つづき
渋谷での待ち合わせ場所はいつもモヤイという名の石像と決めている。特に理由はない。ただ、なんとなく、あの像が好きなだけである。それゆえ、待ち合わせ場所のモヤイ像へ私は走っていた。サイレンを鳴らしながら行けば、車も避けてくれるのだが、パトカーでない私にはサイレンを鳴らすことは不可能。だが、急いだおかげで、無事、時間に間にあった。ヤー、助かった。もう琴ちゃんは来ているだろうと思い、そこらを探してみた。
まだ来てないようだった。来てないとなると、それはまた、しめたものである。また、待つこと自体は嫌なことではない。むしろ、楽しい。なぜ、来てないのが楽しいのか。それは簡単なことである。希望というものがふりかかってこそ、すべての存在するものは楽しく、また、美しく見えるからだ。たとえば、小さい頃、駄菓子屋へ行き、どのお菓子を買おうか選ぶとき、ものすごく楽しかっただろう。イカの薫製にするか、泡玉にするか、チョコのついたミニドーナッツにするか。あれこれ、味を想像しながら、選んだことだろう。その想像の時間に、人は実際の駄菓子の味に、希望というふりかけをかけている。そして、その想像した味は、いつも現実の味よりも万倍もうまい。あれと同じだ。希望が、現実の姿よりも、より楽しくさせるのだ、おいしくさせるのだ。だから、待つのは待つので、それも楽しいものなのだ。
しかし、待てど、暮らせど、琴ちゃんは来ない。どうしたのだろうか。私は琴ちゃんに何かあったのではないかと思った。そう思うと、余計にいてもたってもいられない。心配になり、私は日頃、料金がかかるので、滅多に使わないビジネス用の携帯から電話をかけた。
電話は留守番電話だった。もう、家を出たのか、大遅刻のだけか。少しホッとした。そこで、琴ちゃんが家に帰ったとき、連絡を入れるようにというメッセージで、私がどれだけ待ったかを確認させるためにメッセージを入れておいた。そして、私はゆっくり、長期戦で待つことを覚悟した。そうはいっても、琴ちゃんが来ない時間が過ぎていくうちに、また、心配の度合いは高まった。出がけで、事故に遭ったのではないだろうか。私の頭の中では、血だらけの琴ちゃんの顔が、ぐるり、ぐるりとループし始めた。まるで、ドラマの回想シーンのようだ。そして、そのループの速さはレコードの回転板さながらだった。そのレコードを止めるために、私はもう一度、電話をかけた。
留守番電話のままだ。そこで、もう一度、メッセージを入れた。そして、もう少しだけ待つことにした。ゆっくりと、心を落ちつけて。
30分。こんなにも短い時間が異様なほど長く思われたことはない。いろんなことが頭をめぐっていたからだ。もし、事故でけがしてたら。誘拐にあっていたら。今よく出没する通り魔に襲われていたら。でも、この私を一番悩ませた心配はこれらのことではなかった。彼女が日にちを間違えて出かけてしまったのではないか、という想像だった。もし、彼女が家にいるなら、いけない理由を電話で私に伝えるだろう。それなのに、電話はかかってこない。そうなると、家には彼女はいないのだという想像が容易につく。もし、日にちを間違えていて、ちがう用で、外に出ているのなら、私にはつかまえようがない。その時はどうするか。
40分待った時点で私は冷静に時間の使い方を考え始めた。ただ、冷静にというよりは冷酷に、という感じだ。誰か他の人間を呼ぶという思案が浮上し始めていたのだ。なぜ、それが冷酷なことなのか。これがいわゆる、<人が人を切り捨てる>ということにつながるような気がしたからだ。琴ちゃんという人間に対する希望というものを捨て、新たな誰かに琴ちゃんとの時間をかけてしまうことが、私にとっては、たまらなく嫌だったのだ。時間に遅れている者、来ない者を皆捨てる。そんな人間ではいたくない。そんな青い思いが、私に次の誰かを呼ぶという行動をためらわしていた。
