「運とは気まぐれなものだよ」
 
作 上泉 草厳



ベルのついた木製のドアがゆっくり開いた。ベルの音ともに、外から腕を組んだカップルが入ってくる。夏だというのに、春っぽい感じだ。

 「いらっしゃいませ。何名様ですか。」

男の方の客が二本の指を立てた。

 「二名様ですね。こちらにどうぞ。」

ウエイトレスは、そそくさと、私たちの右隣のテーブルに彼らを案内した。視線を返して、私は前に座っている香川の方に向けた。香川も、ほぼ同時にこっちの方に顔を向けてきた。目と目が合ってしまった。私達の場合、これで気まずいといった風にはならない。なぜなら、私と彼の関係は長く、そして、その長い期間でも比べものにならないぐらい深いつき合いをしてきたからだ。長い間の見つめあったままの沈黙など、特別なことではない。慣れっこなことだ。別に、二人が変な関係とかでもない。ただ、二人とも、なんとなく見るだけで、相手のしゃべりたいことや、状態がわかる気がするのだ。だから見つめあってしまう。それに、私の場合は相手の目を見ながら、話をするのが癖なのだ。

 「しかし、今日はなんか、異様についてなかったなあ。花火は中止になるし」

私は深くうなずいた。事実、今日は朝からついていなかった。

 「ホントに、ホントに。いつもなら、あなたが不幸の王子様なのに、今日は俺がそうだな。」
 「へー、いつも、運の良いお前がねえ。何があった?ほれ話してみなさい、タップ。お兄さんは聞いてあげるよ。」

私は、幼児番組の一コマを演じきっている香川にあわせて、今日の不出来な出来事について語り始めた。やる気たっぷりなベルの音が俺の部屋で鳴る。俺は受話器を取って、耳を傾けた。

 「もしもし。高麗軒ですが、弘基君いらっしゃいますでしょうか。」

私は不思議に思った。なぜ、こんな朝早くにバイト先から電話がかかってくるのだろうか?どう考えても、不条理だ。なにか、緊急の伝言だろうか。それとも、首ということだろうか。

 「はい、私ですけど」
 「あの、今日9時からの予定で入ってませんか。ここの日程表にはそう書いてあるんですが」
 「へ、今日はたしか休みのはずですよ。今日は」
 「いや、入ってるんです。来れるんでしたら、早く来てもらえませんか」
 「いえ、その、今日出かける用があるんですよ。だから、行けないんです。
 「すいません。でも、たしかに、今日は入れてないですよ。私は今日は最初から予定を入れてましたから」
 「そうですか、じゃ、すいません。今忙しいんで。また後でこっちの予定を見直してからもう一度、電話をかけます」

切れた電話の受話器をポンと軽く置いて、私は、自分が間違えるはずがない、むこうのミスだな、と思った。そして、電話がかかってくるまでやっていた掃除という生活上大事な事業の方に戻っていった。掃除機のやかましささえも、外から聞こえる蝉の鳴き声には負けている。それほど、蝉の鳴き声は煩わしかった。
掃除を終え、やれ、やれ、と一汗拭っていると、また電話がけたたましく鳴った。はい、はい、はいと、声を電話の方にかけながら、受話器の耳の部分を耳に当てる。また、バイト先からだった。

 「もしもし、弘基君。やっぱり、君入っているよ。ここの君が出してくれた予定表に書いてあるもの。」

そんなはずはないと思った。が、その瞬間。なんとはなく、予定表に丸印を書き込んでいる7月の自分が思い出された。顔面蒼白。これはまずい。向こうには物質的証拠がある。そのために、とぼけることもできない。さらに、自分に心当たりもある。あせりと痛恨の悔恨で、良心の塊、小心者になっていた自分には、どうもこうも言い訳できない。誠実そうに、謝り続けるしかない。

 「え、ホントですか。すいません。それなら、こちらのミスです。」

この時初めて、謝るときに、つい、電話越しで相手に見えもしないのに頭を下げてしまう人の気持ちがはっきりとわかった。

 「これから、こちらには来られないんですよね?」
 「ええ、予定がありますから。でも、どうも本当にすいません。ご迷惑かけます」
 「これからもこういうことがあると困りますよ。気をつけて下さい」

事務的な返答にややムッとはしたが、ひたすら謝るしかない。私はただ、ただ、謝り、自分のミスであることを強調した。強調しすぎて、しすぎることはない。こういうときにこそ、謝るのだ。

