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西口彰連続強盗殺人事件

1925年(大正14年)12月14日、西口彰(あきら)は大阪で生まれた。両親は故郷の長崎県五島列島から大阪に出稼ぎに出ていたが、西口が3歳のころ、五島列島に帰っている。西口の父親は早くから網元を目指していたが、稼ぎ貯めた金に親類縁者の出資で、アジ・サバ漁の船2隻(そう)を持つ網元として成功し、島の有力者となった。

1936・7年(昭和11・12年)ころ、父親は急に網元をやめて福岡県行橋(ゆくはし)市で果樹園を経営するようになった。その後、持病の喘息が悪化して農業が無理となり、別府市に温泉旅館を一軒購入し、旅館経営を始めた。

五島列島には江戸時代より隠れキリシタンの伝統があり、西口も中学からは福岡市にあるミッションスクールに入れられている。生まれたときに洗礼を受けており、西口はカトリック教徒である。父親は西口を修道士や神父にさせたいと思っていたのだが、西口は戒律の厳しい全寮制の生活に耐えられず、ミッションスクールは3年の2学期に中途退学してしまった。

1942年(昭和17年)1月、16歳のとき、詐欺罪で別府署に逮捕され、福岡少年審判所(現・家庭裁判所/以下同)で保護処分。

少年審判所・・・家事事件は家事審判所で、少年事件は少年審判所でそれぞれ別個に取り扱われていたが、家事事件も少年事件も同じ家庭に関する問題なので、法律的な判断だけでなく、心理学、教育学、医学などの科学的専門的な見地から、家族間の紛争や少年の非行の背後にある本当の原因や事情を探った上、それぞれの問題に応じた適切妥当な措置をとり、それによって将来、再び非行や紛争が起こらないように働きかけることが大切であるという新しい考え方に立って、1949年(昭和24年)1月1日、家事審判所と少年審判所は家庭裁判所というひとつの裁判所として発足した。

6月、窃盗罪で別府署に逮捕され、福岡少年審判所で保護処分。

9月、詐欺罪で別府署に逮捕され、大分地裁で懲役1年〜3年以下の不定期刑の判決で、岩国少年刑務所入所。

1944年(昭和19年)、横浜刑務所に移管される。

1945年(昭和20年)8月25日、仮出所。その後、大阪で進駐軍の軍政部通訳養成所に入って、3ヶ月ほど英語を勉強した。

1946年(昭和21年)10月、20歳のとき、福岡県の女性と結婚。

1947年(昭和22年)6月、長男出生。

1948年(昭和23年)8月、進駐軍名詐欺の恐喝罪で大阪阿倍野署に逮捕され、大阪地裁で、懲役2年6ヶ月の判決。

1950年(昭和25年)2月、大阪刑務所を出所。その後、別府で米兵相手のバーを始めた。朝鮮戦争に入った頃で大儲けした。

1951年(昭和26年)8月、米ドル不法所持で小倉署に逮捕され、別府簡裁で罰金4000円の判決。

11月、長女出生。

1952年(昭和27年)12月、進駐軍の制服制帽を身につけ、二世になりすまして外車を売ってやると言ってかご抜け詐欺を働いた。これで博多署に逮捕され、福岡地裁で懲役5年の判決。

かご抜け詐欺とは売買や交換を装って金品を受け取り、口実を設けて被害者を建物の入口に待たせて裏口などから逃走する詐欺のこと。

1957年(昭和32年)12月、福岡刑務所出所。

1959年(昭和34年)11月、詐欺罪等で別府署に逮捕される。

1960年(昭和35年)2月、大分地裁で懲役2年6ヶ月の判決。このとき共犯だった女性は懲役1年6ヶ月・執行猶予3年だった。西口は女性が主犯で、自分は従犯であると主張して控訴したが、のちの福岡高裁での控訴審で棄却され、8月、小倉刑務所に入所し、協議離婚した。

1962年(昭和37年)8月、小倉刑務所を仮出所。

ムショ仲間に、「俺は千一屋だ、千に一つしか本当のことを言わない」と弁舌の巧みさを誇っていた。

少年のとき約3年ほど刑務所に入り、それから成人してからも3つの事件で合わせると懲役10年ほどになった。刑務所に入っている間、協議離婚したが、カトリックの宗教上から離婚が禁止されているので、説得されて復縁し、12月に入籍した。

