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『帰雲老師に聞く』 第一部
―臂(ひじ)は外に曲がらない―
坐禅に出会うまで
帰雲老師はある州の中部の生まれという。姓は別野(わけの)、名は誠一という。父は地方の役人だった。母のことは余り知られていない。早くから家を出て町の高等学校に通った。
人の生き方を考えるようになったのは、その頃に『論語』の、「曾子(そうし)曰く、吾れ日に三(たび)吾が身を省みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」(学而篇)という語に出会ったことに拠るという。
日本が世界大戦に参加して、歴史上初めて大敗を喫した後の、アメリカ占領中に生まれた世代の一人だった。日本文化のいっさいを根絶やしにして、二度と白人と戦う気を起こさせない民族にすることが占領政策の要だった。故に、二千年来日本人が育んできた伝統文化は弊履(へいり)の如く捨てられ、アメリカ文化こそがもっとも優れた文明の産物と信じさせられてきた。戦後生まれの者は、そのことを学校教育で教えられ、新聞やラジオ、テレビを通して聞かされてきた。だから、当時、『論語』に注目するような少年はほとんどなかった。
欧米人が長くギリシャ、ローマ文化を教養の本にしてきたように、アジアの人々も長い間、シナの古聖人の教えを学んで、人格を養成する基本の教えとしてきた。そのことを戦後の日本人は、あっという間に忘れた。欧米の文化を知る者が至る所で活躍するようになると、彼らこそが優れた教養人と思われるようになったから、世は挙げて西洋文化一辺倒になっていった。
そんな時代に、ひとり誠一だけは古き『論語』の言葉に魅せられていた。学校の図書館で見出した「論語物語」(下村湖人著)は、いよいよ少年を読書に引きつけた。お陰で、東西の文学哲学を幅広く読むことになった。西洋人のものでは、特にニーチェの「ツァラツストラ」に耽溺したというから、些(いささ)か他の少年よりは早熟だったかも知れない。
高校生の時、誠一は新聞社の懸賞論文に応募して、受かり、沖縄旅行が贈られたことがある。その当時の沖縄はアメリカ領で、ビザの申請が必要だった。田舎の少年にはその取得方法が分からず、もたもたしているうちに期限切れとなった。
それから三十年後に、帰雲老師は初めて沖縄にわたり、終日戦跡を巡っては読経することがあった。それはどうも、少年時代に沖縄に行きそびれた心残りがきっかけだったようである。
誠一は『論語』の言葉を読んで、初めて人生で最も大事なことは心の在り方だということを知らされ。人生についてそんな風に考える道は、当時の大人たちにはなかった。少年が物心ついて以来、常に諭(さと)されてきたことは、「勉強して良い大学に入れ」ということだった。良い大学に入れば、良い会社に入れて、良い生活が可能になる。良い生活とは、毎日のテレビ新聞で知らされるアメリカ的文化生活だった。
誠一が大学に入る前に、東京オリンピックが開催された。その時から、テレビは全国の家庭に普及されたから、「勉強すればより良い文化生活ができる」ことは、いよいよ疑いようもない真理となった。敗戦で打ちひしがれた心を起こすのは、目先に物理的な夢を見させるのが近道だった。
だから、そんな時代に「心の在り方」など考えている者は、愚か者だった。誠一は大人たちから、「いつまで子供みたいなことを考えている。早く大人になれ」といわれ続けた。大人になるとは、周囲の大人と同じ価値観で生きることだった。
そのことが、なかなか理解できなかった。心の在り方を深くする方が、より上等な人間になれるように思われてしまう。たくさんの書物を読むようになると一層そう思われたから、誠一は親にも兄弟にも知られない思いを抱えて、ひとり迷っていた。
大人がいう「勉強」は、受験勉強のことだった。受験に役立つ知識を山ほど覚えた者が、たいていは良き大学に入学できたから、いかにして知識を多く記憶するかが、多くの少年たちには必須の課題だった。しかし誠一は、そのことでは怠け者だったようで、図書室で読書する以上の興味を、ほとんど持たなかった。
高校を卒業するころには先生もあきれて、「進学するより、何か手に職をつけた方がよかろう」とすすめた。それでも、大学に進学はしたのである。もっとも、卒業しなかった。
家が貧しくて学生生活を支えるほどの資力がなかったこともあって、大半はアルバイトをしながら学校に通った。
安保闘争が酣(たけなわ)な時代であった。学生たちの多くは、ストライキに明け暮れていた。彼らも勉強は嫌いだったからであろう、期末試験が近づくたびに、闘争を激化させて学園封鎖する。全国、どの大学もそんな風で、まじめに勉強ができるような状況ではなかった。
彼は当時、そのことにあまり拘わらなかった。それよりも、初めて坐禅を体験していた。最初は友人のすすめで参加したものだったが、やがて、自ら坐禅会に通うようになった。近くの禅寺で在家者のための坐禅会が定期的に開かれていたのである。
アルバイトと図書室と坐禅会と、そんな日々を何年か過ごして、やがて誠一は大学を中退した。
形山睡峰
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