【知事随想】
◎分かりやすい行政を考えよ
全国知事会が発行する「都道府県展望」(2008年8月号)に載った東国原英夫宮崎県知事の「知事随想」は、いかにも東国原氏らしい素人的施政が表れていておもしろい。
東国原氏は冒頭で「『気』を大事にしている。県民をその気にさせ、やる気・元気・活気を出してもらう。知事として一番大事なのは、これじゃないのかと思っている」と書いている。
知名度もあるが、道路特定財源の一般財源化をめぐる攻防で、先頭に立って地方の「窮状」を訴えた東国原氏の主張は、宮崎県の置かれた社会資本整備の遅れを取り戻そうという熱い思いがこもっていた。
その主張の善しあしを本稿は取り上げるつもりはない。目を向けてほしいのは、「知事随想」で当たり前のように紹介される当該自治体の「夢多き」事業計画ではない、という点である。
東国原氏が書いているように「『宮崎をどげんかせんといかん』という言葉は、宮崎人の心に巣くう閉塞感や劣等感を打破しようというものだった」ことは間違いない。県産品PRの陣頭指揮に立ち、いつ県庁内で仕事をしているのだろうか、と心配させるくらい県外出張が多いことは、知事日程を見るまでもない。
もちろん県議会の定例会はあるし、臨時議会だって予定される。東国原氏の人目につく県外での活動は、議会の合い間を縫ってやっていることだからとやかくは言えない。
だが、行政のプロを自任する識者の目からすれば、「もっと行政の本筋の仕事に精を出すべきだ」となる。が、県民の目線は行政のイロハを説かれるよりも明るく前向きに歩けるどうかである。行政と庶民感覚の落差と言っていい。
その落差を小さくし、行政を庶民感覚に近づける努力が全国的になされているだろうか。
人心を収攬できるかどうかは、リーダーに欠かせない資質であり、国政をミニチュア化したような地方政治は、地方都市のミニ東京化同様おもしろくもない。
住民が自分が住む街に、あるいは地域に誇りを持てるかどうかは、地域活性化と切り離せない。愛着を持てない郷土を元気な街にしようと思っても、その気にさせるものがなければ、住民を奮い立たせることはできないからだ。
ただでさえ、カネがないご時世である。必要もない公共施設を造って首長が成果を自慢したハコモノ行政が幅を利かせたのは遠い昔のはかない夢である。
となれば、頼りとなるのは知恵しかない。
世代を超えた「老・壮・青」が喧喧諤諤(けんけんがくがく)の場を経験するのもいい。「老」の経験を今に生かす仕掛けがないから、「老」は自分の居場所が見つからない。「敬老」は年寄りを敬うだけでなく、老なりの役割を担ってもらうことである。
住民を奮い立たせるという最も基本的な領域に地方行政が早くから気づいていれば、お上意識を振りかざすことも、ましてや官製談合で甘い汁を吸い続けることもなかったはずだ。
都道府県庁や市役所、町村役場は地域における「トップ企業」である。人、モノ、カネをあまり心配しないで活用できた。それが分権改革の流れの中で変調をきたし、三位一体改革で袋小路に追い込まれた。
悲鳴を上げた自治体が編み出したのが、行政をスリム化すると同時に住民と連携して行政を進める「協働」である。協働という言葉の響きと開かれた行政を感じさせる言葉は県政のキーワードとして施政の柱となった。
だが、この協働は行政から投げられたボールでだけに、県民や地域住民にどれだけ受け入れられているのかは不明確だ。
公務員は「公僕」であり、公僕は公衆に奉仕する者である。奉仕する立場の公務員が、「主人」たる公衆に協働を呼び掛けるのは順序が逆だという本質論を突く識者は多い。
確かに理屈はそうだが、では不特定多数の公衆が協働を主導することができるのかという問題もある。結局は住民意識の進化がなければ、真の意味での協働はあり得ないということになる。
住民を奮い立たせるのは、理解し難い言葉が並ぶ事細かな施策ではない。バラ色の夢を振りまくことでもない。行政が住民と共に歩んでいるという確かな証しである。そして、確かな手ごたえを感じた住民が郷土に自信と誇りが持てれば言うことはない。
(08年9月23日)