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小松川女高生殺人事件

【 遺体発見 】

1958年(昭和33年)8月20日午前10時15分ころ、読売新聞社の社会部に、若い男が電話をかけてきた。

「特ダネを提供するよ。俺が家出した女を殺したんだ。被害者は(東京都)江戸川区の太田芳江というんだ。死体は小松川高校の・・・・・・横穴の中にある」

新聞記者が、「小松川高校のどこですか」と訊ねると、「穴があるだろう、その穴の中だ」と言って切れた。

半信半疑で記者は男が告げた太田宅を訪ねると、確かに芳江は行方不明になっていた。そこで、記者が小松署に伝えたところ、2日前に母親から捜索願が出されているのが分かった。中学校の事務見習いをしている小松川高校定時制の2年生で16歳だった。芳江は17日午後1時ごろ、「友だちの家に行く」と言って出かけたのち、その日の夕方5時半ごろ、小松川高校の校庭で勤め先の中学校の女性教師と会っていることまでは分かっていた。だが、その後の行方は分からず警察に届けたのだという。

小松川署の捜査員たちが高校に駆けつけ、溝や下水穴など同校の周辺を調べてみたが、発見できず署に戻った。

8月21日午前7時15分ころ、小松署にも同じような電話が入った。

「太田芳江を捜しているんだろう。それは小松川高校の屋上で殺されている。死体は穴の中だ」といきなり言った。

署員が、「あなたはどなたですか」と言うと、「俺は犯人だ」と言って切れた。

早速、捜査員が高校の屋上に上がり調べてみると、屋上に設置されたスチームパイプの防護壁の横穴で若い女性の死体を発見した。真夏のそれも屋上ということもあって、腐敗が相当進み、全身が膨張した状態だったが、家を出たときの服装と一致していたことから太田芳江と確認された。死因は頸部圧迫による窒息死と推定された。

その後、被害者宅や捜査1課長宛てに、遺品の櫛や手鏡が郵送されてきた。

さらに、読売新聞社に反響を楽しむような電話がかかってきた。すでに待ち構えていた警察は記者との一問一答を録音し、電話の場所を逆探知に出ていた。

男は「もうこれきり、どこにも電話しない」と前置きしてしゃべり始めた。

「これで2度目の完全犯罪さ。もう危ないからやらないつもりだけど3度目は予告するよ」

――「前の殺人は若い娘か?」

「そんなことは言えないよ。ヤバイからな」

――「どうして読売にばかり知らせるの?」

「前に読売の配達夫と懇意にしていたからね。完全犯罪だから電話くらいしたって心配ないというわけだ。自信あるんだ」

――「犯行は2人だろう?!」

「俺1人だよ。そういえば屋上で死体から証拠品を取っていたとき、2人の話し声がかすかに聞こえてきた。俺は死体に30分ほど腰をかけてやり過ごしたよ。死体の顔が右斜めに向いていたろう。あれは穴に入れるとき、きゅうくつなんで無理に押し込んだためさ。右足も外側に曲がっていたわけだ。あれは穴の中の机にひっかかったからだよ。足にも傷があったろう。引きずったときについたんだよ。それから顔に血染めのハンカチを掛けておいたんだがなあ。俺のB型の血のついているやつさ。風にでも吹き飛ばされてしまったかもしれないけどな」

――「1人で重い死体を100メートルもよく運べたね」

「なに言ってんの。絞めたところは10メートルきり離れていない屋上の時計台だよ。1人だって引きずってこられるよ。天文台から10メートルきり離れていないよ」

――「いつ殺した?」

「言えないね。アリバイが確定してしまうよ」

――「櫛や鏡をなぜ送った?」

「協力さ。櫛と一緒に彼女の便箋を破いて、左上すみに俺のB型の血をつけてやったのに捜査本部はどうして公表しないんだろうな」

――「動機は?」

「それは言えないよ。バレてしまうじゃないか」

――「君はどこにいるんだ」

「小岩署前の公衆電話ボックスだよ。もう訊くことはないか。会社が8時だから遅刻しちゃうよ」

――「探偵小説に興味があるか」

「ないね。世界文学が好きだ。プーシキン、ゲーテ、特にゲーテの『ファウスト』の一部がいい。ドストエフスキーの『罪と罰』は言葉のアヤといい、まったく迫力があるね。しかし断っておくけど、これから暗示は得ていない。無意識に頭の隅にあるかどうかは分からないけどね。じゃ切るよ。もうかけないよ」

