連載企画「カウントダウン 沖縄サミット」
3回続きの(中)「軍用地主」

◎基地行政占う跡地利用
 多様化した地主の意識

 七十九歳の誕生日を迎えたばかりの宮城豊吉さんは、宜野湾市軍用地主会の副会長を昨年退いた。「もうこの年では普天間の処理はできない」と後進に譲った。
 自宅から西の方角、約百五十メートルに普天間飛行場の滑走路の南端が見える。米軍ヘリがごう音を響かせながら何回となく旋回、飛び去った。
 目と鼻の先の基地が、ようやく名護市東海岸の辺野古沿岸域への移設が決まったが、宮城さんの気持ちは晴れない。
 「向こう(辺野古)の人たちが受け入れるのかと思うと忍びない。(基地が)長くならないようしてもらわないと、かわいそうだ」

沖縄基地問題

 宮城さんは、「本当の故郷は普天間基地の中だ」と言う。わずか六百六十平方メートルの所有地だが、今は飛行場の滑走路の下に隠れている。
 「若いもんは基地が返還になっても、故郷に帰るという気持ちはない。ほとんどが軍用地代をくれる場所としか思っていない」
 同じ軍用地主でも年寄りと若者の考えの違いは大きい、と宮城さんは嘆いたが、年代の違いだけでなく地主の意識は多様化する一方だ。
 宮城さんが、戦後携わった地籍調査で作製した「字宜野湾地区」の地図に故郷がある。沖縄中部の中心地で役場、学校、料亭、それに上流階級が楽しんだ馬場もあった。故郷への熱い思いが表れた。
 普天間飛行場は面積約四百八十ヘクタール。地主の数は二千数百人、うち軍用地提供を拒否する「反戦地主」は約七百人に上る。
 宜野湾市は基地の周りにドーナツ状に広がる。普天間飛行場の返還跡地利用は、周囲の住宅密集地域と抱き合わせの再開発事業にならざるを得ない。軍用地主との調整に加え一般地主との交渉の行方も、全体計画の成否を左右する。市の跡地利用の基本計画はできたが、実施計画はまだ先のことだ。
 比嘉盛光市長は言う。
 「県と名護市の動きを静観するしかない。受け入れる側のことを考えると辛い」。反発が強い県内移設への影響を考えて口をつぐんでしまった。

 基地跡地利用の成功例とされる例は幾つかあるが、普天間の先例とするには無理がある。開発規模、関係地主数ともけた違いの普天間返還跡地には難題が山積するからだ。
 地主への地代補償期間の延長だけでなく、従来の都市計画や区画整理など跡地利用の実効性に疑問がある問題を克服するための特別立法が必要になるだろう。
 同時に、地主個人や地主会に求められるものも小さくない。そして各地主会の連合組織である県軍用地等地主会連合会(土地連)の役割は、従来にも増して大きい。ところが、土地連の役員会で交わされる議論で肝心な部分は秘密扱いとなり公表されない、という話を聞いた。

 この数年、軍用地の売買が大手を振ってまかり通っている。毎年、軍用地代は着実に上昇する。投資対象として打ってつけだ。基地をめぐる環境の変化が急な今こそ、土地連の大局的な立場からの役割が求められる。
 沖縄の基地行政を円滑化し、基地の整理・縮小を可能にするには、長期的な視点に立った財政や組織の裏付けが要る。
 もし跡地利用が失敗したらどうなるか。比嘉市長は「もう基地を返せなどと言えなくなる。その意味で普天間は将来の基地行政を左右することになる」と言った。手をこまねいて跡地利用の「悪いモデル」にしてはならない。政府や県市町村のみならず地主の側にも重い責任がある。

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