☆日本が議長国となる2000年のサミットの開催地をめぐる動きが活発となっていた。開催地の誘致を乗り出した都道府県の中で福岡や大阪などが先行、事務レベルでの優先順位も他地域を大きく引き離していた。開催地決定の期限は428日。だが、決定は半日延ばされ、首脳が集まる場所は「沖縄」と決まった。
 なぜ、「沖縄」だったのか。

核心評論「沖縄サミット」

◎高度な政治判断と対米戦略
 基地問題進展の可能性も

 これが「政治」というものだろう。
 来年の主要国首脳会議(サミット)が九州・沖縄で開催されることが決まった。最有力候補地としてほぼ決まりかけていた「福岡・宮崎」での分離開催に土壇場でストップがかかり、ふたが開いたら沖縄が加わった「九州・沖縄」である。しかも、首脳会議の場が沖縄だから予想外の決定劇と言える。
 首脳会議の開催地が沖縄に決まった理由は、野中広務官房長官が会見で言ったように「沖縄へ熱い思い」であろう。だが、逆転劇の裏で極めて政治的な配慮が働いたことは間違いない。
 確かに、亜熱帯圏に属する地理的特性や二十一世紀に沖縄が担うべき潜在的な可能性を考えれば、アジアを注視する欧米先進国首脳が一堂に会するサミットを沖縄で開催することの意味は大きい。沖縄から世界に強力な情報発信ができるからだ。
 だが実現の見通しとなると、福岡や大阪など他自治体に比べ警備上の問題をはじめとして各種の受け入れ施設の未整備など開催条件が劣り、ほとんど選外に近かった。

 沖縄の逆転をもたらした「政治判断」は何か、を考えると一つには沖縄の悲劇的な歴史であり、二つには基地問題解決の処方せんだろう。
 野中氏の認識は、沖縄はこれまでは「ラストランナー」。今世紀最後となるサミットは東京を離れた初めての地方開催。間もなく復帰二十七年を迎える沖縄を二十一世紀を前に「トップランナー」に据える意味は大きい。その沖縄は今、普天間飛行場返還を中心とした基地問題で揺れている。
 直面する米軍基地の整理・統合・縮小を着実に進めるため政府は大胆な経済振興策を用意しつつあるが、基地問題を経済問題にすり替える、との県民の声が根強い。その点、サミット開催は政府の誠意が理解されやすく、基地問題解決の地ならしにも極めて効果的だ。
 つまり、政府の経済振興をはるかに超える成果が期待できるということである。
 さらに自民党側の体制づくりも注目していい。
 開催地決定に先立ち、自民党は沖縄特別調査会の顧問に橋本龍太郎前首相と梶山静六元官房長官の二人を充てた。両人とも普天間返還に道を開いた功労者である。
 当時、自民党幹事長代理として党内取りまとめと対沖縄折衝に奔走した野中氏は沖縄担当相を兼ねる。立場は変わったが、沖縄への思い入れは甲乙をつけがたい。

 当初、四月二十八日に決めるはずだった開催地が半日延びたのは、「沖縄・名護の資料がない」と小渕恵三首相が待ったを掛けたからだが、その後ろに野中氏の姿がはっきりと見えた。
 小渕首相は、橋本前首相ほど沖縄問題に軸足を置いていない。だが、沖縄の基地問題は日米安保体制を揺るがしかねない要因を抱えていることに変わりはない。
 野中氏は小渕首相の足らざるところを補い、前政権時に引き続き節目節目に登場している。政府はサミット開催地決定を小渕首相に一任する手続きを取り、最終的に「九州・沖縄」開催を決めた。形としては首相決断だが、シナリオライターは野中氏と見て間違いない。

 一方、サミット開催地決定の背景に日米関係の将来を見据えた戦略がなかったとは言えないだろう。
 参加各国首脳らは「基地の島」を実地に見聞するし、特にクリントン大統領は日本復帰後、米国の大統領として初めて沖縄に足を踏み入れる。当然、巨大な米軍基地を目の当たりにするし、問題の普天間飛行場や嘉手納空軍基地を視察することもありうる。
 一九九六年二月の日米首脳会談で橋本首相(当時)が切り出した「普天間返還」のその後の経緯に関心がないはずはない。大統領が沖縄米軍基地の実態を見ることの意味は大きい。
 恐らく、野中氏は議題外の沖縄問題を「サミットの土俵際」に置く戦略を密かに組み立て、沖縄問題の位置付け明確にしようと狙っているのかもしれない。

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