☆海上基地案が消えた普天間飛行場の移設問題は、関係する地元の意向次第で遅くもなれば早くもなる。移設の前段として、「県内移設」を容認するか否か。国が注視する中で、宜野湾市議会が県内移設を決議した。サミットの沖縄開催が決まって以来、普天間問題は移設に向けて本格的に動き出した。だが、お膳立てはできたにしろ、簡単に片付かないのが沖縄の基地問題だ。

資料版・論説「動き出した普天間」

◎憶病なくらい慎重に

 米海兵隊基地、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設が急展開を見せている。沖縄県は北部のキャンプ・シュワブ(名護市)地区を軸に複数の候補地の中から絞り込む方針だ。普天間問題が大きく前進し始めたことに政府は好感を示し、苦しい選択を迫られている稲嶺恵一知事も、事態打開の糸口をようやくつかんだようだ。主要国首脳会議(沖縄サミット)開催決定の延長線上にある「サミット効果」である。
 だが、これで問題解決のレールができたなどと簡単に考えていいものか。ましてや、この機を逃さず一気に結論を得ようなどと考えて急ぐようだと、失うものが大きいことを思い知らされるだけになりかねない。

 普天間飛行場の地元の
宜野湾市議会は先月、県内移設容認を決議した。確かにその意味は大きい。そして次のシナリオは、移設候補地の受け入れ、最後は県議会を経て稲嶺知事の決断、という形を取るだろう。
 七月下旬、今後を占うような場面が首相官邸であった。
 来日中のコーエン米国防長官が小渕恵三首相や野呂田芳成防衛庁長官と日米間の懸案で意見交換した同じ日、沖縄県北部地区の十町村長が野中広務官房長官を訪ね地域振興を陳情した。
 野中氏は陳情に理解を示したが、「これから重要な時期を迎える。いろんな問題でお願いするかもしれない」とくぎを刺した。
 三週間後に出る宜野湾市議会の決議を見越した布石だったことは間違いない。

 凍結状態となっていた普天間問題が動き出す契機となったのは昨年暮れの稲嶺県政の発足だ。那覇軍港移転の展望が見え、サミット開催決定で「環境整備」は一段と進んだ。残るは地元意思がどう形成されるかに移ったのである。
 小渕首相の沖縄サミットにかける期待は並みでない。沖縄担当相の野中氏にしても同じだ。二人の沖縄への思い入れが強いのは、過去の歴史を踏まえ二十一世紀を迎えるに当たって沖縄の将来展望を考慮したからにほかならない。米政府は沖縄サミットに必ずしも賛成ではなかった。本音は反対だった。
 三年半前、日米両首脳間で合意した普天間飛行場返還のめどが全く立っていない。返還は日本側が言い出した案件である。しかも全体的な基地問題も相変わらずだったからだ。
 サミット決定から時間を置かず、米政府高官が再三、サミットと普天間返還を関連づける発言を繰り返したのは、作業が遅々として進まないことへの米政府のいら立ちの表れだった。サミットをてこに問題の早期解決を日本側に迫る形で米側の攻勢が表面化した。

 普天間問題が早期に解決のめどがつくに越したことはない。日本側はそう考えたが、沖縄の基地問題の複雑さに無神経な米側に不満を露わにすることもあった。拙速で良かったためしがないのは過去の教訓である。
 日本政府は米政府に反論する一方で公式、非公式ルートで早期解決に努力するよう稲嶺知事に迫っている。普天間問題とサミットが密接に関連する「リンク論」が声高に言われだしたのもこのころからだが、元はといえば、米政府の強硬姿勢が引っ張り出したリンク論と言える。
 だが外圧は思わぬ効果をもたらすこともある。中北部各地に表れた誘致運動がそれだ。日本側の申し入れで米側も矛を収めたが、日米両政府間の駆け引きの中で、普天間問題は間違いなく前進した。

 先月中旬、稲嶺知事が野中氏に返還基地の跡地利用や軍用地主対策、基地従業員の雇用問題など六項目の支援を要請。もし、できなければ移転候補地の提示はしないとねじ込んだのは、短期間に解決不可能な普天間移転の難しさを米政府に知らしめるメッセージと読むことができる。
 六項目は、復帰後も沖縄県政が引きずっている古くて新しい問題ばかりだ。施策が担保されれば県民へのアピール効果も期待できる。
 移転先の早期決着に向けた地元の動きは独り歩きを始めたが、沖縄の基地問題は国内の「戦後処理」問題。地味であっても積み重ねが必要だし、時間もかかる。普天間問題の道筋が見え始めた今、政府はより慎重な姿勢で臨むべきであり、憶病なくらいであっていい。

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