各国の文化をその国の人たちに、その人たち自身が望む以上に押し付けたがっているように見える奇妙な人
読み易いように段落分けしました。しかし、中略はしていません。
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は管理人のコメント。強調と〔 〕も管理人による付加。 |
2014年2月16日 於: 福岡司教区・北九州地区
参照元 音声(質疑応答)00:06:30~
問 典礼に於ける “しるし” は典礼に於ける深い意味を示すものですけど、カトリック教会の場合に、その “しるし” はそれぞれの文化にふさわしい “しるし” として違いを持っていていいでしょうか。特に日本では “しるし” とはどのような点で配慮されるべきでしょうか。
── ソットコルノラ神父の回答 ──
それは大きな、難しい、ただ、大事な問題です。
あのぅ、「インカルチュレーション」という英語の言葉で言うんですね。ぶんか . . ないか . . 文化に入ることね。
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たぶん「文化内開花」と仰りたかったのですね。 |
えぇと、先ほどの喩えで繰り返しますと、シリア様式、ビザンツ様式、ローマ様式、そういうようなことです。それぞれの国の言葉 . . あのぅ、しるしで、同じ神秘体験を表わすのです。
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「シリア様式、ビザンツ様式、ローマ様式」と、 |
第二バチカン公会議は、それはね、今、ローマ様式は全地球に広がっているから、南アメリカから日本までね、あのぅ、各国の文化に適応する必要があれば、その司教団が取り上げて、そして、色々工夫してから、ローマに、あのぅ、提案出して、認めてもらう可能性があります。37〔番から〕40番まで、典礼憲章の中で。
私が知っている例は二つだけです。
コンゴ。中央アフリカの「ザイール」と言われていた国。今また、元通り「コンゴ」になったんですね。そこで、コンゴ様式のミサの式次第、ローマから認めてもらって、あの、行なっている、3時間、4時間〔笑〕。
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今度は「コンゴ様式」と言っちゃうわけですか。 |
例えば、あのぅ、入祭行列は、私たちは真面目にこうするでしょ? やぁ、コンゴで考えられない。コンゴ、こうする〔動作を真似てでもいるのか、聴衆笑う〕。これだけじゃなくて、また . .〔自身も笑い声を立てる〕 . . ゆっくりと、20分歌いながら、そうごんに踊りながら、あの、行列する。
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確かに「そうごんに」と聞こえますが、神父様にはコンゴの人たちの踊りが「荘厳」に見えるのでしょうか? |
あのぅ、奉納行列も一緒。私たちはね、「はい、早く、どうぞ」〔笑い声を立てる〕。いやいやいや、コンゴではね、フォン♪ フォン♪ フォン♪ フォン♪ フォン♪ 〔笑い声〕. . 10分、15分〔愉快そうに笑う〕。
また、例えばね、これは許可の要らないことで、あの、ミサ典礼書に書いてあるからね、平和の挨拶を、その文化の、あの、あの、に基づいて、あの、挨拶を交わす。日本は、私たちはね、真面目にね、こうする。いや、南アメリカ行けばね、もう . .〔大いに笑う〕 . . ちょっと違う文化。
も一つの例はおもしろい。インド。
インドは、アジアで一番、あのぅ、こういう問題を〔聞き取れず〕ている国ですが . . ま、大きな国ですよ、インド。12億人、いるよぉ。そして広~いですよぉ。司教団もね、三つあるんですよ。教区は250教区。
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「多様性」を言いたいわけですね。 |
とにかくね、あのぅ、パスト . . 司牧、典礼、教理、中心がありまして、よく働いています。そしてね、インド風ミサを、あのぅ、作ったんですよ。ただ、司教団のレベルで . . 全国のためじゃなくて各 . . あぁ、州、例えば九州、関西とか、関東のような管区、教会管区で認めて下さいということを決めた。二つだけ、管区司教団を認めた。〔しかし〕そこでも反対する人が多い。あんまりやっていない。どうして?
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今度は「インド風ミサ」か。 |
例えば、ご存知の通りインドはねぇ、イギリスの、あの、植民地でしたね。インドの文化で〔は〕、みんな地面に坐って食べる。食べていた。イギリス人は椅子を使って坐っていた。今、独立して、インド人もね、椅子を使うようになりました。そしてね、ここにも椅子、うん、私たちも椅子に坐るんですよ〔笑〕。なお、このミサの提案に従って、みな地面に坐ってミサを捧げることになっている。〔しかし〕人、一般の人はね、一般の信徒はね、「反対、反対、椅子を使わせて下さい」と言って、とても難しいことです。あー、ただ避けられない問題です。
なんだか変ですね。
神父様が或る所で書いている「日本人の生活感情へのミサの適応と受肉」という言葉からすれば──インドの「一般の人」たちにとって「地面に坐って食べること」がもはやその「生活感情」にフィットしていないというならば、ここは単純に「椅子を使ってもらって結構です」となりそうなものですが、違うんですね。
神父様にとってはインドの御ミサはどうしても「インド的」でなければならない? 現地人が望む以上に「インド的」でならなければならない? 神父様は単に “各国文化保存委員会” の人ですか?