36歳になった西口は福岡県行橋市で妻とは別の女と同棲を始め、ツテをたどって運送会社のトラックの運転手となった。そこで、専売公社(現・日本たばこ産業)が運送業者にたばこの配送と代金の集金の委託業務を行っていることを知り、その現金集金車を襲う計画を立てた。

1963年(昭和38年)10月18日、専売公社職員の村田幾男(58歳)と運送会社社員の森五郎(38歳)を殺害して、約27万円を奪って逃走した。目撃証言もあり、前科のある西口はまもなく全国に指名手配された。

10月19日、福岡市新柳町の旅館に女連れで現れた。翌朝の朝刊に目を通すと、そこに自分の名前と顔写真を見つけた。現場の遺留品から「犯人を西口彰と断定」したと事件を報道していたのだ。さらに、地元のラジオ放送で「殺人犯・西口彰は関西方面へ高飛びし、大阪府警には厳重な手配と捜査が依頼された」という情報を得ると九州にとどまることに決め、佐賀県の唐津市へ向かった。西口は根っからのギャンブル好きで、唐津競艇で2日間で21万円を稼いだ。

10月23日、西口は佐賀から行橋署に対し手紙を送った。

<前略、手配のとおり、自分が専売公社輸送強盗殺人の犯人である。犯行後、情婦と逃げるつもりであったが、前非を悔いて自殺することにした。警察には絶対に捕らえられない。悪しからず。東京にて 西口彰>

10月25日、福岡県警は香川県警から指名手配の西口彰が、宇高連絡船「瀬戸丸」から投身自殺を図った形跡があるという連絡を受けた。上着と靴が船に残されており、手配写真の男によく似ているという証言もあった。海上保安庁による海上捜索は宇高連絡船航路を中心に開始されたが、水死体は発見されず、偽装自殺と断定された。

10月28日、西口は静岡県浜松市の貸席「ふじみ」に京都大学教授として投宿した。黒縁の眼鏡をかけて、コートを着込んだ西口は、大学教授と言えば、誰もが疑わないような雰囲気があり、西口はときどき、「ふじみ」の帳場から同じ浜松市内にある静岡大学工学部へ電話をかけて装ったりした。貸席を切り盛りしている女将の藤見ゆき(41歳)と母親のはる江(61歳)の2人は簡単に大学教授であると信じてしまったようだ。

西口はのちに獄中で、「罪は海よりも深し」と題した手記を大学ノート8冊分書いたが、その手記の中で、<犯罪の裏に女あり、ということわざがあるが、私の場合は裏のみあらず、表も横も上下とも、と付け加えて、決して過言ではない>と述べ、貸席「ふじみ」でのことを手記に次のように記している。

<ふじみでは京都大学の正岡と名乗り、例のように旅館からしばしば静岡大学へ電話をかけて装った。三日目にはおかみとおばあさんは私をすっかり信用して、“先生、先生” と呼んだ。私は最初の日に女の子を頼み、翌日も同じ子を頼んだ。三日目にはおかみが “もっといい子がいますよ” と勧めた。翌日もその子を呼んだ。次の日、私がおかみさんのそばを通ると、“先生、あしたは女の子を呼ばないで、いっしょに映画に行きましょう”・・・次の夜、おばあさんは田舎へ行くといって出かけ、いつもは午前三時頃までつけている門灯を夕方には消して、床に入った。午前四時頃目をさますと、おかみさんも目をさましていて、“先生、二、三日でいいから帰らないで・・・・・・” といった>

西口はこのように女性にもてた。しかし、疑われないために予定通り「ふじみ」を出て、広島、徳山、沼津と遍歴した。

広島では支払いの意思がないにもかかわらず、大金を持っているかのように装い、電気店から広島県の薔薇園ほかの養護施設に、テレビ4台時価22万円相当を寄付するという名目でだまし取った。そして、これを質入れして8万円を手に入れた。

