論説「沖縄復帰27年」

◎沖縄復帰27年に思う

 沖縄は十五日、日本復帰二十七年を迎える。
 一九四五(昭和二十)年八月の敗戦より約二カ月前の六月二十三日、沖縄戦は事実上終了、七二年の復帰までの二十七年間、沖縄は米軍の統治下に置かれた。
 復帰から数えると米軍支配と同じ期間が過ぎた今日の沖縄は、二十一世紀を目指しある種の躍動感がみなぎっている。一方、新たな日米防衛協力の下で、宿命的とも言える基地の島の戦略的機能は一段と重みを増している。
 今年の復帰記念日はこれまでとは意味合いが違う。八年ぶりの保守県政への回帰、政府と県の関係改善、そして二〇〇〇年の沖縄サミット(主要国首脳会議)開催決定を抜きに二十七周年は語れない。

沖縄基地問題

 基地の島という現実がありながら躍動感が表れているのは、昨年暮れ保守県政が誕生し、政府が全面的な支援体制を取ったからだ。極めつけはサミット開催決定だろう。予想だにしなかったサミット開催は県民を鼓舞するに十分な「政治決断」だが、あまりの政府の気前の良さに地元には戸惑いさえ見られる。
 だが、せっかく主要国の指導者が極東最大の米軍基地がある沖縄に来るこの機会を、一過性の会議にしてほしくない。政府も沖縄県も万全の態勢で成功に導いてもらいたいものだ。

 ところで国民的な悲願とされた沖縄の復帰だったが、その後たどった道を振り返れば政治は必ずしも責任を果たしたとは言えない。このことは、同時にわれわれ自身にも当てはまる。
 戦後の冷戦下で沖縄の基地は堅固な対旧ソ連、対中国の最前線基地として米国の思うがまま強化・整備された。復帰で在沖米軍基地にも日米安保条約が適用されたとはいえ、戦略的要衝としての位置付けは不変だ。在日米軍専用施設の七五%が存在し、冷戦の終結後も米国の世界戦略に欠かせない存在となっている。
 九六年四月の日米共同宣言は安保条約の転換点となった。共同宣言で安保条約が再定義された結果、日米防衛協力のための新指針(ガイドライン)で合意し、さらに周辺事態法案など新指針関連法案は近く成立の見通しとなった。
 民間や自治体の協力が不可欠な周辺事態法案は全国が対象となる。法案審議の過程で国民の法案への関心は高まっているが、戦後このかた「周辺事態」を何度も経験してきた沖縄県民の関心は危機感に近いくらいだ。
 理由ははっきりしている。周辺事態への懸念は沖縄戦の記憶が依然として残り、加えて過去の米軍支配と復帰後も変わらなかった基地被害が県民の心から消し難いからだ。
 橋本龍太郎前首相は首相在任中、「沖縄に思いをいたさなかった」と何度も県民にわびた。沖縄問題を最大の政治課題と位置付けていたからだが、復帰後の歴代首相はどれほど沖縄問題に目を向けただろうか。

 七二年の米中和解をはじめ、日本列島改造、石油危機、バブル経済・崩壊など日本の政治を怒とうのような難題がひきも切らず襲った。復帰が成った沖縄問題は、「自立的発展の基礎づくり」をうたった官僚レベルの経済振興が中心で、政治の舞台から遠く離れていた。
 そんな政治を覚せいさせたのが九五年秋の米兵の少女暴行事件である。つまり、「政治の季節」が戦後五十年の節目に訪れたのである。
 米軍基地の継続使用に必要な代理署名を拒否した大田昌秀前知事の「代理署名訴訟」は最高裁で県の敗訴となったが、沖縄の基地問題はかつてない世論の広がりを見せ、日米安保の根幹を揺るがすと同時に当時の橋本政権の足元さえ脅かしかねなかった。
 暴行事件で目覚めたのは政治だけでなく、世論も同じだったことを肝に銘じておかねばならない。巨大な米軍基地を見て驚くが、沖縄を離れてなお沖縄を思う心は乏しかった。政治同様、国民の意識もまた薄かった。

 サミット開催決定で暗礁に乗り上げている普天間飛行場返還問題が前進しそうな雰囲気が表れてきた。参加各国首脳が沖縄基地の実態を目の当たりにする絶好の機会が用意されることの意味は大きい。特にクリントン大統領は、米国の元首として復帰後、初の沖縄訪問となる。
 大統領には、日米安保の「最前線」としての沖縄と日米友好の兼ね合いをどうするのか、しっかり頭に刻み込んでもらいたい。

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