述而(抄)
-第七-
I think; therefore I am!


サイト内検索

暴虎馮河

本文(白文・書き下し文)
子謂顔淵曰、
「用之則行、舎之則蔵。
唯我与爾有是夫。」
子路曰、
「子行三軍、則誰与。」
子曰、
「暴虎馮河、死而無悔者、吾不与也。
必也臨事而懼、好謀而成者也」。
子顔淵に謂ひて曰はく、
「之を用ふれば則ち行ひ、之を舎つれば則ち蔵る。
唯だ我と爾と是有るかな。」と。
子路曰はく、
「子三軍を行はば、則ち誰と与にせん。」と。
子曰はく、
「暴虎馮河し、死して悔い無き者は、吾与にせざるなり。
必ずや事に臨みて懼れ、謀を好みて成す者なり。」と。
参考文献:「古典I改訂版漢文編」稲賀敬二 森野繁夫 第一学習社 「論語」藤堂明保 学習研究社

現代語訳/日本語訳

先生が顔淵におっしゃった、
「用いられれば進んで自分の正しいと思う道を実践し、
用いられなければ世の中から隠れる。
このような進退のコツは、ただ私とおまえだけが見につけていることだな。」
それを聞いていた子路がこう言った、
「先生が三軍を動かすときは、誰といっしょに行動されますか。」
先生はおっしゃった、
「虎に素手で立ち向かったり、準備もせずに黄河を渡河しようとして、
死んでも後悔しないような者とは、私はいっしょに行動しない。
私がいっしょに行動するのは、必ず物事に臨んでは細かく気を配り、
よく考えて物事を成功するよう努める者である。」


解説

子謂顔淵曰、「用之則行、舎之則蔵。唯我与爾有是夫。」
しがんゑんにいひていはく、「これをもちふればすなはちおこなひ、これをすつればすなはちかくる。ただわれとなんぢとこれあるかな。」と。

顔淵は、顔回[字は子淵]のこと。
孔子が最も高く評価した人物だったが、33歳で夭折した。

「爾(なんぢ)」は「汝」や「女」なんかと同じ意味。
「舎」は「捨」に通じる。
「蔵」は"隠れる"。
「夫」は文末で詠嘆を表す。

このような進退に対する考え方は、孟子にも受け継がれている。
詳しくは、
孟子 尽心章句上 天下に道無かれば身を以て道に殉ふを参照せよ。


子路曰、「子行三軍、則誰与。」
しろいはく、「しさんぐんをおこなはば、すなはちたれとともにせん。」と。

「三軍」は、力の有る諸侯の軍。
周公丹の理想とした軍制では、一軍は1万2500人で、
周王室が六軍(7万5000人)を擁し、
諸侯は、大国が三軍(3万7500人)、中規模の国が二軍(2万5000人)、
小国が一軍(1万2500人)を保有するものとされた。
ただし、現実にはばらつきがあり、周王室も、5万5000人が限度であった。

子路とは仲由[字は子路/季路]のこと。
勇を好んだため、戦争ならば顔回にも勝るだろうとおもってこのように発言したものと思われる。


子曰、「暴虎馮河、死而無悔者、吾不与也。必也臨事而懼、好謀而成者也」。
しいはく、「ばうこひようがし、ししてくいなきものは、われともにせざるなり。かならずやことにのぞみておそれ、はかりごとをこのみてなすものなり。」と。

「暴虎馮河」は"虎に素手で立ち向かい、準備もせずに黄河にぶちあたる"、無謀な行動のたとえてある。
「懼」は"細かく気を配る・慎重に行なう"。
「成」は"実現するようにする"。



三人行けば必ず我が師有り

本文(白文・書き下し文)
子曰、
「三人行、必有我師焉。
択其善者而従之、其不善者而改之。」
子曰はく、
「三人行けば、必ず我が師有り。
其の善なる者を択びて之に従ひ、其の善ならざる者にして之を改む。」と。
参考文献:「古典I改訂版漢文編」稲賀敬二 森野繁夫 第一学習社 「論語」藤堂明保 学習研究社

現代語訳/日本語訳

先生はおっしゃった、
「三人が何かをすれば(一緒に行けば)、その中に必ず私の師とするべきものがある。
よい行動を選んで自分もそうするようにし、
よくない行動を選んで、自分のそのような部分を改めるのだ。」


