35 聖体拝領
神父 
ミサ聖祭は天主の定め給うた犠牲で、新約時代のキリスト信者は、これによって天主を礼拝すべきである、ということは、もうおわかりになったでしょう。又、日々に祭壇に御自らを捧げ給う犠牲と、日々にくりかえし給う「父よ、彼等を赦し給え」という祈りは、曲れる世に対する天主の御寛容を示すものである、ということも、おわかりになったでしょう。
青年 
ええ、わかりました。そのお話で、従来私の頭を悩ましていた問題が、解決されました。
神父 
ですが、ミサ聖祭には、第二の目的があります。第二の目的とは、キリストをしてエンマヌエルたらしめること ----- エンマヌエルという語は「神我等と共にまします」という意味ですが ----- キリストをして我等の霊魂の「生命のパン」たらしめるために、主をパンの形の下に実在せしめ奉るということです。
聖体拝領によって生ずる特別の効果は四つあります。
(一)聖体拝領により、私達は親しくキリストに一致し、これによって、霊魂に成聖の聖寵が非常に増加されます。この効果は今更云うまでもありません。すべて秘蹟は聖寵を与えるのでしたら、霊魂を直接にキリストと結びつけるこの秘蹟は必ずや聖寵を伝えるはすだからです。
(二)又、聖体拝領は善を行う熱意を増し、そのための意志を強くしてくれます。身体のための食物が肉体的な仕事を行うカを強くするのでしたら、この霊的な食物は霊的な仕事をする力を強くするに違いありますん。
(三)聖体拝領は小罪をきよめ、大罪に陥いるのを護ってくれます。衷心から悲しみを現わしただけで天主は小さな罪を赦して下さるのでしたら、悲しみと愛で一杯になっている心に主がお入りになりますと、こういう小さな罪は必ず消されるはずです。私達が大罪に落ちるとき、私達はひとりぼっちで、これに手向うだけの強さがないのです。しかし、聖体拝領で天主の御助力をいただきますと、誘惑に対しましてより強くそして立派に堪えることができます。
(四)聖体をふさわしく拝領する人は、光栄ある復活と、天国で永遠に天主と共にいる幸福が約束されます。
こういうふうに、聖体拝領は聖なる生命に至る最も大きな助けになります。
青年 
聖寵の状態で死ぬ人がみな世の終りに復活し、肉体と霊魂を持って天国に入るというのでしたら、度々聖体拝領をしてイエズスの御訪問を受け肉体のきよくなった人は、必ず間違いなしに、天国に入るお恵みをいた頂けますね。そういう人が一生キリストに一致して送りますと、天国に入りそこなうということは、殆ど考えられないと思います。
神父 
あなたはよくわかっておいでだから、あなたに聖体をたびたび拝領なさいとお勧めする必要は全然ありませんね。
青年 
聖体拝領をカトリック信者に勧める必要がおありなのですか?
神父 
そうです。残念ながら、私達はそう勧めています。信者の中にも御聖体を大して好まないような人がいます。こういう人々は数ヵ月に一回ぐらいしか拝領しません。一年に一回しか聖体拝領にあずからない信者も居ないことはありません。
青年 
カトリック信者であると自ら称したいなら、少くとも年に一度は拝領しなくてはならないのでしょう?
神父 
そうです。御復活祭の頃に一度は拝領するのです。
青年 
そういう人は信じていることを本当によく理解していないのですね。でなければ、信仰と実際がもっと一致しているはずです。主に一致することを望んで、主の御招きを受けしばしば主の御許に行く人には、必ずキリストができるだけのことをして下さるのに拘らず、あの人達がしばしば聖体を拝領しないということは、聖体拝領で御利益をいただこうとする気持がないように考えられますね。
神父 
あなたのお考えの通りです。キリストは人の霊魂のために(丁度、食物が肉体に対するように)「日々のパン」になろうと考えられました。初代のキリスト信者は毎日主を拝領しました。トリエント公会議は御ミサにあずかる度に拝領することを勧めています。故ピオ十世は、子供に幼児から聖体拝頭を許し、毎週でも、毎日でもよい、聖体を拝頭するよう習慣を植えつけることを勧められました。人は天主に親しく一致し奉るという光栄に匹敵する光栄を味わうことはできません。
青年 
実際、御恵みというものは一方的なものですから(即ち、聖体はこれを拝領する人のためにあるのですから)、御招きを待っている必要はないはずです。聖体の拝頭は人間として最大の特権である、と考えなければなりませんね。
神父 
この問題について教理や実際上のことで、もっと知りたいことがありますか?
青年 
ええ、神父さん、あります。もう一つ是非教えていただきたいのですが、神父さんは葡萄酒の形で聖体を信者にお与えにならないでしょう?
