☆沖縄の米海兵隊基地、普天間飛行場の返還で日米両政府が合意して3年が経過したが、返還のめどは全く見えない。
 日米合意は何だったのか。そして今後普天間問題はどう展開するのか―沖縄を含めて日米両政府の思惑などを分析する3人の編集委員による評論企画「普天間合意の行方」を紹介する。
 (1)「自立への試金石」(2)「政治の責任」(3)「米政府の危ぐ」のうち、私が担当した(1)を掲載した。

評論企画「普天間合意の行方」3回続きの(上)「自立への試金石」

◎忘れてならない自治の原点
 県民世論の再構築を

 東京・西神田の水道橋西通りに面する太平洋セメント本社ビル。十四階にある自室で待っていた諸井虔相談役は腹立たしげに話し始めた。
 「普天間(飛行場)は一刻も早く安全な場所に移さなければならない。その原点がすり変わってしまった。大田さんは変節した」
 「初めて日本政府が(基地問題で)一肌脱いでくれたと喜んでいた」大田昌秀前知事が意外にも、普天間飛行場の移転候補地となったキャンプ・シュワブ沖の海上ヘリ基地計画を挫折に追い込んだと見るだけに、今でも腹の虫が収まらない。
 諸井氏は本土と沖縄県の経済人でつくる「沖縄懇話会」の有力メンバー。
 過去約十年間、沖縄とのパイプ役を担ってきた。当然地元経済人らとの交流が深く、知事時代の大田氏とも親交があった。一九九五年九月に起きた米兵の少女暴行事件で噴出した県民の反基地感情の「はけ口」として知事の意向「普天間返還」を橋本龍太郎首相(当時)に伝え、日米合意に導いた人物である。
 一昨年十月、沖縄懇話会の本土側代表のポストを、わずか一年未満で辞めたのも大田氏への不信感がすべてだった。

 経済界出身の稲嶺恵一氏が昨年十二月知事に就任、国と県の関係修復が成った。滞っていた経済振興策が矢継ぎ早に決まり、政府の大盤振る舞いとも言える予算措置は新生の保守県政と地元経済界を勇気づけた。
 半面、「普天間問題」は県に「対策室」ができ、政府にも支援プロジェクトチームが発足して跡地利用や産業振興策の検討に着手したが、移転候補地の選定などは全く五里霧中の状態。
 そんな中で、国と県は突破口となり得る那覇軍港の移転作業を急ぎ、普天間飛行場の早期返還につなげようとしている。

 基地問題で「現実的対応」をとる稲嶺県政の運営に欠かせないのは政府の物心両面での支援。だが、忘れてならないのは沖縄の「自治」をいかに守り、固めるかだろう。
 沖縄の現状を見る限り、「基地」と「経済」を分けて考えにくい。かつて基地との「共生」を説いた政府高官が県民の猛反発を浴び更迭されたのは戦後このかた、脈々と引き継がれた県民の自治意識を忘れた発言だったからだ。
 この「自治」こそが複雑な沖縄問題の最深部にある。

 琉球大学の比屋根照夫教授の言を借りれば「基地問題は沖縄の象徴であって、もっと大きい文化が堰(せき)を切って流れている。そこから基地問題を見ないといけない」。つまり、沖縄の歴史的、文化的土壌に根差した自治をいかに守るか、だと言う。
 七二年の復帰後、政府の膨大な財政資金は沖縄の社会・産業基盤を強化した。一方で、沖縄の公共事業依存体質を強めてしまった。地元経済界が「自立経済」を標榜(ひょうぼう)しながら、「その実分かっていなかった」(財界首脳)のは、進取的意欲が欠けていたからではないか。
 立教大学の新藤宗幸教授は別の視点から注文を付ける。
 「英国ですらスコットランドの自治を認めた例を沖縄は学ぶべきだ。基地、安保は重大だが、沖縄県からもっと問題提起しないと発展はない」

 大田前知事が提起した基地問題よりも、稲嶺県政に課せられた命題は逆に大きいかもしれない。用意された経済振興策は魅力的だが、自治を踏み台にしては真の繁栄はない。
 復帰から二十七年、沖縄は着実に自主性を持ち始めている。沖縄の主体性、言い換えれば自治をいかに通しながら「自立」を目指すかこそが問われているのである。そのための苦しみは決して小さくない。「普天間問題」の行方に解答が表れるだろう。
   ×      ×
 一九九六年四月、「五―七年以内」の普天間飛行場返還が決まったが、実現までの道のりは険しい。短兵急な政治決着は将来に禍根を残す。かと言って普天間基地を今のまま残すことも許されない。政治は何を求め、米国政府の真意は何なのか。

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