徳山では東大教授と称して2泊したが、ふた晩目には十数人の女中の中で図抜けて美人の女が、「女将の許しを得たから」と言って、西口が風呂に入っているときに押しかけ、床も共にしたという。

11月14日、西口は静岡県浜松市に舞い戻り、再び、貸席「ふじみ」に投宿した。

手記には次のように記されている。

<ゆきさんは客室ではなく、居室に案内して、新しい着物を着せてくれた。私用に仕立てたものであった。二人とも私を“先生” とは呼ばず、ふとんはゆきさんの部屋にしいてくれた>

11月18日、西口は「ふじみ」の女将のゆきと母親のはる江を細ひもで絞殺し、宝石や貴金属など金目のものをすべて持ち出すと、かねてから約束していた質屋にその品々を持ち込み、4万8000円に換金して逃走した。

翌19日、委任状を偽造し、「ふじみ」の電話加入権を質屋に入れ10万円を手に入れた。

11月22日、警察庁は西口彰を重要指名被疑者として特別手配することを決定した。この特別手配は凶悪犯が再犯のおそれありと判断した場合に指定するもので、警察庁が年に1回行う綜合手配よりも重要である。1956年(昭和31年)12月に制定された「重要指名被疑者特別手配要綱」に基づくもので、第1回目は札幌市の白鳥(しらとり)警部射殺事件の直接実行者として4人を指定、続いて白昼連続通り魔事件、芦ノ湖殺人事件、高松露店商殺人事件となっていて、西口彰は5番目の指定だった。特別手配に指定されると、(1)この事件に関する通信があらゆる通信に優先する。(2)捜査費用の大半は国費で負担する。(3)全国の警察本部にこの事件の専従捜査員を置く。(4)情報については警察庁が調整して交換する。といった措置がとられることになる。

白鳥警部射殺事件・・・1952年(昭和27年)1月21日夜、札幌市内の路上で市警警備課長の白鳥一雄(36歳)が拳銃で射殺された。その後、20人近い日本共産党員が芋づる式に検挙され、集中的な弾圧捜査が行なわれた。10月、共産党札幌委員会委員長の村上国治が逮捕され、2年10ヵ月の勾留後、殺人の共謀共同正犯で起訴された。このとき、他に2人、起訴されている。法廷では謀議の有無、伝聞証拠の違法性などが争われたが、最大の焦点は唯一の物証である遺体から摘出された弾丸と試射現場土中から発見された2発の弾丸が同一か、また、同一の拳銃から発射されたものであったかどうかということであった。土中に長時間埋没していたにもかかわらず試射弾には腐食割れがなく、また、3個の弾丸は線条痕(銃から発射された弾丸に付く線条の模様のことで、それぞれの銃にはそれ特有の線の模様が付く)が違うので1丁の拳銃から発射されたものなどではなく、物証の捏造が科学的に明らかになった。また、事件発生5ヶ月後、札幌信用組合元従業員の原田政雄が、首謀者は札幌信用組合理事長の佐藤英明、実行者は拳銃殺人の前科がある東出四郎と公表したが、別件で逮捕された佐藤は保釈中の1952年(昭和27年)12月23日、黒い疑惑の中で自殺してしまった。1957年(昭和32年)5月、札幌地裁は村上に無期懲役の判決を下した。1960年(昭和35年)6月、札幌高裁で懲役20年の判決。1963年(昭和38年)10月、最高裁で上告を棄却し、懲役20年の刑が確定した。その後、村上は無実を訴えて、1965年(昭和40年)10月に再審請求を起こした。だが、1969年(昭和44年)、棄却。1971年(昭和46年)7月、異議申し立て棄却。1975年(昭和50年)5月、最高裁で特別抗告棄却となった。しかし、この間、ひとつの成果を残した。従来、再審の開始は“開かずの門”とされてきたが、この条件を「疑わしいときは被告人の利益に」の刑事裁判の原則を適用し、確定判決の事実認定の中に合理的な疑問があれば開始してよいというレベルに緩和する判例を引き出したことである。以降、弘前事件、米谷事件、財田川事件、島田事件、松山事件などの再審への道を開くこととなった。