 「じゃあ、次回は忘れないように」
 「はい、どうも、すいませんでした。どうも、ごめんなさい」

私は実に嫌な気がした。予定を忘れるなんて。冷静沈着かつ、大胆不敵、完全無欠、冷酷無比、自画自賛である私がこんな凡ミスをするとは。しかし、次の瞬間からは、その嫌な気分をコロッと忘れさせていた。忘れさせなければならない。なぜなら、これから琴ちゃんという女性と会う約束をしていたからだ。俺は自分が不快な顔で人に会うことは、相手に対して失礼と考えている。だから、気持ちを切り替える必要性があったのだ。
 360度、いや、180度、ブルーとオレンジの情を逆転させた。公私混同せず生活する、武士道とはここにありき。そういう意気込み、感覚、考え方、というより、育ちであろうか。バイト先の方から言わせてもらえれば、たまったものじゃないだろうが。
時は経ち、まだ掃除の済んでいない部屋から旅立つ時間となった。コーヒーカップに残っていた、まずくて飲み残していた青汁を口にがばっと入れる。苦い、と思いながらも、口を手で押さえ、くくっと喉に通した。
 うー、まずい、もう一杯、などと、テレビの宣伝のまねをして、自分をごまかす。
 さあて、行かれますか。私は自分に声をかけた。鞄を左肩にかけて、私は部屋の中を総点検した。電気は消したか、テレビは消えているか、鍵は閉めたか。よし、行こう。私は外と大して変わらない暑さの部屋を出た。廊下をゆっくり歩く。なんだか忘れ物があるような気がして、たまらなかったからだ。
 しかし、そんなことをしているうちに、トイレに行きたくなった。洗面所を駆け抜け、トイレに行く。その時、とんでもないことに気づいた。用を済ませようと、ズボンを見たときに気づいた。なんと、ズボンが普段着のままなのだ。びっくりして、腰を抜かしてしまった。そう、着替えることをすっかり忘れていたのだ。ばかばかしいにも程がある。私は普段着をかなぐり捨てた。
 とにもかくにも、やっとの事で、ふたたび、出かけることのできる。
しかし、すでに出かけていなければならない時間だった。茶色のウォーキングシューズを履きながらも、もう、他に忘れ物がないだろうか、と考え続けた。でも、もう時間がない。忘れ物になど気を使っていないで、汽笛を鳴らせ、といわんばかりに、私という筏型豪華客船は出発した。投げられる紙テープはまったくない。
 外に出てみると、そこには小気味良いほど強い風が横に吹いていた。前のセブンイレブンの幟が風で鳥が羽ばたくように揺れていた。これはたまらないなあ、と思いながらも、私は一人微笑んだ。そして、急ぎ足で進み始めた。追い風の強い日はやっぱり、歩くスピードが違う。速くていい。ものの10分ぐらいで、大井町の駅まで簡単に出て来ることができた。その快適なスピード
に自己満足しながら、私は渋谷までの切符を買い求めた。渋谷まで180円と、上の掲示されているマップから認識した。財布を鞄から出しながら、何気なく、受話器の付いている切符の自販機の前に立った。
 すると、急に、自販機がしゃべり始めたのである。

 「いらっしゃいませ。・・・・・・・・・・・・・・・・・さい」

私は、自販機がしゃべったことにたいする驚きと、混迷の中で、自販機の告げた言葉をほとんど聞き取ることができなかった。しかし、そこは天下の文明人である私だ。機械にはめっぽう強い。冷静さを取り戻すと、自販機の前面をくまなく何か書いていないか調べた。しかし、何か、それらしいものは何も書いていない。どうしよう、これ。どうにも、ならへんやんか。一度戻ったはずの冷静さはどうやら偽物であったようだ。私は、ますます激しくなる混乱と動揺の中、なんとなく後ろを振り返った。しかし、これは失敗だった。後ろには、いかにもサラリーマンという格好をした青年と、ヤンキーの兄さんがいらいらしながら待っていた。その様子を見た私は余計にあせってしまった。あせっても、どうしようもないのだが、あせりにあせった。こんなにも、私があせったことは今世紀中にあっただろうか。いや・・・。
 こんな自問自答を心の奥底でやっていると、後ろからサラリーマン風の青年が声をかけてきた、不機嫌そうな、そして、いささか馬鹿にしたような声で。

 「受話器を取って、行き先を言えばいいんですよ」
 「・・・・そうなんですか、どうも」

小さくなった私が、小さな声で感謝の辞を述べ、受話器に手をかけた。そして、より小さな声で、一言、ぼそりとつぶやいた。

 「渋谷まで」
 
 自己嫌悪の血液が、体中にまわり、体を熱くした。この自己嫌悪の血液こそが、恥という人間の触れてはいけない毒を体中にまわすのだろう。いよいよもって、さっきの態度は恥ずかしかった。暑さでか、それとも、毒が体中にいきとどいたせいだろうか。顔は汗だらけ。そのうえ、顔は真っ赤になってしまっていた。これじゃ、タコと同じだな、と一人電車を待ちながら苦笑した。もちろん、手には、ぎゅっと握りしめたことによってできた、皺だらけの切符が一枚。
 
