2015.11.04

「畏れ」をネガティブ一方に捉えるのは間違い

ソットコルノラ神父の「お父さん」のイメージ参照に「跪き」のことを絡ませつつ

六コマ漫画

このイラストは現在の日本には十分には適用できません。何故なら、日本のカトリック信者の中で跪く人は少数だからです。しかしそれでも、“物事の隠れた真相” を、少し、表わしたつもりではあるのです。

昔のカトリック信者は喜んで、或いは少なくとも自然に(何の違和感もなく)跪いていた筈です。彼らは「神に近づくため」に跪いたのです、「神から離れるため」ではなく。(笑うところではありません。現実を、生きた人間というものをよく見るべきところです)

神父様方の頭の中には「ガイネン」というものがいっぱい詰まっているようですが、信者という「人間」の「生きた現実」に於いて、そうだったのです。万という「人間」に於いて。

彼らは「人間」です。彼らは「神に近づくため」に跪きました。「信者」とはそんなに特別な人間ですか?

そう、神父様方は「それは信者のことだろう。しかし日本の一般の人たちにとっては…」と言うのですが、そんなにキッカリ「信者」と「未信者」を分けなくてもいいのです、分けるべきではないのです。昔の信者だって全てが幼児受洗の者だったわけではありません。そうして今だって、カトリック信者が敬虔に跪いて祈っているのを見て心動かされる未信者は居るのです(日本でです。私もその一人でした*)。

* 私は若い頃、プチ宗教遍歴者でしたが、御聖体拝領後に跪いて一心に祈っている或る御婦人の姿を見た時、初めて「敬虔」という言葉を形として見た気がして、ショックに近い感動を覚えたものです。他の宗教では感じたことのないものでした。(また参考

「畏れ」をネガティブ一方に捉えるのは間違い
そして、今の教会は「畏れ」(「恐れ」でも結構ですが)というものをネガティブ一方に捉えています。しかし、私はそんなもんじゃないと思うのです。変なことを言うようですが、人間に於いては、そして信仰に於いては、「畏れているが故に近づく」ということもあると思うのです。もちろん「畏れオンリー」ではありません。しかし、「畏れの対象」という要素がひどく希薄になった「神」というのは、かえって魅力のないものです。ほとんど「愛だけ」のようになってしまった「神」というのは、「神」なんだかナニなんだか、よく分からない存在になるものです*。そういうことを考えたことはないのですか、神父様方。

* 恵み深い有り難い存在であるには違いない太陽に対する信仰、つまり自然宗教にどこか似たものになる、と言ったらいいでしょうか。

そして、本当の真相

心理学者たるフリーメイソンの言葉をもう一度引きましょう。

多くの者は、神の愛はどんな敵意も超えていると信じる習慣がついている。われわれは、この愛を強調しさえすればいい。恐れる必要のない神は、いずれ考慮に値しない神になる。

AA1025

注)あなたが《人間》《人間心理》《人間の実際のところ》というものに詳しければ、AA1025 の手記が本物か偽物かなんてことは、大した問題とはならないに違いありません。──極端な話、これが全くの「小説」であっても構わないのです。洞察は洞察ですから。

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