織田戦記4
信長包囲網の崩壊
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武田信玄の死・将軍追放

 家康の敗北により、いよいよ信長も窮地に追い込まれたが、信長包囲網は綻びが生じてきていた。浅井・朝倉連合軍は小谷城に対する織田氏の押さえである虎御前山を攻撃したものの激しい抵抗にあい、積雪と疲労を理由に朝倉義景が撤退してしまったのである。さらに、武田信玄自身が重病の状態であった。家康に大勝したにもかかわらず、武田氏の進軍は緩やかだった。信玄の病状にかかわらず、朝倉氏が撤退してしまったため、武田氏だけでは、5万という倍に近い兵力をもつ信長との決戦は慎重にならざるを得なかっただろう。

 しかし信長にとって危険な状況に変わりはない。翌1973年1月信長は将軍義昭と講和しようとしたが成らなかった。2月10日、武田信玄は野田城を攻略した。そして、将軍義昭はついに近江の今堅田城・石山城で反信長の姿勢を明らかにしたのである。信長は援軍が来る前にこれにすばやく対応し、柴田・明智・丹羽・蜂屋を派遣して数日のうちに開城させた。しかし、義昭は信長に屈する気はなく、松永久秀らと結んで信長との対抗姿勢を維持した。

 信長にとって幸運なことに、信玄の体調が悪かったために、武田氏の軍勢は野田城からは先に進まなかった。この時間的余裕を生かし、3月29日に信長は上洛を行った。細川藤孝・荒木村重が将軍を見限って信長についた。信長は反抗的だった上京を焼き払い、さらに将軍のいる二条御所を包囲して和睦を迫った。義昭はこれを頑なに拒んだ。信長は正親町天皇を動かし、関白の二条晴良が説得したことにより、4月7日ようやく和睦が成立した。翌8日に信長は京都を発ち、途中で六角氏が籠城している鯰江城や信長に反抗していた百済寺を攻撃して岐阜に戻った。そうしているうちに信玄の病状は悪化の一途をたどっていた。武田氏は撤退を開始した。その途中4月12日に武田信玄は死去した。信長にとっては当面の危機は去ったのである。

 1573年4月21日、信玄死後の武田氏対策として、信長は上杉謙信と連絡をとっている。前年から信長は上杉家と友好関係を築いていた。5月には琵琶湖で全長54m幅13mの大型船を建造し始めた。不安定な情勢の京都への移動能力をさらに高めることが目的であった。

 7月3日、再び将軍足利義昭が打倒信長に立ち上がり、宇治近辺の槇島城に籠城した。反信長勢力は数多く存在し、その呼応を狙ったものであるが、大型船を建造するなど軍団に高い機動力を持たせていた信長のほうが上手であった。7月5日に大型船が竣工すると、信長は早速それを用いて京都へ向かった。9日には京都に入り、守りの薄い二条御所を攻撃して12日には開城させた。この間信長は大軍を集結させておりその兵力は7万に上ったという。18日には槇島城攻撃を開始した。槇島城も堅固な城ではあったが信長の大軍に前にあえなく破壊された。降伏した足利義昭を信長は殺しはせずに追放した。足利義昭は征夷大将軍の位を保持したままであったが、この時点で実質的に室町幕府は滅んだ。

 信長は京都所司代に行政手腕を買っていた村井貞勝を任じた。その後、琵琶湖に戻り、大型船に乗って琵琶湖の中部の西岸にある高島を攻略した。一方細川藤孝を三好三人衆の一人岩成友通が守る淀城に差し向け攻略させた。岩成友通は戦死した。以後三好三人衆の残りの二人は歴史上から姿を消す。信長は8月4日に岐阜に戻った。

浅井氏・朝倉氏の滅亡

 岐阜に戻った信長に朗報がもたらされた。小谷城の支城のひとつ西方5kmに位置する山本山城の阿閉貞征が浅井氏から離反し信長についたのである。これをチャンスと見た信長は岐阜に戻って4日後の8月8日には岐阜を出陣した。