解説

子曰、「三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之。」
しいはく、「さんにんゆけば、かならずわがしあり。そのぜんなるものをえらびてこれにしたがひ、そのぜんならざるものにしてこれをあらたむ。」と。

特に説明すべきことは無いだろう。



丘や幸いなり

本文(白文・書き下し文)
陳司敗問、
「昭公知礼乎。」
孔子対曰、
「知礼。」

孔子退。
揖巫馬期而進之曰、
「吾聞、君子不党。
君子亦党乎。
君取於呉。
為同姓、謂之呉孟子。
君而知礼、孰不知礼。」

巫馬期以告。
子曰、
「丘也幸。
苟有過、人必知之。」
陳の司敗問ふ、
「昭公礼を知るか。」と。
孔子対へて曰はく、
「礼を知る。」と。

孔子退く。
巫馬期を揖して之を進めて曰はく、
「吾聞く、君子党せず、と。
君子も亦党するか。
君呉より取る。
同姓なる為に、之を呉孟子と謂ふ。
君にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。」と。

巫馬期以て告ぐ。
子曰はく、
「丘や幸ひなり。
苟くも過ち有らば、人必ず之を知る。」と。
参考文献:「論語」藤堂明保 学習研究社

現代語訳/日本語訳

陳の司敗がこう聞いた、
「あなたのお国の昭公は礼を心得ておられますか。」
孔子はこうお答えした、
「礼を心得ております。」

その後、孔子は退出した。
陳の司敗は孔子の弟子の巫馬期に両手を組んで会釈し、
自分の前に招いてこう言った、
「私は聞いている、君子は仲間をひいきしないと。
孔子のような君子でも一般人と同じように仲間をひいきするのか。
あなたのお国の昭公は夫人を呉からめとった。
同姓であるために、その夫人を『呉の長女』などと呼んでいるそうな。
もしあなたのお国の昭公が礼を心得ているとすれば、
誰が礼を心得ていないことになろうか。」

巫馬期はこの言葉を孔子に伝えた。
先生はこう言った、
「私は幸せ者だ。
もし過ちを犯せば、誰かが必ず知っていて、私に教えてくれる。」


解説

陳司敗問、「昭公知礼乎。」孔子対曰、「知礼。」
ちんのしはいとふ、「せうこうれいをしるか。」と。こうしこたへていはく、「れいをしる。」と。

「対」は目上の人に答えるときに使う。

「陳」は春秋時代の小国。
「昭公」は魯の昭公。
重臣の三桓を攻めて失敗した。

孔子退。揖巫馬期而進之曰、「吾聞、君子不党。君子亦党乎。
こうししりぞく。ふばきをいう(ゆう)してこれをすすめていはく、「われきく、くんしとうせず、と。くんしもまたとうするか。

「揖」は"両手を組んで会釈する"。
おそらく、当時のおじぎの仕方なのだろう。
「党」は"仲間をひいきする"ということ。
「亦」は"〜と同様に―も"。
この場合には"〜"の部分は、一般の人をあらわす。
「〜乎」は一般的な疑問の形。

「巫馬期」は孔子の弟子。

君取於呉。為同姓、謂之呉孟子。君而知礼、孰不知礼。」
きみごよりめとる。どうせいなるために、これをごまうしといふ。きみにしてれいをしらば、たれかれいをしらざらん。」と。

「孰」は"誰"ということである。
ここでは、疑問の意味は薄れ、反語の意味になっている。

当時の礼では、同姓のところから夫人をもらってはならないことになっていた。
近親間で子供を作ると弱い子供ができやすいが、
そのことから経験的にできた礼の秩序であろう。
ともあれ、魯と呉とは、ともに周王室と同じ「姫」姓で、
礼に従えば、呉から夫人をもらってはならなかったのだが、
魯の昭公は呉から夫人をもらった。
しかし、やはりある程度ははばかって、
「呉姫子」とは称せず「呉孟子」と呼んだというわけである。

巫馬期以告。子曰、「丘也幸。苟有過、人必知之。」
ふばきもつてつぐ。しいはく、「きう(きゅう)やさいはひなり。いやしくもあやまちあらば、ひとかならずこれをしる。」と。

「苟」は"もし"などの仮定の意味。
「丘」は孔子の名である。

過ちを指摘されたことに喜ぶ、というあたりが孔子らしい、ということだろう。



戻る
Top