12. 学校教育の前途
東京の西の方で、学校騒動を起こす、何とか云う学校がありますが、そこに自分の子供を託そうと思って、行ってみた事があります。そうすると先生が教授をしていない。私が「今は何の時間でありますか」と訊くと「今は博物の時間でありますが、学生の自発的な研究心を尊重しているのであって、別に講義などはしない」と言っていた。そこで教室に伴われて行ってみると、みな自習をやっていた。そうすると中に一人の生徒が、博物の時間であるにも拘らず数学をやって居った。すると先生が「某君、君は数学をやっているのか」と訊きましたが、「何、俺は数学をやっているんだ」と言った(笑)。
これではどっちが先生だか生徒だか判らない(笑)。また先生も先生で、善いとも悪いとも、ウンともスンとも言わずに、風の如くに出て行ってしまった(笑)。これじゃ子供を託する訳には行かんと思って、私はやめましたが、そこの主事の言うのには「こせこせしない、のんびりした人間をつくるのが本校の目的である、それで生徒の自由に任せ、個性を傷めないように極めてのんびりさせているんです」と云う事でした。こせこせしない線の太い人間は、確かに必要である。がしかし、斯かる教育法では絶対に主事さんの言われたような人物は出来っこはないのであります。子供なんてものは育て方一つでどうにも成るものであります。これに誤れる自由即ち放縦の教育法をしたって、徒らに野放図なグータラが出来るだけである。だからこんな野放図な木偶の棒が社会へ出ると、教科書とは違って正に生きた社会の現実に直面するから、彼等はやって行けそうな筈はない。そこでお決まりの「社会は矛盾だらけだ、打倒資本主義──我等に自由を与えよ!」とやり出すのであります。これなんぞも誤れる自由観念が如何に社会に害毒を流すかという、一つの適例であります。
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