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混血少年連続殺人事件

【 事件発生 】

  殺害日 殺害場所 被害者 被害者の職業 被害品
1966年
(昭和41年)
  12月13日 愛知県豊橋市の
被害者の自宅
安藤和子
(24歳)
主婦(妊娠9ヶ月の新妻) 現金2万円
  12月27日
(遺体の発見は翌日)
千葉県我孫子市の
被害者の自宅
渡辺淑子
(28歳)
主婦(生後3ヶ月の乳児の母親) 現金2万4000円
1967年
(昭和42年)
1月16日 山梨県甲府市の
被害者の自宅
渡辺喜美
(25歳)
家事手伝い(翌日、お見合いの予定があった) 現金1万円

[ 1 ] 1966年(昭和41年)12月13日午後7時ころ、、愛知県豊橋市多米町の自宅で、妊娠9ヶ月の主婦の安藤和子(24歳)が死んでいるのを勤務先の日産プリンス三河販売から帰った夫(当時29歳)が発見した。水を張った風呂場の浴槽に、上半身は服を着たまま、後ろ手に縛られて、頭から逆さに突っ込まれていた。下半身はむき出しになって、その局部は何者かの手によって乱暴に扱われた跡が歴然としており、体全体が氷のように冷たくなっていた。洋ダンスの引き出しの中の現金2万円が消失していた。

[ 2 ] 同年12月28日午前0時20分ころ、千葉県我孫子市の自宅で、主婦の渡辺淑子(28歳)が死んでいるのを東京都職員の夫(当時32歳)が発見した。下半身がむき出しのまま両手両足を細ひもで縛られ、床にうつ伏せになり、頭には布団がかぶせられて、首には帯ひもが巻きついていた。上半身のセーターの前が切り裂かれ、左の乳房に刺し傷があった。かたわらに2つにへし折った竹の物差しが落ちていた。そのささくれた折れ目で乳房を刺したようだ。隣の寝室では生後3ヶ月の乳児が眠っていた。このとき、現金2万4000円が盗まれている。

[ 3 ] 翌1967年(昭和42年)1月16日午後4時半ころ、山梨県甲府市下河原町の自宅で、末娘で家事手伝いの渡辺喜美(25歳)が死んでいるのを学校用務員の妻であり、被害者の母親(当時65歳)が発見した。丸裸で床の間の鴨居から電気アイロンのコードで首を絞められ、ぶら下がっていた。口からは吐血しており、股間からは生理の血が足を伝って流れていた。頭部を鈍器のような物で殴られた跡があり、衣服はカーディガンから下着まで、一気に刃物で切り裂いてはぎ取られていた。床には血のついたソーセージやキュウリや卵がころがっていた。それらを彼女の局部に挿入したようだった。喜美は、翌日にお見合いをする予定であった。このとき、現金1万円が盗まれている。

【 捜査 】

豊橋、我孫子、甲府にそれぞれ捜査本部が設置された。どの本部も、ただの強盗の殺人にしては酷すぎるということで、痴情・怨恨の線から捜査を開始した。警視庁では、これらの犯行には共通するものがあるとして、同一犯による仕業と断定した。

[ 共通項 ]

(1)現場はいずれも町はずれの閑静な新興住宅地であり、その中でも隅の方の家であること。

(2)解剖により推定して、犯行時間がいずれも昼であること。

(3)被害者はいずれも20代の女性であること。

(4)殺害の方法はいずれも絞殺。その際に、さるぐつわをはめるなどして暴行していること。

(5)タンスなどを物色し品物を盗らず現金のみ持ち去っていること。

(6)犯行後、戸閉まりを厳重にし、逃げ口もちゃんと閉めて立ち去っていることなど。

その手口は窃盗の常習者を思わせた。聞き込みによって、犯行当時、現場をうろついていた特徴のある男が浮かび上がった。「ちぢれ毛で、顔の色が褐色、背の高い、20歳前後の男・・・」我孫子と甲府の現場には、特大の同じ足跡が残っていた。

1月23日、3件目の甲府の事件から1週間経ったこの日、警察庁はこれらの事件を広域重要「106号事件」に指定した。警察庁広域重要指定事件

1件目の豊橋の事件で、被害者の首に巻きついていたタオルは、同市の「二葉旅館」のネーム入りだった。二葉旅館には事件の前日、「黒人風の若者」が泊まっていたことが分かった。宿帳には「仙台市小田原町 塚本隆一」とある。

愛知県警は宮城県警に問い合わせた。すると、同町には該当する人物はいなかったが、別の町に、アメリカ黒人兵と日本女性との混血児で、窃盗歴のある少年S(当時16歳)がいることが判明した。目撃者たちは、その少年の写真を見て、これだ、と言った。

