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深川通り魔殺人事件

【 事件発生 】

深川通り魔殺人事件のあった1981年(昭和56年)は覚せい剤の第2次濫用期のピークにあたり、この年の覚せい剤取締法違反の検挙者数は2万5000人であった。

深川・・・現在の東京都江東区の西半分で隅田川と横十間川の間の地域を指し、1947年(昭和22年)、深川区と城東区が統合して江東区となる。

東京・・・1868年(明治元年=慶応4年)、江戸を「東京」と改称。1878年(明治11年)、東京府15区6郡成立。1889年(明治22年)、東京府15区に市制、東京市とする。1893年(明治26年)三多摩(北、南、西多摩)郡を神奈川県より移管。1932年(昭和7年)、府下5郡82町村を東京市に編入、20区を新設し、合わせて35区となる。この時点で、現在の東京23区とほぼ同じ範囲となる。1943年(昭和18年)、東京府は東京都となり、同時に東京市を廃して区を東京都の直下に置くこととなった。1947年(昭和22年)、22区に統合。その後、板橋区から練馬区を分離し、23区となる。

深川での通り魔事件以外にも、1980年(昭和55年)前後から、覚醒剤濫用者による殺人事件が目立つようになった。

1979年(昭和54年)2月12日、大阪市難波「南OSプラザビル」の地下婦人トイレで、少女(当時17歳)が、洋品店に勤める女性(25歳)を包丁で刺殺。「うち、刑務所に入りたかったんや」と自供。

1981年(昭和56年)5月24日、東京都台東区鶯谷で、とび職の鈴木秀丸(38歳)が、すし店から包丁を奪い、繁華街を歩いていた会社社長の男性(39歳)を刺殺し、路上で割腹自殺。

6月17日、東京の深川で通り魔殺人事件発生。

1982年(昭和57年)2月7日、大阪市西成区で無職の橋田忠昭(当時47歳)が自宅アパートの住民ら4人を包丁で刺殺。西成覚醒剤常習者通り魔事件

1981年(昭和56年)6月17日午前11時35分ごろ、東京都江東区森下2丁目14番3号の喫茶店「ロアール」前路上において、川俣軍司(かわまたぐんじ/当時29歳)は、ベビーバギーに長男の博明ちゃん(1歳)を乗せ、長女の統子ちゃん(3歳)を連れた近所に住む主婦の長野るみ子(27歳)が通りかかるや、持っていた刃渡り22センチの柳刃包丁で、長男の腹部などを突き刺し、るみ子の後ろから背中を突き刺し、統子ちゃんの胸を突き刺して、母子3人を死亡させ、さらに、そこから約10メートル前方の「三河屋酒店」前を通行中の二本松美代子(33歳)の腹部などを突き刺し死亡させ、またさらに、そこから約15メートル前方の「森下診療所」前を通行中の米田愛子(仮名/当時71歳)の腹部を突き刺し、加療4ヶ月の重傷を負わせた。次に、そこから約10メートル前方の「花菱化粧品店」から出てきた森川明子(仮名/当時39歳)と、鉢合わせになった。明子は刺されると思い、とっさに右手で包丁を払った。そのとき、明子は手首に加療2週間の怪我を負う。

午前11時40分ごろ、川俣は中華料理店「萬來」前を通行中の山辺咲子(仮名/当時33歳)を人質に、「萬來」の奥6畳間に引きずり込んだ。「萬來」は開店前で客はいなかった。川俣は6畳間にいた店の経営者夫婦と子供に対し、「てめえら出て行け、出て行かないと殺すぞ」と怒鳴った。それで、この夫婦と子どもは裏口から逃げた。包丁で咲子の背中に加療1週間の怪我を負わせ、立て篭もった。

すし店員に変装した刑事たちが、曇りガラス越しに、説得に当たっていたが、川俣は「つまらんこと言うな、うるさくすると刺すぞ、何人殺しても同じだ」などと怒鳴り散らし、一向に説得に応じる様子がなかった。