神父 
与えません。葡萄酒を信者に与える心要のないということは、「最早死に給わぬ」天国にましますキリストを拝領するのであるという教えによりまして、はっきりしているはずです。「最早死に給わぬ」ゆえに生きておられる光栄あるキリストの御体、御血、御霊魂、御神性が拝領されるのです。犠牲としましては、ミサの時にパンと葡萄酒をそれぞれ別々に聖変化することが、キリストの御死去を現わす為に必要ですが、肉体と血は実際の死によって別れるものではありませんから、キリストをパンで表わしても葡萄酒で表わしても、それは完全にキリストを表わすに相違ありません。ですから、キリストの全部を拝頭するためには、両方の形色(パンと葡萄酒)の下にこれを拝領することが必要だ、ということはあり得ません。司祭はミサを司式するときには、この両方の形色の下に拝領をします。しかし、司祭は自分がミサを司式しないで、聖体を拝領する場合は、平信者と同じように、一方の形色しか拝領しません。
青年 
それじゃ、教会は両方の形色で聖体を授ける仕方を悪いと云っていなかった当時は、良いからこそそういう仕方を採用していたのですね?
神父
そうです。教会は慎重に考えて、不敬を除く方法を定めただけなのです。即ち、大きな教会では何百人という人が毎日曜日聖体を拝領し、平日でも沢山の人が拝領します。もしこの貴い御血が唯の一滴でも床の上や拝領者の着物にこぼれますと、細心の注意を以てその跡を拭わなければなりません。これが葡萄酒の形色で行う聖体拝領に対する実際上の反対論の根拠になっています。或る国では葡萄酒が少ないとか、又、カトリック信者の多いところはどこでも、それだけの量の葡萄酒のため大変な費用がかかるでしょう。もちろん、葡萄酒の形色の下における聖体拝領が是非必要だというのでしたら、こういう不便も忍ばなければなりません。ですが、聖パウロは「誰にもあれふさわしからずしてこのパンを食し、或は主の杯を飲まん人は、主の御体と御血とを犯さん」(コリント前一一ノ二七)と云って、葡萄酒の不必要であることを述べています。
青年 
はっきりしていますね。
神父 
普通、聖体を拝領しようと思う信者は(司祭でも同じですが)、大罪がないということのほかに、その前夜の十二時から断食をしなければならない、ということをお話したでしょうか? [1]
青年 
いいえ、まだお話しになりませんでした。それはまたどうしてですか?
神父 
朝のミサの時に拝領する聖体に敬意を払うため、如何なる食べものも飲みものも原則として前夜の夜半からは禁じられています。この禁止によりまして人の気持はなお一層落ちつきます。
青年 
聖体を拝領する準備に何か定った方法がありますか?
神父 
前にお話しましたように、私達は聖寵の状態におらなければなりません。そうでない場合は、告白をしなければなりません。大罪を持って聖体を拝領しますと、涜聖の大罪になります。しかし、これから拝領しようとする救世主の御事を思って、熱心に信、望、愛を燃やし、罪に対する痛悔の行いをする、ということのほかは、別に定った要件はありません。ミサのお祈りはこの気持を表わしていますが、聖体拝領の準備をするお祈りもこれと同じことで、大概カトリックの祈祷書にのっています。
聖体を拝領した後は暫くの間、主を崇め、主に感謝し、愛と従順の約束を新たにし、自分と他人のために、御恵みをお願いしなければならない、ということも申しあげておきましょう。
管理人注
[1] 聖体拝領前の断食
現行の規定では..「聖体拝領1時間前から固形物及び水以外の流動物は摂ってはならない」
聖体拝領前の断食
 聖体拝領前1時間は飲食しないこと。本来は、真夜中以後の完全な絶食を意味し、水を飲むことも許されていませんでした。臨終の聖体を受ける者だけが、この規定を免除されました。
 ピオ十二世教皇は、1953年にこの断食の規定を緩和し、真夜中以後は固形食物とアルコール飲料を断つことだけに限定し、飲み物の摂取は聖体拝領一時間前まで許可しました。パウロ六世教皇は、1964年に規定をさらに緩和し、実際に聖体を拝領する前一時間の絶食にし、水と医薬品は聖体拝領前のいかなる時点までも許可しました。
 1973年に聖座は、病人と老人およびその世話に当たっていて一時間の絶食が困難な人に対して規定を緩和し、拝領前15分の絶食にしました。
(「現代カトリック事典」参照)
しかし「聖体拝領前1時間は飲食しない」では人はほとんど何の抵抗も覚えないだろう。「準備」として大したことにはならないだろう。まして「償い」になどなる筈がない。この辺の意味を『他界からの警告』がよく説明している。参照
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