2016.04.21

社会司教委員会の自信満々の「です」「です」「です」

私をウンザリさせる自信満々の「です」「です」「です」の最たるものは、日本カトリック司教協議会・社会司教委員会が2012年に出した『なぜ教会は社会問題にかかわるのかQ&A』です。(今頃これを扱うのは「遅ればせながら」ですが)

下に引用する箇所にも見るように、彼らは私たちを「確かな」視野に導きたいようです。しかし、本当に「確か」でしょうか?

私は「否、そうではない、“確か” ではない」と言いたいと思います。私にとっては、彼らが広げているのはただ「見かけ」のよい言葉が描かれた抽象的な雲です。抽象的な「確かさ」は、わりと簡単に作ることができるものです。

彼らの作文を一つだけ見てみましょう。

Q5 地上における差別や貧富の差、戦争や紛争がなくなること、それがすなわち「救い」なのですか?

 地上におけるさまざまな問題が解決されていくことは救いに向かうことですが、それ自体が最終的な救いではありません。本当の救いとは、和解によってもたらされる神とわたしたちとの完全な一致です(ニコリント5・18参照)。教会が具体的な社会の問題にかかわるのは、この和解を実現しようとする神の働きに参与するためなのです。地上における差別や戦争がなくなっていくことなどは、和解が始まっているしるしであり、救いが実現していく確かな歩みだといえます。そしてこの救いは、個人的にも社会的にも、物質的にも精神的にも、すべての面ですべての人に及んでいき、そして来世において完成すること、これが神のとられた救いの方法なのです。キリストがこの世に来られ、人々の間にある「敵意の壁」(エフェソ2・14-16参照)を打ち壊したのですから、わたしたちが具体的に差別や争いをなくしていくように働くことは、キリストの救いのわざに参与していくことなのです。

p.24

「それ自体が最終的な救いではありません」の後にどんな見るべき言葉が続くかと思えば、全く大した言葉ではありません。そして、それが打ち出している「確かさ」は結局は「不確か」なものです。

彼らの構文は、要するにこうです。

① 地上における差別や戦争がなくなっていくことなどは、それ自体が最終的な救いなのではない。② しかしそれは、救いが実現していく確かな歩みだと言える。

しかし、この構文は変です。何故なら、第一文で、

「最終的な救い」と「確か」には結び付いていない

とされているものが、第二文では、

「救い」と「確か」に結び付いている

かのように書かれているからです。

「最終的な救い」と単に「救い」と言われた二つの言葉が使われています。しかし、このように二つの言葉を使うことは、果たしていいことなのでしょうか?(物事に「確かさ」をもたらすために)

対象は同じなのです。「地上における差別や戦争がなくなっていくことなど」というのが、その対象です。もう一度見てみましょう。彼は、その同じ対象について、こう言っているのです。

それは「最終的な救い」ではない。そこまでは保証しない。
しかし、同じそれは「救い」を実現する確かな歩みである。

しかし ──これが私の結論です──

「救い」というのが「最終的な救い」とイコールでないならば、結局、物事全体は少しも「確か」ではないのではないでしょうか?
「確かな」という形容詞に値します?

物事のどの段階にその形容詞を付すも、まあ、あなた様の自由というものかも知れませんが、しかしそれでも、大概にして下さい。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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