当時の新聞報道にみる、
旧四ツ木橋朝鮮人犠牲者の遺骨のゆくえ
11月18日の『国民新聞』では、寺島の共同墓地に日本人朝鮮人ともに仮埋葬中で、正式な朝鮮人遺骨の埋葬先について、鶴見の総持寺、被服廠跡への合葬などがあがっている。この後、追跡報道はとぎれ、遺骨の行方はわからないままである。
最後にガリ版刷り内部資料、「極秘 震災当時ニ於ケル不逞鮮人ノ行動及被殺鮮人ノ数之ニ対スル処置」(朝鮮総督府警務局『大正十二年十二月 関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況』所収 *注1)を紹介したい。
この(2)は殺害された朝鮮人数として248人(内務省調査1923年10月22日)とし、政府調査として知られる司法省調査233人(同年11月15日付。注2)をあげていないので、10月22日から11月15日の間に、書かれたものではなかろうか。
注目したいのは、犠牲者の遺体処理方針を示した「(3)処置」である。三・四はセットで、「被殺者」の姓名がわかり遺族が申し出れば遺骨を引き渡すが、遺族以外には渡さない趣旨である。
では、「被殺者」の姓名や遺族がわかるよう努力することに力点があるかといえば、二「遺骨は日本人朝鮮人と判明しないよう処置する」・五「(加害者が)起訴された事件で、朝鮮人に被害あるものは、速やかにその遺骨を不明の程度に始末する」方針だった。これでは「未だ遺骨引渡を申し出たる遺族なし」は当然である。
私たちは各新聞報道で百〜百数十人とされる朝鮮人犠牲者の遺体が、荒川・旧四ツ木橋下手にあったこと、厳しい警戒の下で少なくとも二度にわたりまとめて運び去られた経過を追ってきた。旧四ツ木橋での遺体発掘は、このような日本政府の朝鮮人虐殺事件の証拠隠滅方針があり、かつ亀戸事件犠牲者遺族らが遺体発掘を試みようとしたため、運び去るまで徹底して行われたのだと考える。
私たちが主に調査・聞き書きをしてきた東京の南葛飾郡西部でも、朝鮮人虐殺犠牲者の正確な人数には言及できない。が、加害者は民間人のみとする司法省調査の犠牲者233人、うち「四ツ木橋付近」2件3人、「吾嬬町荒川放水路堤防」1件1名(殺人未遂1件1名)のみとする数字は余りに少ない。この数は衆人環視の中で行われた軍隊による殺害は不問にしつつ、起訴し公判が維持できたのがこれだけだったと理解するべきと考える。
では、「惨殺死体全部を処分した小松川町役場吏員の証言により、荒川放水路の埋葬現場には日本人の死体は一つもなく総て鮮人のみ」と報じる。 同日付の『国民新聞』でも、「鮮人の骨だと証人が出て又騒ぐ平澤等のではないと掘った人夫が証言」と、右のように同様の記事がある。
朝鮮人犠牲者の埋葬先について、警視庁は「日鮮親善」のため日本人との合葬を主張し、総督府は朝鮮人のみでの埋葬と見解が分かれていた。
11月14日『報知新聞』「骨も掘れずに遺族引き還す 亀戸事件死体遺棄の現場は憲兵や警官に守られて」も同じ状況を伝える。左の写真の奥は四ツ木橋か。
二度目の警官等の遺体発掘は11月14日だった。
11月15日『国民新聞』「又も荒川放水路で 死体発掘の怪行為」は、「十四日午後一時より平澤等を埋めた現場である、荒川放水路四ツ木橋下半町の付近三カ所に現に埋めてある死体をまたもや発掘して何れへか搬入した」と報じる。亀戸署高等係警部補以下巡査十九名が人夫に変装し寺島署の警官
るので手順がナカナカ複雑になる」ため弁護士が総督府出張所の立ち会いを求めたところ、「朝鮮人の遺骨は亀戸ばかりじゃない。諸所にあるから特に一カ所ばかり引取る訳にはいかぬ」と言う返事だったと報道している。
そして現場に遺族等を近づけまいと、11月12日と14日の少なくとも2度、憲兵・警官が警戒線をはる中、旧四ツ木橋
下手から多数の遺骨が運び去られた。
11月14日の『国民新聞』は、13日遺族等が遺骨引き取りの立ち会いを求めに亀戸署に寄ると、古森署長より「遺骨は昨夜(12日)掘り出して署に安置してあるから、ここから引き取ってくれ」と言われた。遺族大会後「死体を投棄された荒川放水路四つ目橋堤防下」(四ツ木橋の誤り)に急行してみると、20余名の警官20数名の乗馬憲兵が警戒し遺族も寄せ付けなかった。
左の10月21日『読売新聞』の、「戦場
の如き江東 平沢氏等と共に焼いた
〇〇〇〇体百個 古森亀戸署長談
」の中で、9月2日から5日までの亀戸
署の検束者720名中400名は朝鮮人で、「自警団員‥・四名、
南葛労働の平沢外九名と共に投棄した百名余の死体中にはこれら〇〇〇〇く」と伝えている。伏せ字は「鮮人数多」くか。
その後日本人遺族等が遺体を引き取ろうとした。
11月13日の『国民新聞』では、平澤以下の遺骨引取 きょう弁護士連付添で」の記事で、「…荒川放水路付近の野原には既報の如く百数十名の鮮人遺骨が山積して居る始末なので、之等の遺骨の中から一々撰り分けて拾い上げ
注1:琴秉洞編・解説『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料 朝鮮人虐殺に関する植民地朝鮮の反応』緑蔭書房、1996年所収。
原本は国会図書館憲政資料室 斉藤実文書。
注2:司法省「震災後に於ける刑事事犯及び之に関連する事項調査書 祕」、姜徳相・琴秉洞編・解説『現代史資料6 関東大震災と
朝鮮人』みすず書房、1963年所収。原本は後藤新平文書:未確認。
【お詫び】当会が2008年9月に発行した『共に生きる明日のために』パンフレットに、2カ所誤りがあった。一つは11月14日と紹介した
『時事新報』記事は、10月14日が正しい。また、11月14日『報知新聞』記事の紹介後、「京成線鉄橋か」と記したのは、「四ツ木橋木
橋 」が正しいと思われる。今回このホームページで訂正した。