☆沖縄をめぐる動きはさらに混沌とし始める。復帰運動を引っ張ってきた全軍労委員長として国政に身を置いた上原康助・元国土庁長官が記者会見して社民党からの離党を表明したする。11の知事選をにらんだ離党と思われたが、上原氏を見る地元革新陣営の目は‥‥

核心評論「沖縄知事選」

◎現実的対応求め社民離党
 上原氏、近く出馬表明か

 社民党の上原康助元国土庁長官が十九日、伊藤茂幹事長に離党届を提出した。離党の理由は党運営や基本政策などで執行部との溝が深まり、党再生の展望が期待できなくなったためと話したが、うわさされる沖縄県知事選出馬については基地問題での大田昌秀知事の対応を批判、間接的な表現ながら出馬に意欲をにじませている。
 上原氏の離党届提出は、目前に迫った参院選後の社民党の行く末を占う上で興味深いが、それ以上に十一月の沖縄知事選との関連で考える方が重要だ。タイミングとしても、参院選公示を迎えてしまえば政治家としての行動はしにくい。自由な立場で参院選を見守ろうと考えるのは当然だ。
 参院選同様、知事選での最大の争点は普天間飛行場の移転問題であり、その裏に経済振興策がある。二つは別個の問題との見方もできるが、現実問題として両者は不可分である。周りの状況をぎりぎりまで見た上での離党届である。

 今月十五日、三選出馬を正式表明した大田知事はこれまでも再三、普天間飛行場の県内移設に反対する立場を明らかにしており、先の訪米でも米政府関係者に念押ししている。このため橋本首相をはじめ自民党幹部は対米関係の配慮から一段と大田批判を強め、何としても大田三選を阻止すべく戦術を練っている。
 上原氏はかねてより安全保障問題に対する社民党執行部の方針に整合性が欠けていると指摘してきた。「その延長戦上に沖縄がある」と信ずる立場から、沖縄問題の解決には「別の選択も考慮して県民に諮るべき」と考えたと言う。この考えを具体化したのが五月に発足した学識経験者も加わった保革相乗りの政策研究会「未来21・沖縄」である。
 この研究会発足の裏に自民党幹部の影がちらつくが、上原氏の考えに自民党幹部が乗ったと言った方が正確だ。

 上原氏は一九七〇(昭和四十五)年十一月の沖縄初の国政参加選挙で当選した。当選二週間後の衆院本会議の代表質問で上原氏は当時の佐藤栄作首相(故人)に物おじせず切り込み、沖縄の米軍支配の責任と平和な島の実現を激しく迫った。
 首相は「戦後初めて沖縄選出の衆院議員の声がこの議場で聞かれたことに深い感銘を覚える」と答えている。このとき上原氏は三十八歳。選挙前までは全沖縄軍労働組合(全軍労)委員長を務め、基地労働者の大量解雇問題や復帰運動の中核組織を引っ張ってきた。
 上原氏の過去の経歴を振り返ると、大衆運動の指導者として「反戦平和」「米軍基地撤去」を叫びながら、同時に基地労働者の雇用問題に真正面から取り組んできた。比較的穏健な基地問題の対応を口にするのは、その経歴にあるのかもしれない。

 社民党沖縄県連の中で上原氏は「孤立」に近い状態だった。
 原理、原則を重視する県連の中では異質の存在だったからだ。上原氏は近く大衆運動、政治活動を総括する本を出版する。政策研究会の発足、離党届、出版と続けば誰もが上原氏の次の政治行動として知事選出馬を考える。

 上原氏は参院選の結果を慎重に見極めた上で最終的な態度を表明するだろう。出馬となれば、日米関係を揺るがしかねない基地問題は歴史学者としての大田知事の「理念」と体を張った生活臭の濃い上原氏の「現実」の対決となる。

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