関連書籍・・・『白鳥事件』(新風舎文庫/山田清三郎/2005) / 『網走獄中記 白鳥事件 村上国治たたかいの記録』(日本青年出版社/村上国治/1970)/ 『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』(筑摩書房/後藤篤志/2013)/ 『白鳥事件 偽りの冤罪』(同時代社/渡部富哉/2012)

12月3日、西口は千葉に現れ、千葉地裁の会計課職員と称して、長男の交通違反の罰金を払いにきた母親(当時61歳)から6000円を騙し取っていた。さらに、千葉刑務所で弁護士になりすまし、窃盗罪で起訴され勾留中の三男の保釈金を用意してきた母親(当時50歳)から5万円を騙し取った。

12月5日、福島県常磐市(現・いわき市)の弁護士事務所を訪れ、弁護士バッジを盗み、それを上着の襟につけて北海道に渡った。

12月7日、北海道沙流郡門別町の洋品呉服店に弁護士を装って訪れ、1万5000円を騙し取った。

12月9日、東京都中央区日本橋兜町に現れ、弁護士になりすまし、どこで知ったか分からないが、家出した証券セールスマン(当時24歳)が名古屋で証券詐欺を働いているという情報を仕入れて、その兄に保釈手続きをしてやると言って、4万円を騙し取った。

一日、8000円〜1万円ぐらいの消費を行い、その金がなくなると次の犯罪に着手するというパターンを繰り返していると警察側は推測した。

12月14日、警察庁は西口の特別手配ポスターを50万枚配布した。そのポスターには3枚の写真があり、左端の写真は、眼鏡をはずしたときの正面からの顔写真で、真中の写真は眼鏡をかけたときの右横顔の写真、右端の写真は眼鏡をかけたときの正面の顔写真である。<人相 身長165センチ位、肩はば広くやせ型、ちぢれ髪、二重まぶた・・・>

12月17日、西口は栃木市内の旅館に弁護士を装って宿泊し、代金770円を踏み倒した上、市内の弁護士宅を訪れ、汽車賃を貸してほしいと言って、1000円を騙し取った。

12月29日、再び、東京都豊島区に現れ、東京弁護士会に属している現役の弁護士の神吉梅松(81歳)の首を絞めて窒息死させ、現金や弁護士バッジなど14万円相当を奪った。その後、その死体を部屋の中にあるタンスの中に入れ、4日間、死体とともに過ごした。

翌1964年(昭和39年)1月2日、西口は熊本県玉名市内の立願寺(りゅうがんじ)に現れた。この寺の住職で福岡刑務所の教誨師の古川泰龍(当時43歳)は、戦後まもなく起こった福岡事件を冤罪と見て、救援活動を続けていた。西口は応援したいと言って立ち寄った。実は、以前、福岡刑務所に詐欺罪で服役中に西口は古川の顔を見て知っていた。

古川泰龍・・・1920年、佐賀県に生まれる。1944年、高野山専修学院卒業。1952年、死刑囚の教誨師となる。1961年、福岡事件2人の死刑囚再審運動に乗り出す。1964年、弁護士を装った強盗殺人犯の西口彰が福岡事件の「応援」を願い出て古川宅に立ち寄り逮捕される。1973年、宗教法人シュバイツァー寺開山。1981年、産業医科大学で仏教的観点から「死学」の講義を始める。1987年、東西宗教交流センター・カトリック別院を創設し、活動をはじめる。2000年、死去。著書『真相究明書 九千万人のなかの孤独 福岡事件 福岡、中国人闇ブローカー殺し 殺人請負 強盗殺人事件』(花伝社/2011) / 『歎異抄 最後の一人を救うもの』(地湧社/1988) / 『叫びたし寒満月の割れるほど 冤罪死刑囚と歩む半生』(法蔵館/1991)がある。

