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1982年(昭和57年)2月7日(日)午前9時半過ぎ、大阪市西成区の文化住宅「グリーンハウス」の2階に住む無職の橋田忠昭(当時47歳)が7人を死傷させる事件を起こした。きっかけは橋田の妻のA(34歳)との夫婦喧嘩だった。
Aが宗教の会合に出掛けようとしたとき、橋田は「朝食の用意くらいしていけ」と文句を言った。Aは無視して、そのまま出ていこうとした。橋田はAの手を掴んだ。Aは「やめてよ、このぐうたらが」と叫んで、橋田の手を振り払った。
逆上した橋田は、台所に飛び込み、刃渡り20センチの刺身包丁を持ってきて、Aの胸を刺した。驚いて、止めようとした一人っ子の息子のB(当時11歳)も刺してしまった。Aはその後、病院に運ばれたが、午前10時半ごろ、死亡し、Bは全治2週間の怪我を負った。
血を見てますます錯乱した橋田は、東隣りの建設作業員のC(当時34歳)の部屋に押し入り、Cを刺したあとCの妻のD(47歳)にも襲いかかった。夫婦は、血まみれになって、2階の廊下に逃げ出した。CとDはその後、病院に運ばれたが、Dが午前10時20分に死亡した。
悲鳴を聞いて、同じ2階に住むE(当時39歳)の妻のF(当時34歳)が廊下に飛び出し、血を流しながら逃げて行くCとDを見た。
Fは仰天して、自分の部屋に駆け込み、夫のEに向かって、救急車を呼んでと大声で叫んだ。その声を聞きつけて橋田は「なにをすんのや」と叫びながら、Eの部屋に飛び込んできた。そして、たまたま、食事をするために来ていた同じアパートの住人のG(49歳)の胸を刺した。そして、橋田は1階へ駆け下りていった。Gはその後、病院に運ばれたが、午前10時20分ごろ、死亡した。
橋田の目の前で、H(56歳)宅のドアが開いた。娘のI (当時20歳)が出勤しようと出てきたところだった。I と鉢合わせする格好になった橋田は、いきなり、I の顔に切りつけた。悲鳴を聞いて飛び出したHの胸を刺した。Hは逃げる橋田を追いかけたが、力尽きて失血死した。
5分後、橋田は通報で駆けつけた西成署員に逮捕された。これで、4人が出血多量などで死亡し、3人が重軽傷を負った。
橋田は、これまでに殺人未遂、窃盗などの罪で前科6犯、以前から覚醒剤の常習者で、この事件の7年前にも、幻覚症状から妻を切りつけ、2年の刑に服していた。このあと、慢性すい炎で入退院を繰り返していたが、覚醒剤は打ち続けていた。事件を起こした頃には毎日のように覚醒剤0.02グラムを注射していた。当時、定職がなく、月14万円の生活保護と妻の収入で暮らしていたが、妻との間は険悪になっており、普段から喧嘩が絶えなかった。近所の人々も、異常な言動から、覚醒剤常習者だと気づいていて、半年前にも連名でなんとかしてくれと警察へ願い出ていたが、単なる夫婦喧嘩とされた。
取り調べに対し、橋田は、「近所のやつらは、神経質なわしに嫌がらせをするため、毎日、大きな音をたてるんです。死刑になってもいいから、やつらを殺してやろうと考えるようになった。女房のやつも、宗教に凝って、わしをほったらかしにしていた。だから、仕返ししてやろうと思ってた」と述べた。
1984年(昭和59年)4月20日、大阪地裁は、橋田忠昭に対し、心神耗弱による法律上の減刑をした場合の最高刑の無期懲役の判決を言い渡した。
現代の刑法では、責任能力の有無が問題にされているが、刑法39条では、心神喪失者は責任能力がないとされている。「心神喪失」とは「ものごとの是非善悪を理解する能力がなく、またはこの理解に従って行動する能力を欠く状態」を指すとされ、処罰されない。また、刑法39条2項では、「理解し、理解に従って行動する能力の著しく低い」者は、「心神耗弱」として、刑を軽くすることになっている。但し、心神喪失も心神耗弱も医学的判断とは別で、法律上の考え方であり、精神鑑定では責任能力なしと出ても、裁判官が独自に能力を認める場合もある。
この事件の前年の1981年(昭和56年)は覚醒剤の第2次濫用期のピークにあたり、覚せい剤取締法違反で検挙された者が2万5000人になったが、この年の6月17日に東京都の深川で同じく覚醒剤常習者の川俣軍司による通り魔で4人を殺害する深川通り魔殺人事件が起きている。凶器はやはり包丁であった。
参考文献・・・
『別冊歴史読本 日本猟奇事件白書』(新人物往来社/1988年7月号)
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