織田戦記8
丹波・丹後・播磨・加賀の平定と本願寺の降伏
I think; therefore I am!
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丹波平定
年が明けて、1579年、荒木村重の謀反という事態はあったものの、高山右近と中川清秀の投降により解決は時間の問題となりつつあった。上杉家も謙信亡き後は動揺が続いており、石山本願寺も陸海から封じ込めている。注意すべき敵は毛利輝元のみという状況であったが、毛利側の最前線にある宇喜多直家が毛利家と距離を置くようになっていたため、その方面も大きな問題は起こらなかったのである。
1579年2月18日に信長は上洛した。同26日、明智光秀が坂本から丹波の戦線へ向かった。丹波では、前年12月より波多野秀治の居城八上城に対して兵糧攻めを本格化しており、播磨方面が落ち着いたことで、いよいよ終着点が見えつつあった。3月5日、信長は摂津へ出陣したが、滝を見に行ったり、鷹狩りを行うなど、緊迫した様子は見られなかった。その間、信忠は城の強化などを行っていた。
4月に入り、信長は播磨へ信忠を総大将とした大規模な援軍を送った。信忠は三木城周辺に6箇所の砦を構築し、小寺政職を攻撃して作物をなぎ払うなどして4月29日に信長に復命し、30日には岐阜へ戻った。5月1日には信長も京都へ戻り、3日には安土へ向かった。5日には光秀の攻撃を受けていた波多野氏の有力支城である氷上城が開城した。11日、信長は安土城の天守閣に引っ越した。法華宗と浄土宗でいさかいがあったため、信長は宗論を主催し、敗者とした法華宗に圧力を加えた。
6月1日、光秀の兵糧攻めで餓死者が続出していた八上城が陥落した。内応した城兵が波多野兄弟3名を捕らえて差し出したのである。3年半前に裏切りによって光秀を敗北させた、丹波東部に力を持つ波多野氏を倒したことで、光秀の丹波攻略は新たな局面を迎えた。7月19日には光秀は丹後へ出陣し、宇津頼重を破った。8月9日、既に死去した赤井直正の入っていた黒井城を包囲した。城兵は打って出てきたが、光秀はこれを破り、さらに城内に突入して、降伏に追い込んだ。これにより、丹波の主要な敵は滅んだ。光秀は細川藤孝に丹後を攻撃させた。
宇喜多直家帰順・丹後平定・北条家と同盟
対毛利戦線では、大きな動きがあった。宇喜多直家が秀吉の調略により毛利氏から離れて織田方につくことを決めたのである。9月4日、秀吉は安土へ行き、宇喜多直家を赦免することについて信長に許可を得ようとしたが、秀吉が信長に相談していなかったため、ここでは秀吉は追い返されてしまった。
そんな中、毛利氏と本願寺が動いた。播磨の三木城へ兵糧を入れるべく援軍を送ったのである。荒木村重もこれに呼応してか9月2日、ひそかに包囲下にある有岡城を抜けて尼崎城に入った。9月10日には毛利・本願寺の軍勢が三木城攻囲のための砦のひとつを攻撃し、三木城の別所氏もこれに加わった。秀吉は反撃を行って大勝利を挙げた。信長もこれには満足した。9月17日、織田信雄がいまだ空白地帯となっている伊賀へ独断で侵攻したものの、敗北して撤退した。信長は厳しくこれを叱責する文章を送った。
10月15日、滝川一益の調略により、伊丹で内応者が現れた。有岡城の周囲の砦がそれによって織田氏の軍勢の占領するところとなった。有岡城では開城の交渉が始まり、荒木村重が出頭し、尼崎・花隈城を渡すことで城兵や一族の命を助けるという内容でまとまった。19日に有岡城は開城し、一族の重臣が尼崎城へ行って荒木村重の説得を試みた。しかし、荒木村重は一族や女子供を見捨て、これを拒否した。
10月24日、光秀は遂に丹波・丹後の平定を完了し、安土で信長にその報告を行った。各地を転戦しながらの4年間かけて成った平定だった。信長はその功績を最大限に評価した。丹波は光秀に、丹後は細川藤孝に任されることとなった。
外交面でも大きな成果があった。北条氏政が信長に誼を通じ、10月25日、6万もの軍勢で武田勝頼に対し攻撃を開始したのである。家康もこれに呼応して駿河に進出した。また、秀吉がまとめた宇喜多直家の帰服について、信長もついに裁可を出した。このあと、宇喜多直家は毛利氏と最前線で戦い続け、概ね独力で戦線を支えるのである。
12月13日、荒木村重に見捨てられた荒木関係者の処刑が行われた。信長でさえも彼らを不憫に思ったが、謀反を起こし、しかも救命の提案を拒否した荒木村重への懲罰として執行した。120人の女房衆は磔にされ、その他関係者500人は建物に押し込められ、焼き殺された。16日には荒木一族の掃討を命じた。しかしながら、この事態を招いた荒木村重本人はこのあとも生き延びた。
三木城陥落