福岡事件・・・1947年(昭和22年)4月末頃、西武雄(当時33歳)は架空の軍服取り引きで金儲けする詐欺計画を立てた。詐欺が成功しないときは相手を殺害し金銭を強奪するつもりだった。5月初め頃、夏物軍服の見本を日本人ブローカーのSに渡し、中国人衣類商P(40歳)ら5人に売りつける仲介を頼んだ。同時に西は芸能社社長だったときの社員のKに計画を打ち明け、拳銃の入手を命じた。5月19日、Kは元社員のHに対し拳銃の入手を依頼。Hは友人のOに頼み、Oは拳銃を持っている石井健次郎(当時31歳)に了解を得た。翌20日午後4時頃、旅館で石井とHとOが西とKに会って拳銃1丁と実包4発を見せた。そこに石井の配下のT、Gが14年式拳銃を持ってきたので全部を5万円で譲った。その後、西はSに連絡し、Pたちを福岡市の飲食店に連れてくるように言った。そして西は石井、H、Oたちに計画を打ち明けた。その計画はKが相手2人を誘い出し、西が残りの者を連れ出して次々と殺害して所持金を奪おうというものだった。西は前もって売主を演じるように頼んでいたNに連絡。午後7時頃、西、O、Gの3人が旅館を出た。残りの者は少し遅れて出かけた。西は飲食店の近くで待っていたSとともに店に入った。Pは4人の中国人ブローカーとともに軍服代金70万円余りを用意して待っていた。西は取引の保証金10万円をSに要求させ、受け取った。その後、西はP、Sをすぐ近くのN方に連れて行き、10万円をNに保管させた。Pは残金10万円は現物と引き換えで払うと言った。このとき、西は殺害して金銭を奪う以外に方法はないと決心した。西は飲食店の前で待機していたKにP、Sに引き継いだ。KはP、Sを工業試験場付近に誘い出し、倉庫を開けに行くと言ってPとSをその場に待たせて姿を消した。周辺には石井、H、Oらが身を潜めていた。P、SはKがなかなか戻ってこないので危険を感じ、立ち去ろうとしたが、そこで石井が拳銃を発射。PとSはその場に倒れた。TはHから暴力団抗争の話を聞いていたので助勢しようとして日本刀を持って物陰に隠れていた。PとSが倒れたのを見てTとKは走り寄った。Kは匕首(あいくち)でPとSの首を刺し、TはSの背中に日本刀を突き立てた。Kは飲食店に戻ると待っていた西や中国人に現品の取り引きは終わったと報告した。西は中国人たちに強引に残金60万円の支払いを求めたが、中国人たちはPが戻るまで払わないと言った。西と石井は残金の詐取はあきらめ、N方に行って10万円を受け取って逃げた。その後、西、石井、Kは金銭強奪目的でP、Sを殺害。TはHの助勢のつもりでSを斬りつけ、H、O、Gは犯行を幇助(ほうじょ)したということで逮捕・起訴された。判決は西と石井に死刑、Kに懲役15年、Tに懲役6年、H、Oに懲役5年、Gは無罪となった。西と石井は捜査段階では「事実」を自白したが、裁判では起訴事実を否認し、西は「取り引きの立ち会いを頼まれただけで強盗殺人には関与していないので無罪である」とし、石井は「2人を射殺したのは事実だが、ケンカの相手と誤認したもので強盗するための犯行ではないので単純殺人あるいは傷害致死である」と主張した。この裁判で被害者のPの仲間に対する感情に裁判官が応えたため、事実が捻じ曲げられたという主張がある。裁判の傍聴にきたPの仲間の中国人が「被告人7人を死刑にせよ」と騒いだため、1948年(昭和23年)2月27日の福岡地裁での判決公判で西と石井に死刑、4人に懲役刑、1人に無罪を言い渡したときに裁判長が「2人を死刑にしたのでそれで了承してくれ」と異例の発言をしたという。この当時、中国人の母国の中華民国は連合国の一員として対日戦(第二次世界大戦)に勝利していたため、敗戦国である日本に対し意気盛んであったという。そのため、裁判官が事実認定を誤ったという。だが、1951年(昭和26年)4月30日、福岡高裁で控訴棄却。即日、西と石井が上告。1956年(昭和31年)4月17日、最高裁は西と石井の上告を棄却して死刑が確定した。この事件を冤罪と見て救援活動に乗り出したのは熊本県玉名市の立願寺の住職で元福岡刑務所の教誨師の古川泰龍で、1963年(昭和38年)9月、原稿用紙2000枚に及ぶ「福岡誤殺事件真相究明書」を書き上げ出版しようとしていた。そこへ、凶悪犯の西口彰が弁護士を装って「応援」に駆けつけ、11歳の娘に見破られ逮捕されたことで福岡事件は広く世間に知られることになった。冤罪と見た理由として次のような疑問点を挙げている。(1)犯行に使われた凶器は3種類もあり、最初から殺害するためにいくつもの凶器を使い分ける必要性がない。そのため現場の状況は乱闘の結果として死亡したと見るのが自然である。(2) 判決文では強盗目的の計画殺人としているのに、被害者の所持金5万円をはじめ何一つ奪われていなかった。そのため、不自然さがある。(3)中国人達が法廷に押しかけた状況のなかで、判決に微妙な影響を与えたため事実認定に誤りがある。1975年(昭和50年)6月17日、法務省は突然、石井に恩赦を与え無期懲役に減刑すると同時に西の死刑を執行した。事件から28年も経ってからの唐突な執行の理由は不明である。1989年(平成元年)12月8日、石井は仮出所した。逮捕以来42年7ヶ月ぶりの釈放で拘禁期間としては帝銀事件の平沢貞通(死刑確定)の38年8ヶ月を超え、史上最長となった。