 「ははは、そりゃ、お前が悪いんじゃないか」
 「いーや、運が悪いだけだ。本当に、何気なく、無意識に、その自販機を選んじゃったんだから」

私はムキになって、否定した。否定し続けた。

 「でもよ、服の一件にしたって、バイトの話しにしたって、お前が悪いんじゃないんか。え、どうだ? 」

言葉に詰まった私は、一度外に目をやった。そして、ツバメ返しさながらの切り返しで、香川の鼻頭を見た。香川の笑い顔は、私に自業自得という四字熟語を思い出させるのには十分だった。

 「レモンティーのお客様はどちら様でしょうか」
 「あ、はい、こっちです」

私はなんだかよくわからなかったが、とりあえず、このテーブルの上に載せておけばいいと思い、テーブルの上に置いてもらった。
 
 「アイスコーヒーは少々お待ち下さい」

白いハイソックスを履いた、肌の焼けているウエイトレスはペコリとおじぎをして戻っていった。私の、どうも、と言う言葉が彼女の後を追う。

 「これ、香川のだろ? ほれ」
 「いや、俺はミルクティーだ。断固、俺が頼んだのはミルクティーだ」
 「へ? じゃあ、これ誰の? 」
 「知るかよ、お前があまりにも手際よく受け取るもんだから、なんにも言えなかったんだ」
 「まあ、それは知らなかったわ。あら、ごめんなさい」

私流のごまかし方だ。しかし、私と香川の長いつきあいではそんなごまかしはいらない。というより、通じない。
 
 「たっく、お前。やっぱり、ついてないな、今日」

断固ミルクティーだ、と言っている割には、香川はおいしそうにレモンティーを飲んでいる。

 「でよ、それだけなのか。ついてなかった一日ってさあ」
 「それで、済むんだったらなあ・・・・・・」

香川は私の話口調が上手いせいか、それとも、珍しく、私が愚痴を吐くのが面白いのか、次の話しをすることをしきりと促した。私は、岸屋の顔に映っている、自業自得という言葉の魔力によって、重く閉ざしていた口をふたたび動かし始めた。もちろん、私の口は動き出したら止まらない。もともと、誰かに聞いてもらいたくて仕方ないのだから。軽やかな口は静かに回転しだした。
 
 電車の窓からは、赤い車ばかりの恵比寿教習所が見える。電車はもう恵比寿を出て、渋谷に向かっていた。私は次の渋谷駅で開くはずのドアに寄り掛かっていた。寄り掛かりながら、時計をのぞき込んでいた。その時計は約束の時間のわずか5分前を指していた。遅れたら、やばいよな。そんなことを私の持っている電池式の電子頭脳は再確認した。でも、電車の中じゃどうしようもない。電車の中で走ったとしても意味がない。間に合うだろうという楽感と、出がけでやった支度の失敗の後悔が半分ずつ。私の非凡な頭脳を支配している。しかし、どうして、あんなにも愚かなことをしたのだろう。服を着替え忘れるなんて。そんなことは5才の子供でさえやらないだろう。後悔してもしょうがないとわかっていても、こんな時は人に言い訳しているかのように自己弁護をしてしまう。でも、頭の一方では、このスリル感がたまらない。間に合うか、間に合わないか、この一瞬が楽しいんだよな、などと考えている。自分の中で、このように考え始めると収拾がつかない。ああでもない、こうでもない。水掛け論を目の前でやられているような気分だ。不快で、
わけがわからない。
 けれども、また違う考えも浮かぶ。原因は実際、すべて私の中にある。私が原因だ。私の責任なのだ。自己に責任を強く押しつけ、悲劇のヒーローを演じている面も頭の一隅からひょっこり顔を出してくる。一般的にこういう状態を、大混乱、というのだろう。
と、その時。急にドアが開いた。ドアに寄り掛かり続けていた私にはたまったものじゃなかった。よろめき、ホームに倒れ込んでしまった。一瞬、なにが起こったのか、まったく理解不可能だった。というより、渋谷に着いたという事さえも気づくのに時間がかかってしまった。周囲を見回し、渋谷駅に着いたことを認識した。そして、何もなかったかのように済ました顔をして、ゆっくりと立ち上がった。何だ、こいつ、と言わんばかりの周囲の視線を巧みにカットしながら、私は改札所まで走った。もう、時間がほとんどない。しかも、転んだことで平常心がかなり失われている。今こそ、ピンチだ。変身するしかない。私はそのために持ってきていた、ペンライトに明かりをつけた。しかし、私は当然、ウルトラマンでも、正義の味方のヒーローでも、特撮に出てくる怪人でもない。つまり、変身できるはずがない。それでも、落ちつきと楽しさを身体で表現する、いつもの自分に変化した。そして、今月の月間目標名文句である、(常に、落ちつきを、そして、笑顔を)を心の中で咆哮した。光りを我に、と言ったゲーテさながらの文句の冴えが心の中で切れ始めた。にやりと、一つ、紀子様スマイルが出てきた。出てきても、たいした意味はないんだが、それでも、微笑ができるようになったことは大きい。少しづつ、戻りつつある。
 