あれこれと30分もの間、しゃべり続け電話が切れた。この会話中、電話局(現・NTT)は逆探知に成功し、捜査員がその公衆電話に向かったところ、数分の差で犯人は姿を消していたが、犯人と思われる男の目撃者が何人か現れた。

捜査本部は15分もののテープで編集し、8月29日正午、「犯人の声」として、NHK、ラジオ東京(現・TBS)、ニッポン放送などから一斉にラジオで公開放送した。すると、「似ている」という情報が数多く寄せられ、間もなく有力容疑者が浮かんだ。

そして、事件発覚から10日後の9月1日午前5時、芳江と同じ高校の定時制に通う金子鎮宇こと李珍宇(イチヌ/当時18歳)が逮捕された。

李は自転車のベルを造る工場でプレス工として働きながら、小松川高校定時制に通っていた。刑事の追及に、李は8月17日、同じ定時制に通うの太田芳江が校舎の屋上にいたので、ナイフで脅迫して関係しようと思ったが、騒がれたので、絞殺して死体を隠したことを認めた。

【 本人歴 】

1940年(昭和15年)2月28日、李珍宇は、東京市城東区(現・東京都江東区/城東区と深川区が統合して江東区になる)亀戸の貧しい朝鮮人の集落に生まれた。東京の空襲のとき焼け出されてから千葉県市川市と江戸川をはさんで向かい合っている江戸川区上篠崎の集落に移ったのだが、李の家はトタン屋根に石を置いただけの粗末なバラックだった。

東京・・・1868年(明治元年=慶応4年)、江戸を「東京」と改称。1878年(明治11年)、東京府15区6郡成立。1889年(明治22年)、東京府15区に市制、東京市とする。1893年(明治26年)三多摩(北、南、西多摩)郡を神奈川県より移管。1932年(昭和7年)、府下5郡82町村を東京市に編入、20区を新設し、合わせて35区となる。この時点で、現在の東京23区とほぼ同じ範囲となる。1943年(昭和18年)、東京府は東京都となり、同時に東京市を廃して区を東京都の直下に置くこととなった。1947年(昭和22年)、22区に統合。その後、板橋区から練馬区を分離し、23区となる。

天井から裸電球がぶらさがり、壁には雨漏りを防ぐために新聞紙などがべったりと貼られ、家の外には家を支えるようにぶどうの葉枝が伸びている。そこに、李一家8人が暮らしていた。

難聴で口が不自由な母親、日当を飲み干してしまう日雇い労働者の老父、兄と弟と3人の妹・・・同じ部落の同胞とも、あまり付き合いがなく生活していた。

日本人社会から疎外された上に、朝鮮人部落の中でも孤立した二重の疎外構造の最低辺にあった。

小学校時代は、お金がなく遠足にも行けなかった。

中学校時代も、遠足に行けず、また、教科書が買えないので、筆写して勉強に励んだ。IQ135の秀才は学業成績トップで生徒会長を務めた。

だが、その一方で、盗みもよくやった。自転車、腕時計、書籍などの窃盗で、家庭裁判所から保護監察処分を受けた。

読書意欲が旺盛で、特に文学を好み、ドストエフスキーなどを耽読していた。本を買うお金がない李は、図書館から借りて読んでいたが、好きな本をいつも手元に置いておきたいと思うようになり、図書館から外国文学書52冊を盗み、読み耽っていたのだった。

中学を卒業しても、就職差別により、日立製作所、精工舎などの入社試験を受けたが、いずれも不合格で、仕方なく、朝鮮人同胞の経営する鉄工所に拾われるが、間もなくそこも倒産してしまう。やむなく、零細な町工場を転々としながら、向学意欲を満たすため、定時制の高校に通うようになった。

【 その後 】

李には記者との電話でのやりとりで話した通りもうひとつの余罪があった。

同年4月20日午後7時15分ごろ、自宅の近くを自転車に乗って通りかかった工場賄婦の田中せつ子(23歳)を自転車からころげ落として強姦したあと絞殺している。

また、李は『読売新聞』で短編小説の懸賞があったので「悪い奴」と題する小説で応募したが、落選した。だが、事件発覚後、『読売新聞』に紹介されている。

この小説は田中せつ子殺害の直後に書かれたものだが、事件の経過がそっくりで、殺人の描写が迫真だったために、その小説の存在を知った取調べ官に追及されたのである。

小説の主人公は「俺」であった。「俺」は中学のとき、クラス会費を盗み、それを級友の1人に見られた。その後、級友はあちこちでそのことをしゃべるので「俺」はやむなく級友を殺す。主人公の「俺」がほとんど罪の意識を持っていないようで不気味だが、もうひとつ「変な目」で見られるという表現が随所に出てくる。それは、在日朝鮮人に注がれる差別の目を意味しているように思える。