川俣は人質の咲子に命じて、口述筆記をさせた。

<電波でひっついている役人の家族をすぐつれて来い。次に書くすし店の夫婦を、全員つれて来い。銚子の水産会社の夫婦もつれて来い。半日以内に来なければ人質を殺す。おれがこういうことをしたのも、みんなひっついている役人が悪いからだ。電波でひっついているからだ。人が死んだのも、役人とグルになっておれを苦しめた、すし店と水産会社が悪いからだ>

書き終わり、これが警察の手に渡ると、店のテレビをつけNHKにチャンネルを換えた。

午後0時、立て篭もって20分ぐらいしてからニュースが流れた。

午後1時半ごろ、川俣は、外にいた警察官に「冷たい牛乳をジョッキに入れ、ワリバシと一緒に持って来い」と要求した。

午後2時ごろ、川俣は先の欠けた包丁を尖らせるために、「砥石を持って来い」と要求した。

しばらくして、牛乳とワリバシが差し入れられた。川俣は人質の咲子にワリバシでかき回させ、2口くらい飲ませてから、自分で3口ほど飲んだ。

砥石が差し入れられ、川俣は砥石を人質の咲子の肩に乗せて、1時間くらいかけて包丁を研いだ。

午後3時半ごろ、その後のニュースで、川俣は4人が死んだことを知る。

その後、川俣は「カレーライスと大ジョッキーでジュースを持って来い」と要求した。

午後6時54分ごろ、川俣がちょっと目を離した隙に、咲子がガラス戸を開けて調理場の方へ逃げ出したので、刑事たちが調理場奥の6畳間に突入し、柳刃包丁を振りかざして抵抗する川俣を逮捕した。

「萬來」から引きずり出された川俣は、ズボン、靴をはかずに白いブリーフ、白いハイソックス、自殺防止の白い布を銜えさせられ、いかにも異様な姿であったが、このときの姿がテレビ中継されたことで、世間の注目を集めることになった。

【 本人歴 】

1952年(昭和27年)2月21日、川俣軍司は、茨城県鹿島郡波崎(はさき)町太田に生まれた。波崎は、西は利根川、東は太平洋に挟まれた細長い町である。県境の利根川を渡ると千葉県の銚子市がある。

父親は東京の下町育ちだったが、戦後、ここで漁師になった。蜆(しじみ)採り専門だった。軍司には、兄と姉2人と弟がいたが、長姉が幼児のとき死亡している。軍司が生まれた頃、一家は経済的に最悪であり、母乳が足りないため、重湯で育てられた。

1958年(昭和33年)4月、町立太田小学校に入学。軍司の成績は5段階評価で「2」が多く、「3」が少しだった。授業中はほとんど発言せず、話しかけられても笑うだけの気の弱い児童で、友達が少なかった。

1964年(昭和39年)4月、波崎第3中学校に入学。軍司はここでも目立たない生徒だった。クラブ活動は園芸部で温和しい。あだ名は「ニタリスト」で、中2のとき先生にニタニタ笑いを注意されて、教室でいつまでもポロポロと涙をこぼした。

1967年(昭和42年)3月、中学校を卒業。この頃の高校進学率は90%を超えていて、波崎第3中学校の卒業生140人のうち、ほとんどが新設の波崎高校へ進み、就職するのは10人前後だった。

軍司は波崎高校には、なんとか入れそうなので、父親が進学を勧めたが、軍司は「父ちゃんがこんなに困っているのに、自分だけ上の学校に行くわけにはいがねぇ」と言って進学しなかった。

「俺は学問するより、手に職をつけたい。やっぱり東京へ出て、板前になる」

3月末、軍司は銚子大橋をバスで渡り、銚子駅から東京行きの集団就職列車に乗った。

軍司が住み込みで働くことになった店は築地6丁目にあるすし店だった。ここは本店だが、他に銀座に支店があった。

名が珍しいせいもあり、もっぱら「軍司」「軍ちゃん」と呼ばれ、本人は「はい」「はい」と素直だった。

軍司は目立って器用ではなかったが、手先はまあまあだった。

すし職人が一人前になるには、修行期間が必要だった。[ 洗いもの ]に半年、[ 出前、河岸上げ ]に半年後から1年、1年半後から[ ごはん炊き ]、4年目から[ 花板 ]の助手として[ 下板 ]として、[ のり巻き ]をやらせてもらい、早ければ5年目から[ 花板 ]となる。