午前11時20分ころ、千葉県柏市名戸ヶ谷の警察寮に住む鈴木巡査部長の妻が使いに出た。すると、目の前をボストンバッグを下げた背の高いちぢれ毛の若者が歩いていく姿を目撃した。彼女は、前の晩に夫が「連続女性殺しの犯人は黒人風の男だ」と言っていたのを思い出した。彼女はためらわずに、近くの公衆電話から柏署の夫に通報した。柏署は市内全域に緊急配備を行った。

午後4時半、柏駅前交番で立ち番中の警察補助員(地理案内や事務手伝いが役目の練習生)が、広場の人混みを駅に向かって歩いていく背の高い褐色の若者を目撃した。そこで、彼は先輩の強瀬巡査にそれを伝えると、強瀬巡査は駅に入っていった。「黒人風の若者」は改札口を入るところだった。上りホームまであとをつけ、そこで職務質問した。

「外人登録証を見せてくれ」と言うと、その若者は「俺は日本人だ」と答えた。任意同行を求めると、おとなしくついてきた。本人は半年前の家出人として補導されたのかと思ったらしい。

本署ですぐに訊問が始まった。若者は、名前を訊かれ、「別名」の「塚本隆一」とすんなりと答えた。携帯のボストンバッグからナイフとドライバー、絆創膏も出てきた。

こうして、広域重要「106号事件」は、指定されたその日に容疑者逮捕となった。

少年Sは日を追って犯行を自供した。俺がこんな髪だから、とかきむしって泣き、若い女は特に憎かった、と語った。

【 本人歴 】

1950年(昭和25年)6月16日、少年Sは宮城県塩釜市立病院で生まれた。父親は米軍塩釜基地の黒人兵のアップル・ジョンソン、母親は旧家出身の学生だった。当時16歳で、母体未熟だったため、Sは仮死状態で生まれたという。

6月23日、朝鮮戦争勃発。父親のジョンソンは戦死した。

1954年(昭和29年)、福岡市で、母親は白人兵と結婚。Sを残して夫とともに渡米した。Sは祖父母に預けられて育った。本籍は仙台市大仏前21。Sの本名はありふれた日本人の名前である。

1955年(昭和30年)、Sが5歳のとき、宮城県児童相談所の斡旋で、ある米軍将校の夫婦が養子に引き取るという話がもち上がった。Sを可愛がっていた祖母は同意したが、そのとき5万円の慰謝料を要求した。これに対し、米人夫婦がこれじゃあ、人身売買じゃないか、と憤激し交渉は決裂した。

1958年(昭和33年)、Sが8歳のとき、祖母が死亡した。その後、この母親の兄である伯父が身柄を引き受けることになった。伯父は国鉄(現・JR)職員で妻子がいた。

Sは小学2年生になっていたが、いじめられっ放しではなかった。ケンカが強く、次第に他の子供たちは彼を敬遠するようになった。4年生になると、孤立してしまった彼は無断欠席するようになった。ひとりで野原をぶらつくことが多かった。このため、成績は落ちていった。6年生のとき、体育以外は全て「1」であった。体育は本来の実力は「5」だが、ルールを守らず、協調性がゼロのため、担当の教師は「2」をつけていた。

1963年(昭和38年)、Sは市立台原中学に進学するが、ここでも無断欠席の癖が出た。突然休んで、2、3日現れない。だが、毎朝ちゃんと家を出ていた。寺の縁の下や放置してある車の中で一日を過ごしていた。

学校では暴力をふるわずおとなしくし、服装も地味で目立たないようにしていた。体育はやはり得意で、走高跳びで上級生をおさえて校内で1番になった。だが、Sは注目されることを嫌った。

担任の教師は「誰も混血などとからかう者はいなかったはずです。生徒たちが特別の意識をもたないようにしても、彼の方でどうしてもうちとけてきませんでした」としらじらしいことを言った。

家庭では暴力をふるった。欲しい物をねだっても叶えられないと、小刀で柱に切りつけたり、屋根に上がって瓦をぶん投げた。

Sは中学2年生のとき、空気銃を手に入れようと、白昼、鉄砲店に行き、ウインドウの中の品物に手を伸ばして、警察に捕まった。

Sは仙台北署から仙台家庭裁判所を経て、県立の児童自立支援施設である「宮城県さわらび学園」に送り込まれた。ここは県下の小中学校の問題児たちを集めた全寮制の特殊学校で、中学課程を終えると、就職の世話をして社会に出ることになる。Sが学園送りになったのは、「周囲の温情」によるものであった。仙台北署少年課によると、「一般少年と違って、混血児が少年鑑別所に一度入れば、社会ではけして立ち直る機会を与えてくれないから」とその理由を語った。

児童自立支援施設・・・法務省管轄で矯正教育が目的の少年院とは違い、児童福祉法上の支援をするために各都道府県に設置が義務付けられている厚生労働省管轄の福祉施設。不良行為をしたり、家庭環境などに問題がある少年を入所させる。また、少年を保護者のもとから通わせて、職員が生活を共にし、生活・学習の指導などを行うケースもある。国立、民間も含め全国に58施設ある。感化院→少年教護院→教護院→児童自立支援施設と名称が変わってきた。

