2015.11.04

ソットコルノラ神父 5

優しいだけであるかのような「御父」のイメージの振り撒き

以前取り上げた「キリスト教と神道との対話」の中のソットコルノラ神父のこの発言に、私は非常に嫌なものを感じます。

質疑応答の時間では、古事記などの日本神話に登場する最高神、天照大神(あまてらすおおみかみ)を愛しているか、という質問があり、矢島氏嗣久氏(北澤八幡神社宮司)は「恐れ多くて、『愛している』などと言うことはできない」と回答。「神と人」との精神的な距離感を感じた。一方、日本のクリスチャンの中にもこのような神との距離感を強く持っている人はおり、ソットコルノラ神父は「神様は人間にとってお父さん」という概念を根付かせるのに苦労すると語った。

クリスチャントゥデイ

クリスチャントゥデイの論説委員たち

この記事はごく短いので、普通なら論評を避けるところだろうけれど、私は今までソットコルノラ神父の言動を若干見て来たので、論評するのであります。

「お父さん」
しかし、一言で「父」と言っても色々あります。明治時代の「厳格な父」から、昭和の時代によく言われた「マイホームパパ」まで。そして聖書で云えば、「放蕩息子を温かく迎え入れ、涙を流して抱き締めた慈父」のイメージから、「外の闇に放り出せ。そこには嘆きと歯ぎしりがある」と言い渡した王のイメージまで(後者が天の御父と関係ないとは言わせません。それも御父の隠喩です)。

で、ソットコルノラ神父のような司祭に於いては、まずもって「厳しい」イメージの方を捨象するのです。きれいさっぱりと捨象するのです。そうして「親しみ」のイメージだけを言うのです。御父には厳しい面など少しもないかのようなイメージを教会と世界に振り撒くのです(柔和な顔をしながら)。しかし聖書によれば、御父は慈愛深い御方であると同時に非常にお厳しい御方でもありますから、そのような態度は天主の司祭としては一つの「裏切り」です。

八百屋でスイカを買うのではないのですから、「一個は多いな。悪いけど半分にしてくれる?」と言うわけにはいきません。私たちはどうしても、たとえ消化に悪そうでも、御父の「慈愛」の部分と「峻厳」の部分の両方を頂かねばなりません。

「消化に悪そう」と言ったのは、御父の「慈愛」の部分と「峻厳」の部分は、普通、私たちの単純な頭によって「矛盾」と捉えられるからです。しかし、矛盾はないことでしょう。何故なら、想像してみて下さい、あなたは、もしあの「放蕩息子」が自分の過失や罪について何の悔悟もないままその父親のもとに戻って来たとしたら(何かたまたまの、単なる自分の都合で戻って来たとしたら)、その時その父親は優しい顔をしたと思いますか? よく、その喩え話は簡単に「放蕩息子の帰還」と言われますが、本当は言葉を足して、飽くまで「悔悟した放蕩息子の帰還」とすべきではありませんか?(或いは少なくとも「悔悟しつつある放蕩息子の帰還」とか)

そして「悔悟」を「婚礼の服」とするなら、悔悟しないで戻ってきた息子は、やはり「外の闇に放り出せ」とか、「私はあなたを知らない」とか言われるのではありませんか?

記者はソットコルノラ神父の言葉を直接話法の形では書いていませんが、それでもとにかく彼はこのようなことを言ったのです。
「私は(或いは、私たち司祭は)人々の心の中に『神様は人間にとってお父さん』という概念を根付かせるのに苦労します」と。

しかし、まず言いたいのは、「苦労」という言葉は、普通、「善業」に付けるものだということです。

そして、彼のそのような言葉はどのような「現実」と結び付いているのでしょうか。私も、神の「愛・憐れみ」の強調が役に立つ時はあると思います。特に、「本当は教会に行きたい気がするが、自分のこれまでの罪を顧み、神様のお厳しいことを思った時、自分には教会の敷居をまたぐ資格がないような気がして、どうにも行けないでいる」というような心境にある信者を前にした場合などです。そのような信者には「そんなに恐れることはありませんよ。何故なら神様は…」云々と言ってあげる必要があります。

けれど、そういう場合でなく一般的な状況(まずまず健康、まずまず順調)にある信者にさえ「神は愛だけ」であるかのように説くことは、聖書的にはもちろん司牧的にも間違いです。何故なら、そのような信者が人生上の何かのキッカケによって教会から離れた場合、普段から彼らの頭に「神は愛だけ」であるかのようなイメージがあるならば、彼らが再び「教会に行かねばならない」と思うようになることは難しいからです。きっとダラダラ行っちゃいますよ。

教会は「信仰の教育機関」でもあらねばらないので、そういうことも教会の責任の範囲内です。しかし、今の教会は「大人の信者は主体的に考えることができる」と言うことにとどまっています。そして、ここにも誤魔化しがあります。こういうことは本当は「大人の信者」も「子供の信者」もないのです。「大人の信者」に教えない教会は──よく観察してみて下さい──結局は「子供の信者」にも大して教えませんよ。

第二バチカン公会議後のカトリック教会は「愛の教会」、しかし「弛緩した教会」です。

「弛緩させた」人たちは誰ですか?
このように↓書いた人たちです。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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