1970年(昭和45年)夏、軍司は酔って近所の「築地大映」のスチール写真展示のガラスを割り築地署に連行された。理由は「市川雷蔵が気に入らない」というものだった。

10月、軍司は就職して3年半で、ようやく[ のり巻き ]の段階に入り[ 下板 ]として、休日以外は休まずに、真面目に働いていたが、半年前に、板前見習いとして住み込みで働くようになった同い年の後輩と折り合いが悪く、店を辞めてしまった。この後輩は少年院を仮退院中の身であった。

次に就職したのは、新聞広告を見て応募した、江戸川区小岩のすし店だった。軍司はここでも真面目に働いたが、3ヶ月後に解雇させられた。それは、軍司が刺青を入れたからであった。

店の板前に、背中に刺青を入れた者がいて、軍司は「兄貴」と呼んで慕って、羨ましくてしかたなかった。「兄貴」と呼ばれた板前は刺青を入れるのを止めさせようとしたが、軍司がどうしても彫りたいと言ってきかない。築地の店で働いていたとき、少年院帰りが刺青を入れていて、ヤクザっぽく振る舞って、軍司をいじめた。そのことがあったのだろう。軍司は念願かなって、腕に刺青を入れることができた。

解雇の理由は、刺青だけではなく、客に勧められた酒で酔った挙句、客にからみ、それで刺青をちらつかせたりしたからであった。

その後、東京周辺のすし店を転々として、短いときは数日で辞めさせられた。

1971年(昭和46年)2月、19歳になった軍司は、波崎町の実家に帰り、銚子市内のすし店で働きながら、自動車教習所に通い、4月に普通乗用車免許を取得した。

軍司は、自分は客商売に向いていないと悟ったのか、すし店を辞め、銚子市内の運送会社のトラックの運転手になったが、長続きしなかった。再び、東京へ出て、台東区の土建会社で働き始めた。

この頃から、軍司はたて続けに事件を起こすようになる。いずれも酒に酔っての犯行だった。

同年6月6日、台東区浅草で通行人を脅して現金を出させ、恐喝罪により東京地裁で懲役2年・執行猶予3年の判決。

1972年(昭和47年)3月8日、20歳になった軍司は、足立区千住で暴行傷害事件を起こし、東京簡裁で罰金3万円。

9月29日、富坂で暴行傷害事件を起こし、東京地裁で懲役10ヶ月の実刑判決。未成年のときの執行猶予も取り消されて2年10ヶ月、川越少年刑務所で服役することになった。

1975年(昭和50年)9月、服役態度が悪かったのか、仮釈放もなく、満期出所する。

その後、千代田区秋葉原の運送会社で、トラック運転手として働き始めた。

1976年(昭和51年)4月14日、道路交通法違反を起こして、罰金4万円。

5月10日、文京区の飲み屋でヤケ酒を飲んで凄んだ。110番通報されてカッとなり、客や店員相手に暴れているところを富坂署員に逮捕された。これで、懲役10ヶ月の判決。

水戸少年刑務所に送られる。名称は少年だが、実際は30歳未満の初犯者が大多数だった。

1977年(昭和52年)4月18日、刑務所を出所。

その後、軍司は父親の蜆採りの跡を継ぐことになり、がむしゃらに働き続けた。だが、出漁中に船上で父親にちょっと注意されると、それが気に入らないと暴れ出す。

「くそじじい、川にぶちこまれたいか」

家に帰ると、母親に当たり散らす。

「くそばばあ、こんなもんが食えるか」

とうとう、両親は家を出て、利根川をへだてた長男宅へ逃れた。だが、軍司1人では蜆採りは出来ないので、弟が手伝うことになった。

1978年(昭和53年)3月ごろ、軍司はカネ回りがよくなって、派手に飲み歩いているうちに、波崎や銚子の暴力団と交際をし始めた。そのうち、覚醒剤に手を出すようになった。