李は2つの事件で起訴されたが、取り調べのときも公判でも、2件とも夢の中の出来事のようで自分がやった気がしないと供述した。それは彼の実感だったのだろうが、世間は凶悪犯の冷酷非情な言葉として受け取った。

犯行時、李は18歳だったが、少年法の適用外とされ、1959年(昭和34年)2月27日、東京地裁は死刑を言い渡した。李は控訴した。

12月28日、東京高裁で控訴棄却。

李は「犯した罪の深さを考えると死刑は当然だ。上告はしたくない」と弁護人や教誨師にもらしていたが、両親が上告締切り時間ぎりぎりに上告手続きをとった。

1審、2審とも、判決に不服があれば判決の翌日から14日以内に検察側、被告側ともに上訴(控訴や上告)ができる。14日経過した時点で上訴がなければ自然に刑が確定する。

1961年(昭和36年)8月17日、最高裁で上告棄却。死刑が確定した。

奇しくも、この日は被害者の太田芳江が殺された命日であった。

1962年(昭和37年)8月、東京拘置所から死刑台のある宮城刑務所仙台拘置支所へ移送される。

当時の東京拘置所には死刑を執行する設備がなく、関東矯正管区の拘置所の死刑囚は、みな宮城刑務所仙台拘置支所に送られて死刑執行されることになっていた。東京拘置所で死刑の執行が行なわれるのは1966年(昭和41年)からである。

「私は “鎮宇” として生きるよりも “珍宇” として死ぬ自分を誇りに思う。姉さん、朝鮮語を勉強するための本を何か送ってください」

獄中の李は、カトリックに帰依し、聖書、宗教書を熟読した。

李珍宇の著書『李珍宇全書簡集』(新人物往来社/朴寿南<李の担当弁護人>編/1979)には「彼女たちは私に殺されたのだ、という思いが、どうして、このようにヴェールを通してしか感じられないのだろうか」という1節がある。

『李珍宇全書簡集』

自分の罪を確認し、贖罪の心を育てる努力を続ける李に、大岡昇平ら文化人や韓国人からの数万人の減刑助命嘆願が集まった。その運動の輪との接触が、李に民族的自覚と他者との連帯意識を芽生えさせ、人間的感情を蘇らせ、ヴェールを取り除く効果を生んだ。

死刑囚は、特に希望すれば「請願作業」といって簡単な仕事、たとえば、袋貼りのような作業を自分の房ですることもできる。これには、懲役作業と同じように「作業賞与金」が出る。李もこの請願作業を行い、もらったわずかの賞与金を東京の両親の元へせっせと送金した。

1962年(昭和37年)11月26日、死刑が執行された。22歳だった。

この事件からほぼ10年後の1968年(昭和43年)2月、金嬉老事件が起きている。金嬉老(キムヒロ)は、静岡県清水市で日本人ヤクザ2人をライフル銃で殺し、同県内寸又峡(すまたきょう)温泉の「ふじみや旅館」に、ダイナマイトを持ち込んで、泊り客13人を人質に5日間立て篭もり、その間に、テレビ、ラジオなどのマスコミを集めて差別問題を訴えた。<罪もないこの家に大変迷惑をかけたことを心から申し訳なく思います。この責任は自分の死によってわびます。お母さん不幸をお許し下さい>この旅館の壁に木炭で書かれた、金嬉老のそんな文字もテレビが映し出した。金嬉老事件と小松川事件女高生殺人事件とは動機も似ているし、日本人にも考えさせられるところが多い。ただ、金嬉老と違って李はストレートにぶちまけることはなかったが、李の小説「悪い奴」にはその屈折させられた心情が素朴な形で託されていた。

この事件を元に製作された映画に『絞死刑』(DVD/監督・大島渚/死刑囚役・尹隆道/2011)がある。

参考文献など・・・
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)

『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)

『東京検死官 三千の変死体と語った男』(新潮社/山崎光夫/2000)
『罪と死と愛と 新版』(三一新書/李珍宇[著]/朴寿南[編]/1984)
『李珍宇ノオト 死刑にされた在日朝鮮人』(三一書房/野崎六郎/1994)
『李珍宇の謎 なぜ犯行を認めたのか』(三一書房/小笠原和彦/1987)
『無実 李珍宇 小松川事件と賄婦殺し』(三一書房/築山俊昭/1982)

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