 寝ぼけたような香川の声が耳に入ってくる。

 「ボーとしているから、そういう目に遭うんだ。だいたい、普通じゃないぞ、ドアが開くのに気づかないなんて。お前、そんなに鈍くない
  だろ」

事実、そうなってしまったことは本当だから、弁解をしようと思わなかった。ただ、良い返し文句が浮かばなかったので、私は黙りを始め
てしまった。
 ウエイトレスが近づいてきた。香川の目線がそれを私に教えてくれた。

 「アイスコーヒーのお客様」
 「はい、私です、どうも、ありがとうございます」

私はウエイトレスに好感の持たれるような応対をした。ウエイトレスはアイスコーヒーを、テーブルにおごそかに置いた。そして、ごゆっくり、と言って、また、すたすたと立ち去った。もちろん、背中には私の言った、ごくろうさまという言葉がついている。

 「エセ偽善者め」
 「そうか、別にそういうつもりで挨拶しているわけじゃないよ。むこうも気持ちいいんじゃないか。こんなにもラテン系のお客様が来てく  れて、こういうふうに挨拶してくれるのは! 」
 「お前の日頃を見ている人間からは、それが毒々しい」

答える代わりに、私は香川のいる方を見た。だが、視線は逸れた。視線は香川を越えて、後ろの新しい客の方にぶつかっていた。ふと気づいたら、香川の後ろに、色白の女の子が座っていた。私は彼女を見た瞬間、一輪のスミレ草を思い出した。スミレ草が一輪咲いているような感じで、静かに座っている。朝顔模様の浴衣を着ている彼女の左手には、紺の表紙のハード
カバア。「不夜城」を読んでいるようだ。彼女の手にした本で、その美しいであろう顔が隠れて見えない。それが、少し淋しかった。

 「ほい、なに見てんだ」

素直にお前の後ろに座っている女の人だよ、と言っても良かった。が、なにか気恥ずかしくて、ごまかすことができないとわかっていても、適当にごまかそうとした。

 「YOUR HEART」
 「ふふん、またそれか。今度はなにを考えているというんだ。お前が英語でものを言うとき。あと、なにか相手が照れ腐るようなことを  ぬかすとき。それって、何かをとばけるときのお前の常套手段じゃないか、違うか?」
 「しかも、それの併せ技ときているからか?その疑惑の眼差しは」

香川の顔がアップに見えた。というより、香川が一歩、顔を前面に出したのだ。香川は口をなにやら、もごつかせていた。言いたいことが言えずにもどかしい様子だ。そして、舌打ちを一つして、香川は自分の定位置に顔面を戻した。

 「なにがいいたいんだ、香川。吐け、吐かないと眠らせんぞ」私は刑事さながらの迫力で、語気を強めた。でも、顔はにやけている。
 「いや、なに。俺たちのことだ。ここで言わなくても、必ず、お前は言うだろう、俺に。なにを考えていたのか。いつも、そうだったよな。  入来についてもそうだったし、河合さんのときもそうだった。お前は理由がなければ、そういう態度をとるような人間じゃない。それに  気づいただけのことだ」

その台詞が終わる頃には、私は水を完全に飲み干していた。水と同時に、香川についての昔までの評価も飲み込んでいた。

「そうか、つきあいが長いといいな。いちいち、言葉でいう必要性がなくって。楽でいい」

香川は私の発言を黙殺した。

「で、ついてなかった一日はそこで終わったのか」

香川はさっきまでの話題に戻した。戻すことによって、沈黙を避けたかのようにも見える。けれども、私も沈黙を避けたかったので、それならそれでよかった。私は、まだ終わらない、このついていなかった一日について、ふたたび語り始めた。


つづく…


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