4月、養殖ものが禁漁になって、蜆専門の軍司は暇になった。外車を乗り回し、銚子で遊ぶうちに、松本町3丁目のナイトレストラン「絹」の馴染みになった。ここにはフィリピン人のホステスが5人いたが、軍司は外へ連れ出すわけでもなかった。だが、見栄っ張りなところがあり、ビールを5、6本まとめて注文して、ホステスや居合わせた客に振る舞ったりした。

軍司は、どういう心境の変化か、頭をツルツルに剃って、海坊主みたいになったが、蜆漁が解禁になると、一所懸命に働いた。

また、新生(あらおい)2丁目のクラブ「誘惑」にも出入りしていた。軍司はここの店のナンバーワン・ホステスに惚れ込んでいたが、軍司が刺青をちらつかせたりしたので、ママはそれ以来、軍司を店に入れようとしなかった。

5月、軍司はこの店の近くのアパートに引っ越し、その後、蜆漁を放棄し、持ち船を70万円で売却した。車は外車からスカイラインに替えて、アパートの前の空き地に停めていた。ここは子どもの遊び場でもあった。ボンネットに腰かけたり、ボールを当てたりしようものなら、軍司は部屋の窓から怒鳴った。

「くそガキ、ぶっ殺されたいか!」

10月17日、クラブ「誘惑」のナンバーワン・ホステスには夫がいたが、客に対しては夫がいない素振りを見せていた。それは、客を失いたくないためであったが、軍司はこのナンバーワン・ホステスに夫がいたことを知って大いに怒り、クラブの送迎マイクロバスの出発時刻に待ち伏せして、彼女が乗り込もうとしたところを呼び止め、包丁で傷つけて逮捕された。これで、懲役1年の判決。

1979年(昭和54年)11月17日、刑期を少し残して、府中刑務所を仮出所した。

身元引き受け人の父親が迎えに来て、銚子に帰ると保護観察所へ顔を出した。仮釈放中は司法保護司の観察下におかれ、月に2回以上は面接を受け、更生の意欲の有無を判断される。もし、保護司が観察報告書に「不良」と記入すれば、仮釈放を取り消されかねない。

その後、保護観察所の紹介で、銚子市内の警備会社に就職し、ガードマンになったが、相変わらずの乱暴な口ぶりで派遣先でのトラブルが絶えず、上司に注意されると、無断欠勤や無断早退をするようになり、1ヶ月後に解雇されてしまった。

その後、職業安定所の紹介で、銚子市内のすし店に就職したが、すぐに辞めている。

1980年(昭和55年)2月8日、軍司は、職業安定所の紹介で、銚子市神明町2丁目の水産会社に就職した。この会社では「サンマ開き干」「サバ文化干」「イワシ丸干」を主製品としていた。無口な軍司はコツコツと働いた。だが、3月に入ると、軍司は、刑務所でも土曜は半ドンで、日曜・祝祭日は休日になると、専務に抗弁して、日曜出勤を拒否した。やがて、同僚の視線が冷たくなり、居ずらくなって、4月15日付けで解雇された。

5月1日、職業安定所の紹介で、銚子市内の運送会社に就職した。だが、要領がのみこめないのか、他の社員と馴染もうとせず、ブツブツと独り言を繰り返していた。突如として肩を怒らせてヤクザっぽい言葉を使い顧客に反抗したりした。