Sは普段はおとなしかったが、誰かが「クロンボ」とからかうと徹底的に叩きのめした。入園して2ヶ月もすると一同に一目置かれるようになり、それゆえに孤立した。

そんなSでも、1人の寮母には理想の母親像を求めて接していた。その寮母は「塚本」という名だった。Sはこの寮母の息子でありたいと思い、「塚本隆一」という「別名」を使っていたのだった。

Sの無断欠席の癖は相変わらずで、3週間も帰らないときがあった。豊橋や大阪方面を放浪していたのだが、そこは幼少の頃、母親に抱かれて行ったことのある土地だった。

在園中のアンケートの将来の志望欄に、Sは「船員」と書いた。外国航路の船乗りになって、毛色肌色の違う国々をめぐって暮らしたかったようだ。しかし、学園の就職斡旋は仙台職業安定所を通じて行われるだけということもあり、Sの志望は叶えられなかった。

1966年(昭和41年)4月、15歳のとき、東仙台の自動車整備工場に、見習工として就職した。

自動車整備工場の班長は、Sのことを「仕事の方はなんでも素直によく働いたね。覚えはあまりいいほうじゃないが、小生意気じゃないからよかったよ。文句を言っても口答えしない、言い訳もしない。悪い事をするような奴じゃない」と、のちに語っている。

6月に入ると、無断欠勤するようになり、ある日を境に出勤しなくなりそれっきりになった。

6月18日、16歳になったSは九州に行った。旅費は無断で他人の家から盗んで調達した。九州は、母親がアメリカに渡る前にいた土地だった。

Sはやがて仙台に戻るが、9月上旬、空巣を繰り返すうちに、仙台南署に捕まった。Sは11件の空巣を自供し、仙台家裁をへて、今度は少年鑑別所送りとなった。だが、ここで集団赤痢が発生し、Sも保菌者の疑いで、市内の榴(つつじ)ヶ岡病院に団体で入院した。

10月4日、Sは病院を脱走し、急いで汽車に飛び乗り、とりあえず新潟に向かった。

10月11日から逮捕される翌1967年(昭和42年)1月23日まで、30件もの窃盗を繰り返して合計33万3200円を奪い、3人の女性を強姦し殺した(★[1]〜[3]/広域重要「106号事件」)。

1966年(昭和41年)    
10月11日 新潟市 3万7000円
21日 山口県徳山市 3万800円
28日 広島市 2万2400円
30日 広島県下 5000円
11月4日 静岡県清水市 700円、指輪など
8日 福島県須賀川(すかがわ)市 2万2000円
16日 千葉市 1万1600円
21日 埼玉県大利根市 3万100円
22日 茨城県古河市 2万6000円
23日 埼玉県久喜市 1万5000円
12月13日 愛知県豊橋市 2万円 ★[ 1 ]
24日 茨城県水戸市 3万円
27日 千葉県我孫子市 2万4000円 ★[ 2 ]
1967年(昭和42年)    
1月16日 山梨県甲府市 1万円 ★[ 3 ]
21日 茨城県藤代町 2万3500円
23日 千葉県柏市 2万5100円

Sは金がある限りホテルに泊まった。異国人に見られるのはかえって都合がいいと思ったからだった。

【 その後 】

警察に逮捕された少年Sは、その後、窃盗・同未遂・住居侵入・強盗強姦・強盗殺人の罪で起訴された。

1967年(昭和42年)5月25日、千葉地裁松戸支部で、第1回公判が開かれた。傍聴席には、甲府の被害者の老いた両親の姿があった。閉廷まぎわ、老父は突然、立ち上がって叫んだ。

「裁判長さま、被告にはまったく悔悛の情がありません。これでは死んだ娘があんまり可哀相です。被告を重い刑にして下さい」

少年Sは表情を変えず、傍聴席をチラリと一瞥しただけだった。

Sはこの裁判で、自分を見る彼女らの目が憎かったから殺した、と供述した。

1972年(昭和47年)9月9日、千葉地裁は、死刑が相当ながら、犯行時16歳ということで、少年法を適用して無期懲役の判決を言い渡した。被告は控訴せず服役した。

「アイノコ」は明らかに差別語という感じがある。「混血児」はできれば使わない方がいいかもしれない。「ハーフ」は問題ないように思うが、、、。「クォーター」という言葉になると説明的要素が含まれることから差別感がなくなってくる。 「国際児童」という言い換えもあるようだが、あまり使われていない感じ。

参考文献など・・・
『犯罪専科』(河出文庫/小沢信男/1985)

『実録 戦後殺人事件帳』(アスペクト/1998)

『憎しみは愛よりも深し 実録・16歳連続女性殺人事件』(川出書房新社/安土茂/1999)

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