成6年)、パリ時代の生活をつづった小説『華のパリ 愛のパリ 佐川君のパリ・ガイド』(アイビーシー)を刊行。
1995年(平成7年)、コリン・ウィルソン&佐川一政&天野哲夫の共同著書『狂気にあらず!? 「パリ人肉事件」佐川一政の精神鑑定』(第三書館を刊行。
1996年(平成8年)、コリン・ウィルソンとの共著『饗(カニバル)』(竹書房)を刊行。
1997年(平成9年)、『殺したい奴ら』(データハウス)、神戸須磨児童連続殺傷事件の少年Aについて佐川自身の14歳のときと比べながら考察する批評本『少年A』(ポケットブック社)を刊行。
1998年(平成10年)、根本敬との共著『パリ人肉事件 無法松の一政』(河出書房新社)を刊行。
2000年(平成12年)、『まんが サガワさん』(オークラ出版)を刊行。2006年(平成18年)、事件後と家族のことをつづった『業火』(作品社)を刊行。
2008年(平成20年)、『極私的美女幻想』(ごま書房新社)を刊行。
2019年(令和元年)7月12日にパリ人肉事件を撮ったドキュメンタリー映画『カニバ パリ人肉事件38年目の真実』(監督・ヴェレナ・パラヴェル&ルーシァン・キャステーヌ=テイラー/フランス・アメリカ合作作品)が主に東京・渋谷のユーロスペースなどアート系映画館で上映された。全国の大手シネコンでは公開されず、ミニシアターを中心とした限定公開だった。この作品は第74回ヴェネチア映画祭でオリゾンティ部門審査員特別賞を受賞した。
2022年(令和4年)11月24日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。73歳だった。
2024年(平成6年)、『霧の中』の英語版『In The Fog』を刊行。
参考文献・・・
『週刊 マーダー・ケースブック 創刊号=1・2号合併号(2号「パリ留学生人肉食事件)』(省心書房/1995)
『犯罪の昭和史 3』(作品社/1984)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
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