関連書籍・・・『真相究明書 九千万人のなかの孤独 福岡事件 福岡、中国人闇ブローカー殺し 殺人請負 強盗殺人事件』(花伝社/古川泰龍/2011)

古川は西口を本物の弁護士だと思って歓迎したが、小学生の娘のるり子ちゃん(当時10歳)は、交番に貼られた指名手配の顔写真を見たことを思い出した。そして、そのことを母親に告げた。母親は驚いてすぐに交番まで走って行き、その手配写真を見て、娘の言う通り自称弁護士は西口彰であると確信した。

1月3日朝、西口は奇妙な気配を感じ取り、早々にこの古川宅を去ることにした。だが、すでに古川宅は玉名署の刑事たちによって取り囲まれていた。西口は平然とした態度でいたが、任意同行を求められ、その後の指紋鑑定などが決め手となり、逮捕された。

12万もの警察官が血まなこになって追及した中を西口は77日間も逃げのびた。捜査は後手後手に回り、結局、西口を見破ったのは10歳の少女だった。

西口は、殺人5件、詐欺10件、窃盗2件の犯行容疑で起訴された。

4月、この西口の事件がきっかけとなって、警察庁は広域捜査の強化を目的として「広域重要事件特別捜査要綱」を策定した。いわゆる警察庁広域重要指定事件の設定である。

西口彰は特異な犯罪者として注目された。それは従来、詐欺などの知能犯と殺人などの強力(ごうりき)犯は、別種の犯罪者と見られていたが、西口は、両方を軽々とやってのけたからだった。また、老人、女性など、誰でも平気で殺す残酷さに比べて、奪取、詐取した金は少額であることや知識人が好きだったらしく、弁護士を装うためにバッジや弁護士会員名簿を盗み、大学教授に見せるために専門書を持ち歩いていたことだった。西口は取調室で「詐欺というのはしんどいね。やっぱり殺すのが一番面倒がなくていいよ」と本音をもらしている。

12月23日、福岡地裁小倉支部は、西口彰に対し死刑の判決を言い渡した。

西口は検察側から「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」と折り紙をつけられ、裁判長から「悪魔の申し子」と形容された。

1965年(昭和40年)1月5日、弁護側が控訴し、その理由を3つ挙げた。

(1)犯罪史上希な凶悪事件を起こしたのは異常性格の仕業であり、1審において精神鑑定の請求があったのに退けられたのは訴訟手続きにおいて不当である。

(2)死刑は国家の名による殺人で憲法違反の疑いもあり、慎重でなければならないのに、犯行当時に心神耗弱状態で責任能力のない被告人にこの判決は重すぎる。

(3)連続殺人の起点となった行橋事件の犯行動機について1審では考察が充分でなく、被告人に不利な点のみが採用されている。

これについて裁判長は精神鑑定請求の件は保留にし、(3)の証人として西口と最後に交際のあった行橋市の女性を呼ぶことを決定した。

7月10日、福岡高裁で控訴審の第2回公判が開かれ、保留になっていた精神鑑定については、合議した上で、「供述態度および内容から判断して、犯行当時に心神耗弱でなかったのは明らかである」と却下になった。

