☆小渕首相の思いもしなかった退陣で森新内閣が発足したが、地元沖縄は中央の政治情勢と無関係にサミットに向けて動き出していた。世紀の祭典に対する思惑、複雑な県民の感情が交差する。3回続きで現地の姿を紹介した。

連載企画「カウントダウン 沖縄サミット」
3回続きの(上)「民需の魅力」

◎今も変わらぬ沖縄”市場”
 隠れて見えない県民心情

 沖縄の米軍基地と切り離せないのが県内の大手建設会社、国場組である。那覇市中心部の本社ビル十四階の広々とした部屋で、国場幸一郎相談役は一九五八(昭和三十三)年ごろから始まった米軍キャンプ・シュワブ建設の模様を話した。
 「東京の大学を終えて帰郷、いきなり米軍工事ですよ。払い下げのブルドーザー、クレーン、ダンプトラックなどを使ってね。現場も知らない若い副主任が見よう見まねでやったが、米軍の工事仕様が細かくて散々苦労した」

 キャンプ・シュワブは、戦火を逃れた県民を収容するため米軍が造営した大浦崎収容所跡に造られた。現在の名護市東海岸の大浦湾に面する辺野古崎を含む一帯だ。
 戦前・戦中、トロッコやモッコ、ツルハシを使った土木工事が当たり前だった業者に、大型建設機械を駆使した基地建設工事は驚きの連続だった。今、ゼネコンと呼ばれる本土の大手建設会社も仕事を求めて沖縄に押し掛け、さながら沖縄は大規模土木工事のメッカの様相を呈した。「日本の建設業は沖縄から始まった」と言われるゆえんである。
 国場組が受け持ったのは「特殊弾薬庫」だった。
 「大きいのは縦百メートル、横二百メートルはあった」。巨大なプールに蓋をしたものと考えればいい。弾薬庫は四十―五十基造った。「空調機器も完備し、例の核爆弾ね。あれをしまったんだね」。キャンプの兵舎などは本土企業が請け負った。
 その後、国場組はキャンプ・ハンセンの工事を一括受注、完成させる。
 基地建設で学んだ高度な技術は中近東での仕事や本土のダム建設につながったが、基地工事に楽しい思い出はなかったと国場相談役は言った。
 工事仕様の厳しさに加え、権限もワシントン直轄などいくつかに分かれ、米国の財政問題も絡んだ。「業者はみな辛い思いをし、つぶれたものも多い。本土企業も同じだ」

 仕事で楽しさを味わうようになったのは、民間の工事が多くなってから。「ピークは沖縄特別海洋博」と言う。七二年の本土復帰を記念した海洋博覧会は地元企業を潤した。
 本土との格差を解消するための各種の特別措置や社会基盤整備、産業育成のための公共投資は復帰後、累計で約六兆円に上る。だが経済は自立できないまま、国の公共投資に頼る体質が続いている。
 昨年四月末、主要国首脳会議(沖縄サミット)の開催が決まり、普天間飛行場の名護市辺野古沿岸域への移設も決定した。復帰から続く国の公共事業に加えて普天間移設に伴う代替施設の建設や振興策を狙った本土企業の態勢強化は、敗戦後に競って沖縄に進出した状況にも似ている。
 普天間の名護移設に反対した大田昌秀氏から稲嶺恵一氏に知事が代わってから、国と県の関係は万事順調だ。

 政府がこれまで用意し、これからも示すであろう振興策は、在日米軍が集中する現実に対する一種の「思いやり予算」と言い換えることができる。大田前県政の最終段階は、用意された振興メニューが消えた。この「思いやり」と「凍結」が繰り返される限り、国と県の信頼関係は確立しない。
 目前に迫った主要国首脳会議(沖縄サミット)の準備は急ピッチで進んでいるが、県民に一時の熱気はない。沖縄国際大学の富川盛武教授はこんな状況を「一歩前に出るとあらぬ摩擦が起きる、そんな一般的な心情がある」と見る。
 サミットで隠れた心情は、そう遠くないうちに露になるだろう。

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