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7.不完全な愛

第63章

霊魂は橋の第一の階段をのぼったのち、どのように第二の階段をのぼるかについて。

 あなたは、友の愛に達した人がどんなにすぐれているかをわかったと思う。このような人は、愛情の足によってのぼり、心の秘密に、すなわちわたしの「子」の体によって象徴される三つの階段の第二に、達したのである。すでに話したように、この三つの階投は、霊魂の三つの能力を意味する。これから、これを霊魂の三つの状態に当てはめて、その意味を示したい。
 しかし、第三の状態にあなたをみちびく前に、どのようにして友になるか、友となったらどのようにして子となり、子心の愛に達するか、友となった人はなにをするか、友となったことはなにによって知ることができるかを示したい。
 まず、どのようにして友になるかについて話したい。霊魂は最初奴隷的な恐れに支配されていて、不完全であるが、修業と堅忍とによって、わたしのなかに喜びと利得とを見出し、楽しみと個人的な利得との愛に達する。これが、完全な愛、すなわち友の愛、子の愛に達したいと望む人のたどる道である。
 この愛は完全であると言うのは、この子の愛に、永遠の「父」であるわたしの遺産が与えられるからである。また、子の愛には友の愛が含まれていなければならないから、友が子になると言ったのである。それでは、この移行はどのようにおこなわれるであろうか。それについて話したい。
 すべての完全性とすべての善徳とは、仁愛から生まれ、仁愛は謙遜にやしなわれる。そして謙遜は自分自身の認識と自分自身あるいは自分自身の官能に対する聖なる憎しみとから生まれる。そこに達したならば、堅忍して、自分自身の認識の独房にこもらなければならない。そして、この認識のなかで、わたしの「ひとり子」の血によって、わたしのあわれみを認識し、その愛によって、わたしの神的な仁愛を自分の上に引き寄せ、よこしまな霊的あるいは地上的意志を引き抜くよう努力し、ペトロと他の弟子たちがわたしの「子」を否認する過失を犯したのちなしたように、自分の家にかくれて泣かなければならない。しかし、ペトロの涙はまだ不完全であった。そして、それは四十日間、すなわち「昇天」ののちまでつづいた。
 わたしの「真理」がその人性によってわたしのもとに返ったとき、ペトロと他の弟子たちは、かれらの家にかくれ、わたしの「真理」がかれらに約束した聖霊の降臨を待った。かれらはそこに恐れのあまり閉じこもっていた。なぜなら、霊魂は、まことの愛に達しないあいだは、恐れるからである。しかし、かれらは、堅忍して徹夜をつづけ、謙遜で絶えまない祈りのなかで、聖霊をゆたかに授かると、恐れから解放されて、十字架につけられたキリストのあとに従い、これを説いたのであった (5)
 これと同じように、完徳に達した霊魂あるいは達したいと思う霊魂は、大罪から脱け出し、自分自身を認識したのち、罪を恐れて泣きはじめる。ついで、わたしのあわれみの考察へと上昇し、そこで満足と利得とを見出す。しかし、この霊魂はまだ不完全である。それで、わたしは、これを完徳にみちびくために、四十日ののち、すなわち二つの状態ののち、ときどき、恩寵ではなく現存の意識を取り上げることによって、この霊魂からかくれる。
 これは、わたしの「真理」が弟子たちに、「わたしは去って行くが、またあなたがたのところへ戻って来る」(6) と言ったとき、あなたがたに示したことである。かれが言ったことはみんな、個別的には弟子たちのためであったが、しかしまた、全般的に、共通的に、現在生存しているすべての人と未来に生まれて来るすべての人とのためであった。かれは、「わたしは去って行くが、またあなたがたのところに戻って来る」と言ったが、そのとおりになった。なぜなら、聖霊が弟子たちの上に降臨したとき、かれも戻って来たからである。すでに話したように、聖霊は単独に降臨することはない。「わたし」の力と「子」の英知とともに降臨する。「子」はわたしと一つであり、また、「父」である「わたし」と「子」とから発する聖霊の寛仁とも一つである。
 ところで、あなたに言いたいのは、わたしは、霊魂をその不完全な状態から引き出すために、以前に感じていた慰めを取り上げて、わたしの現存を感じさせないようにするということである。
 霊魂は、大罪の状態にあったときは、わたしから離れていた。そして、その過失のゆえにわたしの恩寵を失っていた。それというのも、わたしに対して望みの戸を閉ざしていたからである。恩寵の太陽はこの霊魂からかくれた。それは太陽のあやまちによるのではなく、これに対して望みの戸を閉ざした被造物のあやまちによるのである。
 しかし、霊魂が、自分自身と自分の暗黒とを認識して、窓を開け、聖なる告白によって腐敗物を吐き出すと、わたしは恩寵によって霊魂のなかに戻る。そののちは、すでに話したように、わたしの現存の意識を取り上げることはあっても、恩寵を取り上げることはない。わたしがそうするとしたら、それは霊魂を謙遜にするためであり、真理においてわたしを探し求めるよう努力させるためであり、信仰の光明のなかで試して賢明にするためである。もしも、霊魂が自分の利益を考えず、生ける信仰と自分自身に対する憎しみとをもって愛するならば、労苦のなかにあっても喜ぶであろう。なぜなら、自分は霊的な平和と静安とを楽しむ資格がないと考えるからである。
 以上で、完徳に達する三つの方法の第二について説明した。それでは、そこに達した人はなにをするであろうか。
 つぎのことをするのである。そのような人は、わたしがかくれたことを感じて逆戻りすることがない。その反対に、善徳の修業に謙遜に堅忍する。そして、自分自身の認識の家に閉じこもる。そこで、生ける信仰を抱いて、聖霊の降臨、すなわち、仁愛の火そのものであるわたし自身の来臨を待つ。どのように待つであろうか。無為のなかにではなく、夜を徹して、絶え間ない聖なる祈りのなかで待つのである。単に肉体による徹夜ではなく、精神の徹夜によって。すなわち、その知性の目を閉じることなく、信仰の光明に照らされて徹夜をおこない、心の空しい思いを憎しみをもって引き抜き、わたしの愛徳の情愛のなかに目をさまして、わたしが望むのはその聖性以外にはないことをさとる。それはわたしの「子」の血によって確証されているからである。
 知性の目がこのようにわたしと自分自身との認識のなかに目覚めているあいだ、霊魂は絶えず祈っている。それは聖なる善意による念祷であり、絶えざる念祷である。しかし、この念祷は、聖なる教会によって定められた時間、外的な祈りに従事することを妨げるものではない。
 不完全な状態を抜け出て完徳に達した霊魂の実行することは以上の通りである。霊魂をそこに到達させるために、わたしは、恩寵によってではなく、現存の意識によって、これを離れたのである。
 わたしはまた、霊魂がその空しさを認識することができるように、これを去ったのである。事実、霊魂は慰めが取り上げられたのを感じると苦悩する。自分が弱く、不安定で、絶望にさらされているのを感じる。そして、それによって、自分のなかに霊的自愛心の根があるのを発見する。これは、霊魂にとって、自分を認識して、自分を乗り越え、自分の良心の法廷にすわって、どんな感情も、是正せず処罰しないで通すことがないようにする機会である。このようにして、霊魂は、自愛心の根を、この自愛心に対する憎しみと善徳に対する愛との力をもって除き去るのである。

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