☆難航を続けた普天間飛行場の移設は、稲嶺知事と岸本名護市長の受け入れ表明で大きな山を乗り越えた。962月、当時の橋本首相が訪米してクリントン大統領と差しの会談で「普天間返還」を切り出してから足かけ4年。途中、海上基地構想をめぐって暗礁に乗り上げた。
 96年当時、問題に取り組んだ梶山静六官房長官、斉藤駐米大使、村田防衛事務次官そして、大田沖縄県知事の4人に当時を振り返ってもらった。4回続きを紹介する。(いずれも、聞き手・構成は編集委員・尾形宣夫)

インタビュー企画「当事者が語る『普天間の実相』」
4回続きの(1)梶山静六元官房長官

◎公式会談避け普天間を提起
 不可避だった特措法改正

  一九九六年四月に普天間飛行場全面返還の合意を取り付けた橋本竜太郎首相(当時)の執念は在任中、ついに実らなかった。普天間の県内移設をめぐる自民党内の強硬論の抑えに悩む政府首脳は、米軍用地特別措置法改正の道を選んだ。

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 ▽サンタモニカ
 「九六年一月、橋本さんが首相に就任したから早く米国に行かせたかった。私がモンデール駐日米大使(当時)に頼んだのは、ワシントンに行くと公式訪問になって条件を付けられる。大統領選挙で西海岸に来るのを狙って、クリントン大統領に会わせること。話は外務省抜きで進めた」
 「二月のサンタモニカ日米首脳会談の日取りは、レーク大統領補佐官(当時)が韓国訪問の帰途、私のところに来て固めた。あくまでも顔見せ、約束とかはない。しかし、大統領に聞かれれば何かを言わなければならない。一番は普天間だったが、大統領は意外とあっさり分かってくれた」
 「普天間飛行場の返還で合意し、首相は九月に代替施設として海上基地案を言ったが、米側には航空母艦型で、船でどこにでも持っていける移動型の概念が初めはあった。そんなのは駄目だったと言った」
 「代替施設の態様はいろいろあった。私が持っていた案は、埋め立てと海上に浮かぶ箱型施設を併用したものだ。沖合に埋め立ての島をつくり、その手前に浮体施設を置く。サンゴ礁を守り、島にはマングローブを植える。自然の風波に強く、施設が撤去されれば自然が戻る。この案を出す機会を逸してしまったが、大田さん(大田昌秀前知事)には口頭で言った」

 ▽殉教者
 「ところが沖縄の政治情勢は大田さんが知事選に出るか出ないかで動きが慌ただしかった。そんな話には乗っていられなかったのだろう。私たちは大田さんで、どこまで、どれだけやれるかだけを考え続けた」
 「私が大田さんを殉教者にしてはいけないと言ったのは、自民党内や政府部内の反大田感情や基地問題の強硬論を抑えるためだ。沖縄には基地問題で積年の恨みがある。沖縄が一つにまとまれるのは基地問題だ。そんな背景がある大田さんは殉教者になりかねない機運ができていたので大変怖かった」
 「首相と大田さんは十七回も会談したが、とても紳士的だが、しんの強い人だった。少しでも政府の誠意を分かってほしいと願った。大田さんも首相や私がいるうちは基地問題も進むだろうという期待を持ってくれたと思う」

 ▽特措法改正
 「九六年四月に読谷村の楚辺通信所の一部の使用期限が切れた時は法治国家として耐え難かった。米軍用地の継続使用を可能にする特別措置法の改正については四つの案を作った。一番強いのは特別立法だが出さなかった。特措法の改正案は最も弱い案だ」
 「沖縄の戦後を考えるといくら涙を流しても尽くせるものではない。しかし、国会議員として、沖縄の米軍基地の継続使用のため、法改正をせざるを得なかった。だから逆に、法改正をやるからには衆参両院の三分の二以上の賛同を得たいと思った。圧倒的多数の可決に批判はあるが、大田さんは口にこそ出さないが、圧倒的可決で気が楽になったのではないか」
 「橋本さんは一つのことに打ち込むとものすごい名人作品を残す。沖縄問題に集中してもらったが、結果を見ないまま辞したのは残念としか言いようがない」

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