50分。もう、琴ちゃんは来ない。電撃的に直感した。というよりも、待つことに疲れたのだ。あまりにも時間が経ちすぎた。琴ちゃんに何かあったのだろうか、という心配を私は強引に引っ込めた。少し顔を引き締め、近くの公衆電話を探した。そして誰かを呼ぶため、電話ボックスに向けて、ふるえる指先を動かした。アイスコーヒーの氷が溶け、ころんという音がした。
「そういう話しか。で、俺がこんな風にして、お前の前で、お前のアイスコーヒーを飲んでいるわけだ」
香川の手が、アイスコーヒーを持っていき、アイスコーヒーを飲んだ。カッコつけた言い回しが少しも似合わない。そんな香川がとてもおかしかった。
「まあ、そういうことかな。ごめんな、急にリリーフピッチャーみたいに呼び出して。今日、時間が空いてるって聞いていたからさ」
「まあ、いいよ。それよりも、俺を呼んだのも、お前のついてない失敗だろうな。花火も予定してたんだろう? お前の花火好きは有名だ
からなあ。その花火も、俺の不幸か、お前の不運でか、結局は延期だものなあ。おそらく、俺の不幸だけどな」
半ば、独り言のように、香川は自分をつぶすようなことを言った。でも、それは優しさいっぱいあふれる言葉で、私を励まそうという趣旨から出た言葉に違いない。私は嬉しかった。改めて、私はこの男の友でいられたことを感謝した。私は香川の友情の温かさで、感情むき出しになっているだろう目を、香川に見せたくなかった。見せたら、それは自分の弱さを自白しているような気がしたからだ。
だから、アイスコーヒーについていたストローの入っていた袋を下にわざと落とした。そして、もぞ、もぞ、熊がどんぐりを拾うかのようにゆっくりと拾う動作をした。遠くから、白いソックスをはいた、健康そうに焼けている足が近づいてきた。どうやら、ウエイトレスがやってきたようだ。上で、なにやら、ウエイトレスが早口で口上を述べ、それに対する香川の神妙な声が聞こえた。テーブルの上にボンと音がした。私は遠ざかる白いソックスをこの目で確認した。もう、視界はぼやけていなかったので、私は潜っていた机から顔を上げようと思った。
「いつまでももぐってないで、早く出てこい」
香川の声が、私が立ち上がるよりも早かった。
「はい、はい」
立ち上がった私の前のテーブルの上には、カレーとスパゲティーが載っていた。
「ほれ、食おうぜ。カレー用のスプーンはこれだからな、ここに置くぞ」
いただきますの合掌をして、無言で私はスプーンを持った。早くも香川は、器用にスパゲティーをフォークですくい上げ、スプーンに乗せている。
「ついていないか・・・。そういえば、今日のお前、車にも引かれそうになったしなあ。二度も」香川の顔がにやりとした。これは何かあるな、という直感が全身の気を張りつめさせた。実際、一度は銀座で救急車に引かれそうになった。でも、香川が抑えてくれたので助かった。しかし、実際に二度も引かれそうにはなっていない。そこで、ピンと、ゲゲゲの鬼太郎の頭に立つ妖気アンテナさながらに、私は思案が浮かんだ。これは私がよく使う型の巧妙なトラップだ。一度目に引かれそうになった車というのは琴ちゃんのことなのだ。車にも、という言葉で、車と琴ちゃんをかけて、私が琴ちゃんに魅かれているということを、私から言わせようとする手なのだ。掛詞を使った、巧妙な誘導尋問だ。しかし、このような話術を香川が使えるのは、昔、私が教えたからだ。自分の技が返せないほど、私は馬鹿ではない。
「ああ、あんなの。日常茶飯時さ」
何事もなかったかのように、私は言葉を投げ返した。香川は予想外の返答を被ったせいか、言葉を失い、黙り込んだ。スパゲティーを食べる手もすこしぎこちないように見える。フォークが皿に当たり、カチカチと鳴っている。
つづく
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