論説「新平和祈念資料館」

◎普天間問題への波及を懸念

 沖縄県が、太平洋戦争末期の「沖縄戦の実相」をめぐって揺れている。
 来年三月開館する新平和祈念資料館の展示資料の内容が県の意向で大幅に変更されたことに県民が猛反発、展示内容はほぼ元に戻されるようだ。
 だが、これで問題解決とはいきそうもない。問題が沖縄の反戦思想を突く歴史認識にかかわり、変更を元に戻せば済むとはならないからだ。来年七月の主要国首脳会議(沖縄サミット)と懸案の普天間飛行場の移設問題は当面する最重要課題である。
 この二つの課題と沖縄戦の史実は直接には結び付かないが、無縁とは言い難い。特に「普天間」移設への波及は避けられないかもしれない。

 県の委嘱を受けた監修委員会は一九九六年から足掛け三年にわたって展示内容を検討してきた。変更は、例えば避難壕(ごう)の中で住民に向けた日本軍兵士の銃がなくなったり、写真説明が書き換えられるなど、これまで明らかになっただけで十八項目について手が加えられたり、変更が検討されたという。
 稲嶺恵一知事は変更指示を否定。県は、変更は作業過程の中の問題だとの見解を正式に表明したが真相は明確でない。
 八月に展示内容の一部が監修委員会に無断で変更されていることが明るみに出て以来、当初案が変えられていることが次々と判明。県の説得力のある説明がなかっただけでなく、対応が二転三転した。
 戦争体験の風化が著しい今必要なのは何か。
 中国における日本軍の遺棄化学兵器、南京大虐殺や各地の従軍慰安婦などの問題は今でも尾を引いている。そんな中で国内問題ではあるが、沖縄戦をどう後世に伝えるかという点が問われている。
 歴史継承の手法には違いがあるかもしれない。だが、きれいごとでは戦争の実態は分からない。原体験を示してこそ追体験ができるのである。新資料館設立の目的はそこにあったはずだ。

沖縄基地問題

 昨年十一月知事選で保守系の稲嶺氏が当選してから政府と県の関係は前県政とは様変わりし、極めて良好だ。もし、県幹部が政府の気持ちをおもんばかって沖縄戦の残虐さを薄めようなどと考えたとしたら、それこそ間違いもはなはだしい。
 負の遺産であっても、歴史の教訓として引き継ぐ労を政治や行政が惜しんでならないことは、嫌というほど思い知らされている。
 沖縄戦は国内で唯一の大規模な地上戦だった。そして当時の県民の四人の一人が犠牲となった。戦争の悲惨さを大きくしたのは、「友軍」である日本兵による住民虐殺や集団自決の強要である。
 沖縄県民の献身的な協力と悲惨な状況を長文の電報で本土に伝え、後世の特別の配慮を求めた沖縄方面根拠地隊司令官の大田実少将のように語り継がれる人物がいた一方で、友軍の蛮行を目の当たりにした証人が数多く存在する。展示物・内容の変更は、原体験を引きずる県民の心情を逆なでしてしまった。
 稲嶺氏当選の背景に不況、高失業率という状況はあったが、県民の反戦意識が薄れたわけではない。この事実を表面化させたのが、今回の問題だろう。
 当面する普天間飛行場の返還問題が、果たしてこのまますんなりと進むか疑わしくなった。

 沖縄サミットの名護市開催決定で盛り上がりに欠けた県内移設反対運動が力を盛り返している。市民団体を中心に結成された「県民会議」は、この問題をてこに稲嶺県政に揺さぶりをかけるだろう。県議会でも激しい論議が交わされるのは確実だ。
 県議会野党や反基地団体にとって、期せずして稲嶺県政の姿勢を問う格好の攻撃材料が出たと言えよう。
 今回の問題について政府は特に反応は示していない。表面的にはそうだが、内心は違うはずだ。沖縄サミットまでは、「波風を立てたくない」(政府筋)思惑を壊してしまうような話が地元沖縄から出てしまっては手の打ちようがない。
 稲嶺県政が問われる「沖縄の原点」は、普遍的な歴史認識の問題なのである。せっかくの新平和祈念資料館にけちが付いたのは残念としか言いようがない。

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