8月28日、福岡高裁は1審・福岡地裁小倉支部での死刑判決を支持し、控訴を棄却した。

精神鑑定については「原審が採用しなかったのは相当である」と述べ、「西口は欲望の表し方などに若干の異常は見られ、情操の欠如は認められるが、刑法上責任能力を減少するほどのものではなく、犯罪のやりかたは残忍で被告人に有利な証拠一切を考慮に入れても死刑は相当である」とその理由を述べた。

9月10日、弁護側は上告した。

12月15日付で最高裁に提出した弁護人の上告趣意書には次のようなことが書かれてある。

「原判決は絞首刑で、これは憲法第13条(個人の尊重と公共の福祉)および第36条(拷問および残虐刑の禁止)に違反する。死刑は残虐であり、無期懲役で充分と思料する。およそ、この主張をしない弁護人は存在しないといえる。また、犯行の原因と結果は、通常人では理解できない。原審における精神鑑定の却下は、きわめて遺憾である。(以下、省略)」

憲法13条・・・すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法36条・・・公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

1966年(昭和41年)8月15日、なぜか上告を取り下げ、死刑が確定した。

西口が上告の取り下げを8月15日の終戦記念日にした理由に「戦争」は関係なかった。実際、終戦を迎えたのは刑務所の中だった。8月15日を取り下げの日にした理由を次のように知人に宛てた手紙に書いている。

<聖フランシスコ・ザビエルが伝導のために渡米したのが1549年8月15日であり、もっと大きな意味をもつのはアッソムションが8月15日、すなわち、聖母マリア様が亡くなられて天の御国へ還られた日だから、この被昇天祭は特にカトリックにとってクリスマスに並ぶ大きなお祝いにあたる>

1970年(昭和45年)12月11日、福岡刑務所拘置支所で死刑が執行された。44歳だった。

佐木隆三はこの事件を取材し、『復讐するは我にあり』上下巻(講談社/1975)というドキュメンタリー小説を書いているが、1976年(昭和51年)、第74回直木賞を受賞した。

ちなみに、「復讐するは我にあり」という言葉は『新約聖書』に登場する言葉だが、「悪に悪で報いる者は悪となんら変わりなくなってしまう。だから、悪に堪え忍べ。そうすれば神様御自身が必ず悪を裁き、私たちを悪から救って下さる」という教えのことであり、ここでの「我」とは「神」のことを指す。

この小説を元に製作された映画に、同名タイトルの『復讐するは我にあり』(DVD/監督・今村昌平/出演・緒方拳&三國連太郎&倍賞美津子/2008)がある。この作品に登場する殺害シーンは実際の殺害現場で撮影されたと言われている。日本アカデミー作品賞、ブルーリボン作品賞・監督賞、キネマ旬報ベストワン、他多数、受賞した。

他に『戦後猟奇犯罪史』(監督・牧口雄二/西口彰役・室田日出男/東映/1976)がある。これは、西口彰連続強盗殺人事件、克美茂愛人殺人事件、大久保清連続殺人事件の3件の事件を再現しているオムニバス形式の作品。

テレビドラマでは1984年(昭和59年)4月7日、TBS系列の「ザ・サスペンス」枠で放送された他、1991年(平成3年)9月6日、フジテレビ系列の「金曜ドラマシアター」枠、2007年(平成19年)3月28日、テレビ東京でも3時間に渡り放送された。

参考文献・・・
『復讐するは我にあり 上』(講談社文庫/佐木隆三/1978)

『復讐するは我にあり 下』(講談社文庫/佐木隆三/1978)

『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)
『昭和性相史 PART3』(第三書館/下川耿史/1993)

『衝撃犯罪と未解決事件の謎』(二見書房/日本テレビ「スーパーテレビ・情報最前線」・近藤昭二編著/1997)

『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)

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