インタビュー企画「当事者が語る『普天間の実相』」
4回続きの(4)(完)大田昌秀沖縄県知事

◎通じなかった沖縄の歴史
 移設容認は無責任

 海上ヘリ基地案の受け入れを迫る橋本首相に、大田知事(いずれも当時)は最後まで譲らなかった。一九九七年暮れの会談を最後に、政府と県の対話は途絶えた。一年前、新知事稲嶺恵一氏が登場、沖縄は新たな歩みを始めた。

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 ▽最後の会談

 「私が会う前に(比嘉鉄也)名護市長が橋本さんに海上基地案を受け入れると言ったが、こんな騒ぎの中では将来に悔いを残すかもしれないし、軽々に判断できない。県民の意向も確かめなければならない。時間をくださいと申し上げた」
 「(首相)周辺は名護(市長)がやったのだからと言うが、県には将来構想(国際都市形成構想)がある。安全保障、自治、地域の問題を公平に判断できるところで裁定されれば、県民も同意するかもしれないと提言したら、橋本さんはムッとしたようだった」
 「沖縄には基地を押し付けられてきた歴史の積み重ねがある。しかも、(ヘリ基地を)受け入れることは県が戦後初めて基地建設を認知することになる。責任を果たせないことを軽々に言って橋本さんを裏切ってはいけない。私のそんな気持ちが分かってもらえないのがつらかった」
 「私の口から橋本さんに言えば良かったかもしれないが、私から言うと見え透いたことになるので、牛尾さん(前経済同友会代表幹事)に会ったときに、われわれの気持ちを伝えてくれるように頼んだ。牛尾さんは、すぐ解決した方が橋本さんのためになるという話だった」

 ▽首相と再会

 「九七年暮れの会談後、橋本さんにぜひともお会いしようと努力した。会えないまま海上基地拒否を表明せざるを得なかったが、個人的には橋本さんと梶山さん(元官房長官)には大変恩義を感じている。本気で(沖縄問題に)取り組んでくれた」
 「知事を辞めてから、やっと橋本さんに事務所でお会いできた。ご期待に沿えませんでした、と謝った。特に基地の話はしなかった。梶山さんにお会いしたら『(沖縄で)一国二制度をやりたかった』と言われた」
 「名護の辺野古沿岸域に普天間の移設を決めるのは簡単だ。問題は建設できるかということ。県政の中に建設スタートは五、六年後だから別の話、との考えがあるなら、それこそ大変な間違いだ。自分たちが責任を取れないことをやってしまうことをどう考えるのか」

 ▽責任回避

 「それと、普天間移設に巨額の費用をかける必然性があるとは考えられない。米国の軍事評論家や現職の軍幹部と絶えず議論しているが、沖縄の兵力削減は可能だと言っている。経済的問題から見ても、基地建設は必ず環境問題を引き起こすという判断を私は持っていた」
 「アジア太平洋の平和を守るために沖縄基地が不可欠と言いながら、同じことが言われたフィリピンの基地はある日、突然消えた。海上基地案は最善と言われながら、昨年の知事選では相手候補(稲嶺現知事)は反対と言い、政府もこれを認めた。それなのに、また海上基地案が復活した。そんなに方針が変わっていいものか」
 「私は沖縄の戦時中、戦後を体験した。ポッと出の知事だったら、政府の言うことを聞いていたかもしれない。私が日本の政治に失望しているのは、国会がこれまで何回も基地縮小を決議しながら、それが守られていないからだ。米国は議論を嫌がらない。政府は米国に信頼されるよう、はっきりものを言うべきだ」

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