「なめるんじゃねぇ。俺には黒幕がついているんだ」

ダミ声で凄んでおいて、同僚にはペコリと頭を下げる。

同僚が「黒幕って?」と訊いても、軍司は「いやあ」と言ってそっぽを向き黙り込んでしまう。5月23日、自ら退職を申し出た。

この頃、母親は子宮ガンを患って入院していた。回復の見込みがなく、軍司は日増しに苛立って、家の中でも荒れることが多かった。

その後、銚子市内の水産会社などを転々とした。

7月13日、飲酒運転で人身事故を起こす。警察官に言われて差し出した免許証は更新手続き切れだったから、無免許運転と同じ扱いとなった。2月に市内で接触事故を起こし相手を殴っていたので、道交法違反と暴行を併合して起訴され、拘留の身で公判を待っていたが、8月17日に母親が死亡したため、拘留を停止された。

自宅での葬儀のさなか、大声で喚いたりしてヒンシュクを買い、制止した弟と口論となった。

「こんなとき、みっともねえ。静かにしろって」

「だって坊主が、俺にケンカを売った」

「お坊さんが?」

「俺のこと “海坊主!” って、振り返って言ったじゃねえか」

「そんなこと言うわけねえ」

「その前に皆で、おっかあの悪口を言った。それで大笑いして、厳粛な葬式を何だと思っていやがるんだ」

「バカこくでねえ」

「弟のくせに、俺をバカと言うのか!」

兄弟で、掴み合いのケンカになり、さんざんな葬儀になってしまった。酒に酔っているわけでもないのに、この醜態は何だろうと話題になり、覚醒剤中毒ではないかと噂になった。

これで、懲役7ヶ月の判決。

1981年(昭和56年)4月21日、29歳になった軍司は、府中刑務所を刑期満了で出所。作業賞与金として、8415円を受け取り、表門を出た。その足で、電車に乗り渋谷駅で降りて、金物屋で柳刃包丁を買った。このあと、軍司は銚子市の実家へ電話をかけたが、父親からは相手してもらえず、兄の勤務先にかけた。

「今回の懲役ほど、苦労したことはなかった。親兄弟までグルになって、俺をいじめるとは思わなかったが、おかげで、“電波・テープ”にひっつかれた。俺は黒幕から麻酔を注射して殺される。その前にいっそ、舌を噛んで死んでやるが、それでも兄貴は平気か?」

12歳違いの兄は厄病神のような弟の出所に愕然としながらも、援助することを約束し、その日、軍司に会って3万8000円を渡した。このとき、兄は軍司に、家には戻って来ないことを約束させた。

「頼まれても家になんか、帰ってやるもんか。親兄弟までグルになって、俺を苦しめやがってよ。だが、俺は負けるもんじゃねえ。世間のヤツがどんなに妨害しようと、俺は結婚して子供を作る」と言って、「すし職人」のところに、いくつも印のついた新聞の求人広告欄を突きつけて見せた。

その数日後、軍司は港区芝のすし店に、電話をかけ、求人広告を見た、と言って面接し、住み込みで雇ってもらうことになった。

「一からやり直すつもりなので、よろしくお願いします」

軍司は店主に給料の希望を訊かれ、「20万」と答えたが、店主は「最低15万は出すけど、とりあえず、仕事を見せてもらってから決めさせてもらう」と言った。軍司は素直に納得した。

5月に入って、軍司は、「仕事もだいぶ慣れたから、月20万もらいたい」と言ったが、店主は「今の仕事なら、せいぜい16万だ」と答えた。続けて「どうしても20万欲しいなら、もっと働いてもらわねば」と言うと、「じゃあ、クビにしてもらいたい」「そんな言い方はないだろう」「俺は他にも働き口があるんだ」そんなやりとりがあって、遅刻が続いた。

5月14日、店主は軍司を解雇した。

5月16日、軍司は新宿区歌舞伎町のコマ劇横のすし店で面接を受け、その日の遅番から働き始めた。

だが、社長である母親が、「気持ち悪いから辞めさせよう」と言い出したのである。確かに、専務も、普通の人とちょっと違う感じを抱いていた。

初日の16日に顔を合わせても、ロクにあいさつをしない。仕事ぶりをみてもキビキビしたところがなく、目つきが悪いし、言葉使いがヤクザっぽい。ひと言で言えば、気持ち悪いのである。

