資料版論説「普天間合意から3年」

◎普天間合意の原点は何か

 沖縄の米海兵隊基地、普天間飛行場の全面返還で日米両政府が合意してから三年になる。だが、移転先が決まらず返還のめどは立っていない。
 昨年暮れ、大田昌秀氏に代わって保守系の稲嶺恵一知事が誕生して断絶状態だった国と県の関係が修復され、長年の懸案だった那覇軍港の移転問題が少しずつ動き出した。基地問題にかすかな光が差してきたようだが、一方でこの三年間、日米防衛協力体制が着実に固められつつある現実を直視したい。
 日米合意は普天間飛行場を五―七年以内に返還するというもので、一九九六(平成八)年四月十二日夜、首相官邸で橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使(いずれも当時)が発表した。
 その二カ月前、米・サンタモニカ(カリフォルニア州)で行われた日米首脳会談で、首相はクリントン大統領に普天間飛行場の返還を熱望する地元沖縄の意向を伝えている。返還合意は電撃的だった。

 橋本首相訪米の主目的は日米安保条約の再確認だった。
 だから首相は、前年秋起きた忌まわしい沖縄の少女暴行事件で沸騰した反基地感情を鎮静化するため、基地問題の象徴となった「普天間」に言及せざるを得なかった。外務、防衛両省庁の反対を押さえて沖縄の意向を大統領に伝えた首相の意欲は評価できる。

 だが、この会談には別の意味も込められていた。
 沖縄の基地問題が険悪化していたさなかの三月、中国のミサイル発射演習で米海軍の空母二隻が警戒のため台湾沖に派遣され、台湾海峡は極度に緊張していた。晴れれば台湾を望める日本最西端の沖縄県・与那国島の漁民は休漁を余儀なくされた。
 米中関係がぎくしゃくし、朝鮮半島情勢も不透明な中で中台危機が現実化したのだ。
 沖縄の米軍基地の役割は大きい。にもかかわらず米側が返還を了承した。日本側が最優先する「普天間返還」を約束すれば、暴行事件で顕在化した日米安保体制の危機的状況を乗り越えられると計算したからである。同時に米側には合意をてこに防衛協力を一層緊密化させる政治的思惑があった。

 つまり「普天間合意」は、その直後に出た日米安保条約の再定義となった「安保共同宣言」の前段として不可欠だった。そして日米防衛協力のための新指針(ガイドライン)や現在国会で審議中のガイドライン関連法案は、普天間返還問題を足場に組み立てられたとも言える。

 日米安保問題は、根源的に沖縄に収れんする。だが基地用地の強制使用に立ちはだかった代理署名訴訟や米軍用地の使用期限切れ問題は現実に安保体制の足元を揺るがし、政権の帰趨(きすう)さえ脅かした。米政府も「日本の国内問題」と深入りは避けたが、問題の行方を注視し続けた。基地問題が国内問題を超える性格を持つのは明白だ。
 沖縄の基地問題は九六年十二月の日米特別行動委員会(SACO)最終報告以来、外交の場から姿を消し国内問題に転化した。肝心の普天間飛行場は、当初予定された名護市のキャンプ・シュワブ沖の海上ヘリ基地計画が拒否されて以来、移転先は宙に浮いたまま。
 海上基地をめぐっては県民、とりわけ地元民同士が相争う悲劇を招き、事の重大さとは関係なく「県内問題」にわい小化された。
 稲嶺県政の発足で経済振興と絡めた「陸上案」や中部地区の島への誘致運動も出ている。海上基地計画で失敗した政府は、代わりに大胆な経済支援を打ち出すだけ。どんな選択をするかは沖縄次第というわけだ。

 政府の思惑は、返還決定から二十五年も過ぎた那覇軍港を隣接の浦添地先へ移転、同地区のハブ港湾化計画と抱き合わせで完結させ、基地返還のモデルとすること。その延長線上に「普天間」がある。
 米軍基地から派生するさまざまな問題に直面しながら沖縄県民は昨年十一月、基地問題に現実的に対応する稲嶺氏を選んだ。勝因は経済振興である。沖縄問題の原点を追求した大田氏は敗れた。
 この三年間、普天間飛行場の返還を求め基地問題からの脱却を願う県民感情に変化はない。しかし、多様化する県民意識が普天間問題でどんな判断を下すかつかみきれない、と識者は言う。

 小渕恵三首相は今月末に訪米、防衛協力の具体的内容を説明する。その際、沖縄の基地問題を再度論じてもらいたい。米国は決して「部外者」ではないのだから。

(99年4・12付)