翌1580年1月6日、餓死者続出で弱りつつある三木城において、秀吉は三木城の最も高い防御拠点を制圧した。秀吉は続いて他の箇所にも攻撃し、弱りきった城兵は本丸へ逃げ込んだ。いよいよ追い込まれた別所長治は、弟と叔父と本人の3人の切腹と引き換えに城兵を助命するという条件で降伏を申し出た。秀吉はこれを受け入れた。17日、別所長治は切腹して果てた。まだ年齢は20代の後半であった。秀吉は城兵を助ける約束を履行し、残る別所氏の拠点を制圧して約2年がかりで播磨の大部分を平定した。
2月、宇喜多直家は秀吉とともに美作の医王山城(祝山城)を攻撃したが、陥落には至らなかった。さらに3月には5km北方にある高山城を攻めたが、やはり陥落には至らなかった。以後、秀吉は因幡方面に進出し、宇喜多直家は美作で毛利氏との戦い続けることになる。
本願寺降伏・加賀一向一揆を平定
10年目に入っていた本願寺と信長の戦いだが、ここに至り、明らかに信長が優勢となりつつあった。加賀方面では上杉氏はもはや影響力があまりなく、近畿では、大阪湾の制海権は信長にあり、荒木村重は最後の砦である花隈城で池田恒興らに包囲され、波多野氏・別所氏は滅んだ。このため、頼みの毛利氏との連絡は陸海両方から分断されており、石山本願寺の食糧備蓄はまだ残っていたようだが、事実上孤立した状況下で籠城を続けても、敗北は時間の問題であった。
そんな中、信長は本願寺との講和を試みるのである。石山本願寺から7月20日までに退去すること、以後敵対しないことが要求であり、その場合には全員を赦免し、加賀の2郡を返還し、教団の存続も認めるといった内容であった。そして、信長はこの講和を朝廷を介して勅命として提案したのである。顕如は長年戦い続けた門徒のせめて命を助けたいと考え、遂に講和の勅命を受け入れた。閏月の翌閏3月7日、顕如らは誓紙を提出し、正式に講和が成立した。大阪湾の封鎖は即座に解除された。しかし、門徒には講和に反対する者もおり、顕如の息子教如がそれに同調していた。翌4月9日、顕如は息子教如に地位を譲り、石山本願寺を退去した。だが、教如らはまだ抵抗の姿勢を見せていた。
信長も、近畿では講和を進める一方、加賀方面では表面的な停戦命令とは裏腹に柴田勝家に猛攻をかけさせていた。責任者が柴田勝家に代わってからも、加賀侵攻は進んでいなかったが、閏3月の攻勢は激烈であった。放火しながら加賀を北東に移動し、越中に遂に至った。さらに方向を変え能登の境界線あたりも放火した。このあとも半年以上にわたって加賀では激戦が続いていくのである。
一方の能登では、2年前より長連龍が織田方の武将として活動していた。長家は七尾城の重臣で親織田派であったが、七尾城が上杉謙信に降伏する際に一族は全員殺されていた。長連龍は出家していたため殺されずにすんだが、還俗して七尾城奪回のため活動を開始したのである。柴田勝家が加賀と越中に猛攻をかけたことによって、能登は上杉家との連絡を絶たれ、長連龍に絶好の機会が現出した。長連龍は各地で敵を破り7月には七尾城を開城に至らしめ、能登は信長の勢力圏に組み込まれた。
8月2日、抵抗を続けていた教如も遂に講和を受け入れ、石山本願寺から退去した。石山本願寺はそのまま引き渡されるはずであったが、火災が発生し、3日間燃えたあとに灰燼に帰した。石山本願寺跡には、後に秀吉が大阪城を建築することになる。こうして10年にわたる大阪での本願寺と信長の戦いは終結した。しかし加賀では柴田勝家の攻勢は続いており、一揆勢を徐々に追い詰めつつあった。
8月15日、信長は石山本願寺に対する攻囲の責任者であり、筆頭重臣であった佐久間信盛親子を、本願寺攻めの怠慢など19にわたる理由を挙げ追放処分とした。さらに家老の林秀貞・美濃三人衆の一人安藤守就も追放した。彼らが追放されたのは色々な理由が絡んでいるのであろうが、功績の大きいものを登用するためのリストラという面もあったと思われる。
一方、中国地方では5月21日に秀吉が鳥取城に到達、城主山名豊国は降伏し、鳥取城を安堵された。しかし、城内は毛利派が多数を占めており、9月21日、山名豊国は鳥取城を出奔して秀吉の元を頼った。こうして鳥取城は再度毛利側となった。このころ、秀吉は黒田官兵衛の助言に従って、その居城であった姫路城を中国攻略の拠点としていた。また、弟の秀長を但馬に派遣し、これを平定させていた。
11月17日に至り、柴田勝家は加賀一向一揆の首領若林長門など主要な将を多数を捕らえ、加賀の平定を完成させた。こうして信長は一向一揆との戦いを最終的な勝利で終え、加賀・能登までの支配を確立した。
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