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 10日には小谷城近辺に到着し、小谷城の北東の山田山近辺に陣を置いた。朝倉氏との連絡を扼しうる位置である。この事態に浅井陣営では裏切りが相次いだ。小谷山の最高点は小谷城の北方の峰にあり、大嶽(おおずく)とよばれていた。ここには砦があり朝倉氏の500の守兵がおかれていた。前年の小谷城攻撃時には朝倉義景はここに入って動かず、信長が撤兵するのを待ったのである。朝倉義景も出陣し小谷城の北西に進出した。



 12日の夜、大雨の中の信長は自ら大嶽の攻略に乗り出した。たいした抵抗もなく信長は大嶽を確保した。これにより小谷城と朝倉氏との連絡は遮断された。さらに、これによって小谷城付近の山城はすべて織田方となることになり、朝倉氏は平地に布陣せざるを得ず、それは信長と決戦が不可避であることを意味していた。しかし、朝倉義景は信長と決戦することを避け続けてきた男である。信長は大嶽の陥落を知れば朝倉義景は撤退すると踏み、大嶽の守将をわざと解放して朝倉義景に大嶽の陥落を知らしめるとともに、繰り返し配下の武将たちに必ず朝倉義景は撤退するからその動きを見たらすぐに追撃せよと指令した。

 8月13日、信長の予想通り夜陰にまぎれて朝倉義景は撤退を開始した。しかし、半信半疑の配下の武将たちはその動きを見逃してしまったのである。信長は直属部隊のみを率いて追撃を開始した。それをみてやっと気がついた各武将たちは急いでそれを追った。追いついてきた佐久間信盛・柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益などの武将たちを信長は激しく叱責した。諸将がわびる中、佐久間信盛は涙ながらにそうは言っても我々ほどの者はなかなか持つことができませんと抗弁し、信長の怒りの火に油を注いだ。しかし、背中を見せて敗走する敵を討つのは圧倒的に有利である。次々と信長方は朝倉方を討ち取っていた。やがて信長は朝倉氏の軍勢に追いつき、多くの首級を挙げた。そのまま敦賀城を制圧し、さらに朝倉氏の本拠地一乗谷城も攻略した。朝倉義景は一族の筆頭でもある朝倉景鏡に裏切られ、自害に追い込まれた。信長は越前を朝倉氏から早い段階で離反した前波吉継に任せて、26日小谷城に戻った。すでに小谷城の回りはすべて制圧されている。対浅井戦線を担ってきた秀吉を戦闘に攻撃を開始した。長政の父である浅井久政が28日には切腹して果てた。9月1日には浅井長政も切腹し、浅井氏は滅亡した。長政の妻であった信長の妹である市とその3人の娘は先に信長に送り返されていた。小谷城には秀吉を置いて浅井氏の旧領を任せ、信長は岐阜に戻った。



信長包囲網の崩壊

 朝倉氏・浅井氏を相次いで滅ぼして岐阜に戻った信長には、北伊勢の本願寺門徒である地元勢力が信長に叛いて長島に組したという情報が入っていた。長島には2年前に5万の大軍で攻撃を企図したものの、失敗に終わっている。今回は伊勢湾の港湾都市大湊より船を集めて長島の攻略をしようとしたが、大湊は要求をなかなか容れず、それを待たずに9月24日には出陣した。中州にある長島は後に回し、西岸の本願寺側の各城を攻撃し、ことごとくこれを攻略した。しかし、船がなかなか手に入らないため、滝川一益を長島の西にある矢田城において、撤退を始めた。しかし、退路は2年前にも大きな被害を出した揖斐川と山に挟まれた隘路であり、一揆勢はやはりこの場所で再び猛追撃を行ってきた。殿を務めた家老の林秀貞の子である林新二郎がその猛攻を受けることになり、その犠牲によりようやく信長は撤退することができた。長島を除く北伊勢の平定には成功したものの、2年前と同様に大きな被害を受けてしまったのだった。