5月18日、専務は軍司を解雇した。

「おめえ知らねえわけじゃあるめえ」

「なんのことだい?」

「殺されてぇのか」

専務はなんのことかすぐには分からなかったが、軍司が刺青をしていたことを思い出した。

5月19日、軍司は墨田区錦糸町のすし店に応募して、面接を受けた。「経験は5年で、これまで20万円をもらっていた」と言ったが、店長は「18万ぐらいしか出せない」とキッパリと言った。軍司は「それでも構わない」と素直に応じた。

経験5年の板前にしては積極性がなく、ボーッと突っ立っていることもあった。

働き始めて4日目に遅刻したので、店長が寮にしているアパートに起こしに行った。店長は軍司を雑談でもして励ましてやろうと、店が空いたときに、喫茶店に誘った。店長は解雇のことなど考えていなかったが、席に着くなり、「どうせ辞めさせるんだろう」と突っかかった。店長は黙って店に帰り、4日分の給料を持って戻ると、軍司に渡した。

そして、店長は軍司を解雇した。

5月27日、軍司は江東区野島のすし店の面接を受けた。「経験7年だから、住み込みで20万円欲しい」と言った。店主は「住み込みはいいとして、20万は出せない」とビシッと言った。

「出前でもなんでも、一所懸命やりますよ」

翌28日、軍司は働き始めたが、昼過ぎに、皆と一緒に食事をしていたときに、それまで普通に振る舞っていた軍司が体を丸めて「おう、おう・・・」とうめき始め、蒼ざめた肌から脂汗がしたたり落ちた。

店主はあとで、こっそり問い質した。

「お前、まさか、覚醒剤やっているんじゃないだろうな」

この頃、覚醒剤が社会問題化して、テレビでは禁断症状がどういうものかをよくやっていた。

店主は妻から「早くクビにして」と強く言われた。パートのおばさんは最初から薄気味悪くてイヤだとおびえている。また、腕の割りには18万は高過ぎた。

翌29日、店主は軍司を解雇した。

軍司は「どこか悪いところがあったら言ってください。俺、一所懸命、直しますから」と訴えたが、聞き入れてもらえなかった。

同日の夕方、軍司は千葉県浦安市のすし店で面接を受けた。店舗はショッピングセンターにあり、折詰めのみやげがよく売れる店だった。軍司は、おみやげ専門の板前になった。あいさつはきちんとしたが、言葉使いが乱暴だった。

6月1日、店長は軍司を解雇した。

軍司は「今までの態度を改めるから使ってほしい」と訴えたが、店長は「職場の和が保てない」と言った。

6月5日、軍司は渋谷区代々木のすし店に採用された。

翌6日は日曜で定休日だった。軍司は歌舞伎町で飲んで、酔ってアラビア人にからみ、交番に突き出された。

店に帰ると、くどくどと同僚に自分の行為の正当性を訴え、次の日も同じことを繰り返した。

9日、店主は軍司を解雇した。

11日、中央区日本橋の大衆割烹で面接を受け採用になり、翌12日から働き始めた。

翌13日、午後の休憩時間に自分の方から辞めてしまった。

16日、軍司は中央区銀座にあるすしのチェーン店本部に面接に行った。その結果は翌日に電話で知らせてもらうことになっていた。軍司は採用されると思っていた。

用心のため、江戸川区葛西(かさい)と港区田町の2つのすし店の面接を受けたが、「出前をしてもらうよ」「給料の前貸しはしない」と追い返さんばかりの応対だった。

翌17日(犯行当日)、軍司は昨日の面接の結果を聞くために、公衆電話からかけた。

「川俣軍司さんですね」

「おう」

「申し訳ないんですけど、当社の規定に、ちょっと合わない部分がありますので、今回は勘弁していただけませんか」

「おう、おう、おう」

軍司の声はビックリした感じでもなく、ガッカリした感じでもなかった。

軍司は電話を一方的に切って、手提げバッグを持って商店街に向かった。歩きながら、バッグから柳刃包丁を取り出した・・・・・・。

【 その後 】

その場で逮捕された川俣軍司は、警察に取り押さえられたときのケガの手当てを飯田橋の警察病院で受け、捜査本部が設けられた深川署へ連行されると、犯行動機についてすらすら供述した。