 このころ、大和の筒井順慶が明智光秀・佐久間信盛の仲介で信長に臣従することを決めた。筒井順慶は大和をめぐり松永久秀と対立してきたのであるが、松永久秀が信長から離反したこともあり、信長と手を結ぶのによい環境になっていたのである。

 11月4日、信長は上洛のため岐阜を発った。翌5日、信長に追放されたあと三好義継の若江城にいた足利義昭が堺に移った。若江城では家老たちが信長に内通しようとしており、おそらく信長の上洛はそれを受けてのことであろう。足利義昭の堺への移動も信長の動きに応じてのことと思われる。足利義昭は依然征夷大将軍の官位を有しており、西日本の大名には足利義昭を将軍として支持するものも少なくなく、信長はその足利義昭を殺すことはあくまで避けようとした。信長は11月10日に上洛し、将軍のいない若江城を佐久間信盛・筒井順慶らに攻撃させた。家老の内通もあり、16日には三好義継は追い詰められて切腹し、三好家は滅亡した。堺へ移動した義昭に対して信長は帰京の交渉のために使者を派遣しているが、足利義昭は信長の傀儡になる気はなく交渉は決裂している。その後、佐久間信盛の軍勢は松永久秀の居城多聞山城へ向けられた。信長は松永久秀に対しては降服を勧めた。

 また、このころ信長包囲網の崩壊を受け、石山本願寺と信長は休戦に至った。信長は顕如より名物茶器を送られた。11月18日に信長は顕如に対して礼状を書いており、11月23日には妙覚寺における堺の豪商との茶会でこれを披露している。12月2日に信長は岐阜に戻った。12月26日には松永久秀が多聞山城をそのまま明け渡すという条件を呑み開城した。多聞山城には明智光秀が入ることとなる。

 翌1574年の正月は信長としては上機嫌で迎えられたことだろう。岐阜には重臣たちが新年の挨拶に訪れた。その中には前年の末に信長に臣従した筒井順慶・松永久秀もいた。彼らの前で浅井長政・久政・朝倉義景の薄濃(はくだみ)が披露された。これは頭蓋骨に漆を塗り金粉を振りかけたものである。三好義継を破り、本願寺とも休戦して以来、信長は比較的落ち着いた日々を過ごしていた。しかし、それが破られるのも遠くなかった。

越前一向一揆

 朝倉氏の旧領である越前は前波吉継(桂田長俊)に任されていたが、重税により民衆に不満を抱かせており、他の朝倉旧臣とも折り合いが悪かった。1574年1月、一向一揆が蜂起した。この機会に、特に前波吉継と対立していた富田長繁が一向一揆を引き入れて一乗谷を攻撃し、前波吉継を敗死させるに至った。この混乱を顕如は見逃さず、1世紀近く本願寺の影響下にあった隣国の加賀より坊官を派遣して富田長繁を破り、さらに本願寺と対立していた平泉寺と朝倉景鏡を滅ぼした。こうして越前は一揆持ちの国になり、信長は越前を失った。しかし、本願寺の影響力が強い越前を維持することに信長は大きな興味を持っていなかったと思われる。浅井氏の旧領を任せている秀吉などに防備を命じたに留まった。

 信長にとってより重要だったのは武田氏の動向だった。1月27日、武田勝頼が美濃方面へ進出し明智城を包囲したのである。2月5日には信長も迎撃に出陣した。一帯は山岳地帯であり、信長は会戦を試みるもなかなか至らなかった。そのうちに明智城で内応するものがあり、明智城は武田方の手に落ちた。信長は後退して押さえの城を構築して2月24日に岐阜へ戻った。

 3月12日に信長は岐阜を出発し、上洛した。そして、東大寺の正倉院に保管されている名香の蘭奢待(らんじゃたい よく見ると東大寺という字が隠れている)を切り取る許可を正親町天皇に求めてこれを許された。信長はさっそく27日に多聞山城に行き、一部を切り取って多聞山城に運ばせた。多聞山城は明智光秀に代わり柴田勝家が9日より入っていた。将軍という権威を利用できなくなった信長は天皇の権威を重視するようになっており、これは天皇との関係をアピールするためのパフォーマンスでもあったと思われる。