「犯行の前に、すし店に就職を申込んだが、断られたため、カッとなって次々に襲った。俺には電波がひっついているので、黒幕をあばく目的で人質を取った」

「子どもを持つ人がうらやましく、手当たり次第うっぷん晴らしをしてやった。死んだ人に気の毒とは思わない。子どもの父親が来たら、いつでも会って怨みを晴らさせてやる。俺の腹を刺せばいいんだ」

「死んだ人間は、これも運命だ。俺はサムライだから、殺された町人も幸せだろう。刺したときは気分がスッとして、うまく殺せたと思う」

逮捕当日から4回に渡り、川俣の尿を採取し、鑑定した結果、いずれも覚醒剤の含有が推定され、フェニル・メチルアミノプロパンが検出された。

1982年(昭和57年)9月29日、第9回公判が行われたが、この日、裁判長が自ら被告人の川俣に質問した。そこで、“電波” の内容について訊かれた川俣は次のように供述した。

「たとえば私の体の部分部分にですね、目・鼻・口・耳に寸刻の休みもなく流れる電波、男女の異常きわまる声。具体的に申しますと、さきほど言ったホモ行為、同性愛に関することに終始しているわけです。そして言葉、行為に関連する、異常なしつこい心理的方法によって、私の体の部分部分に異常にしつこい電波、たとえばフラッシュですね、フラッシュ。それに類似したものによって意識を、その男女の行為に合わせ、鼻ですと電波によって意識をそこに集中させ、フラッシュに類似した方法によって閃光がですね、22回パッパッと意識させられる。その22回が突然ストップ状態になり、その言葉に関連して自分が息を吸うたびに、逃げられないつらい立場に追い込まれる。さらに電波が強制的にメソメソさせたり、苦しい状態を持続させたりする。これが目であれば瞬きするたび、口・歯・舌であれば食事をするたび話すたび、耳であれば人の声を聞くたび物音を聞くたび、そして頭の内部と脳に対して意識をフラッシュに類似する方法により、脳の状態を想像させられる。男女の声は物を考えるたび、執拗に刺激的に考えさせられる。これは洗面中に歯ブラシを使っているとき頭・顔、そして私があらゆるものを使用しているとき、同種の心理方法により伝えられ、日常私が器物をつかんだり触れたり、足元に触ったとき、歩いているとき、寸刻の休みもなく異常な男女の声、その声に関連する妄想状態が、昼夜の区別なく続くのです」

12月23日、東京地裁は、被告人は犯行当時、心神耗弱状態にあったとして、無期懲役を言い渡した。

現代の刑法では、責任能力の有無が問題にされているが、刑法39条1項では、心神喪失者は責任能力がないとされている。「心神喪失」とは「ものごとの是非善悪を理解する能力がなく、またはこの理解に従って行動する能力を欠く状態」を指すとされ、処罰されない。また、39条2項では、「理解し、理解に従って行動する能力の著しく低い」者は、「心神耗弱」として、刑を軽くすることになっている。但し、心神喪失も心神耗弱も医学的判断とは別で、法律上の考え方であり、精神鑑定では責任能力なしと出ても、裁判官が独自に能力を認める場合もある。

この事件を元に佐木隆三が 『深川通り魔殺人事件』というタイトルでドキュメンタリー小説を書いたが、この作品が同タイトルでテレビドラマ化された。『深川通り魔殺人事件』(演出・千野皓司/主演・大地康雄/1983)

参考文献・・・
『白昼凶刃』(小学館/佐木隆三/2000)
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『人格改造マニュアル』(太田出版/鶴見済/1996)

『別冊歴史読本 日本猟奇事件白書』(新人物往来社/1988年7月号)

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