 4月2日、ついに顕如は再度石山本願寺で蜂起し、信長方の城を攻撃して信長との対決姿勢を明らかにした。武田氏の活発化と越前が一揆持ちの国になったことで信長への対抗に自信を持ったのであろう。顕如は坊官の下間頼照(しもつまらいしょう)を大阪より派遣して越前を治めさせることにした。信長は自身は京都に留まり、筒井順慶やおそらくは明智光秀・柴田勝家らを派遣して4月12日には反撃を行った。また、付近を放火し作物をなぎ取った。しかし、石山本願寺は現在の大阪城の位置にあった一大城砦であって容易に落とせるものではないということに加え、武田氏の動向も気になっていたはずである。4月末までに信長の軍勢は撤退した。信長の目は、領内深くにあり本国を脅かす長島に向けられていたのである。

 5月、武田勝頼が家康方の城である遠江の高天神城を2万5000を号す兵力で攻撃した。家康は信長に援軍を要請し、信長のもとにその要請が届いたのは6月5日であった。しかし本願寺の動向が気になるためか、信長が援軍を発したのは14日になってであった。19日、浜名湖近辺を通過中に高天神城開城の報がもたらされ、信長は引き返した。援軍について感謝の意を伝えてきた家康に対して、信長は救援できなかったことを無念であるとして、大量の黄金を与えて埋め合わせとした。6月21日に信長は岐阜に戻った。

長島一向一揆殲滅

 そして遂に信長は長島の攻略に動き出した。前回集めることに失敗した船については、本国の尾張からだけでも100艘を準備し、さらに伊勢からは九鬼水軍と北畠家の養子として送り込んでいる息子の信雄が率いる船団も集結させた。これら伊勢の船団は安宅船といわれる大型軍船から成り、その数は数百隻に上ったとされる。大規模な軍事行動を控えて温存していた兵力を結集し、本願寺や武田氏と対峙する光秀・秀吉などを除く主だった諸将はほとんど参戦したその兵力は7万に上った。

 7月13日に信長は岐阜を出立し、その日のうちに津島に至った。翌14日、信長はその軍勢を、自らが率いる隊、長男信忠が率いる隊、佐久間信盛・柴田勝家らが率いる隊の3つに分け、信忠の隊を戦術予備とし、自らは北方から、佐久間・柴田らが率いる隊は西方から攻撃させた。翌15日には九鬼嘉隆・北畠(織田)信雄の率いる伊勢の大船団が到着し攻撃に参加した。信長は大軍によって完全包囲し、徐々に包囲網を狭めつつあった。投降を申し出る者もいたが、信長はそれを許さなかった。最終的に残った長島・屋長島・中江の砦には老若男女3万以上の一揆勢が過密状態になっており、信長は海上まで封鎖したこの包囲態勢で兵糧攻めを行うことにしたのである。

 ここから信長は包囲陣を敷き続けた。その間、一揆勢には餓死者が続出していた。約2ヵ月半後の9月29日、ついに長島は助命を条件に開城を申し出た。信長はそれを受け入れる返答をしたものの、数度にわたり苦渋を舐めさせられてきた長島の一向一揆に対する信長の恨みは強く、実のところ、信長にとって危険分子である彼ら全員を抹殺するつもりだった。一揆勢が長島から退去し始めると、信長は出てきたところに銃撃を行い、逃げたものを追撃して斬殺した。信長の騙し討ちに憤慨し、窮鼠となった一揆勢のうち800名ほどが決死の反撃を行い、包囲陣の一角を切り崩して庶兄の信広、叔父の信次、従兄弟の信成など織田一族を含む大勢を討ち取り、脱出に成功した。これに怒った信長は残りの屋長島・中江の砦には厳重に柵を廻らせた上で火を放ち、2万人を砦ごと焼き殺す地獄の絵図を現出させた。こうして長島の一向一揆は殲滅された。



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