私は、ちょうど今、横浜教会、横浜教区の小さなパンフレットがあります、「典礼の風」。頼まれた、この問題を。
勧めるのは、あの、三つです。
すぐね、変な形でミサをするのは、あのぅ、ふさわしくない。ただね、日本の宗教、昔からの宗教、勉強すればいいと思います。
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ビックリ |
真似してはいけません。押田神父様は私にね、「仏教を真似するな」とね、よく教えて下さったね。いや、真似するんじゃなくて、ただね、どういうふうにその宗教を表わしているか。
三つの喩えを出します。
祝詞[のりと]を、祝詞を唱える神主の姿を見て下さい。よく神社に行く、勉強するため、見てて、見て . . 荘厳にね、歩き方 . . 自分の書いた巻物を開いて、目の高さで上げて、滑り落ちないように . . 声の調子を . . そして〔柏手を打つ〕荘厳に、あの、あのぅ、あのぅ、礼をして、あのやり方を見て、私はね、「あらぁ、昔から日本人は、神の前に居る時、その意識をこんなふうに表わして来たのです」〔と思ったのです〕。そこで、私たちはカトリックとして学ぶことはありませんか? と思う。例えばね、おんなじ祝詞を唱えるんじゃなくて、こう〔柏手を打つ〕しないで、ただね、ちょっとね、神様の前に居る時の意識を、もっと日本的に表わせばいいんじゃないですか? と、私は思ってる。
も一つの喩えはね、仏教。まあ、いろいろ学ぶことがあります。ただ、お寺に居た時に、古川〔泰龍〕先生の一人の娘さんが私にね、「私たち仏教徒は合掌して祈ります」と。合掌、合掌 . .「カトリックはどうするの」。私はね、困っていた。カトリックはね、合掌するはずです。なに、実際に、こう、こう、こう、こう、こう、こう、こう〔観衆、笑う〕、どうするの、私たち。でしょう? 日本では合掌、いいですよ、きれいですよ。どうしてやめましたか、私たち。ね?
ん? 日本のカトリックはいつ合掌を「やめ」ましたか? そんな時期があったのでしょうか?
それとも、ソットコルノラ神父の言う「私たち」とは「日本人一般」のことでしょうか? でも、日本人一般が「合掌をやめた」ことはないと思うのですが。
それは「仏教の真似する」んじゃなくて、これはキリスト教も、昔から、でしょ? こう、私たちはみな覚えたんですね。
んんん? 結局どういうことなのか?
何を言っているのか??
(ひょっとしたら、「日本のカトリック信者は祈る時、或る人は合掌したり、或る人は指を組んだりで、統一されていない」ということを言っているのかも知れない)
例えばね、ちっちゃなことですけど、も一つは、ちょっとヒントだけですけれどもね。私はね、あの、あのぅ、資格は持っていないけれど、長い間ね、お茶の湯、茶道、お茶、参加させて頂いて、あの雰囲気、あの考え方、あのセイ. . 霊性、あの霊性、和敬清寂、あの価値観、素晴らしい、素晴らしい。「お茶の中でミサを捧げること」を言ってません、もちろんね。
私はね、20年間、畳の上でミサを捧げました。司教団の指針に従ってね。「日本間でのミサ」というね、指針が、1967年からありますよ。ただね、典礼委員会でこういうような提案を出した時に、日本人の、二人三人の若い人たちは、「東京で若者はそういうことに興味を持っていないよ」とね . . .〔それで〕おわり。
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インドのことを言った時と同じですね。神父様はやっぱり “各国文化保存委員会” の人なのですね。 |
私はね、お茶の湯といいますのは…
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もう結構です。 |
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次に、小説「インカルチュレーション」の続きを書くとします。
すなわち、これはソットコルノラ神父の言葉ではありません。
そういうわけで、今、御聖体を立って受けることは、日本だけが特異でもないんですよね。そして、それが今の時代の一つの、流れって言ったらおかしいですけど、あれになってると思いますね。だから、あの、そして、そのために、日本の司教団で言ってるのは、単に行列を作るんでも、その、色んな行列があるんですよ。例えばアフリカの方なんかは、或る意味で我々日本人から見ればひどいんだけど、彼らは「日本人がひどい」って言うんだけどね。こう、何て言うんだ、輪になって踊りながら、こう、御聖体拝領に来るんです、こうやってね。アフリカ人の習慣だそうですけどね。
これは読者への注として言うのだけれど──私も、アフリカの教会で人々が御ミサで踊っているのは YouTube などで見たことがあります。しかし、御聖体拝領の行列に於いてまで彼らが踊るものであるかは、私は確認していません。
で、アフリカでなくても、南米あたり行っても、ちょっとそれに似たような、ジャンジャン鳴らしながら来たりね . . するんですよ、御聖体拝領に来るのにね。それは日本人には合わないんでないかなと、或る程度一致した同じような姿勢で来て、こうやって礼しながらやってくのが合ってるんでないかなと、日本は考えるわけです、日本の司教団はね。ところが、その、ここでも、英語のミサに南米の人たちが半分以上与っているわけですよ。その人たちに「日本語のミサも覚えた方がいいよ。ただ英語だけでなしにね」と言うとね、「いや、日本のミサはお葬式のミサみたいに、みんなただこうやってます」と、「もっと神様の前で賑やかにすべきです」とね、言うんですよ。これは民族の違いでしょうね。
彼らは「固定的」に見る
ソットコルノラ神父の口振りとこの「小説」の中の高位聖職者の口振りが非常に似ていることに注目して下さい。
「ちょっと違う文化」
「それがアフリカ人の習慣」
「これは民族の違い」
こういうのが彼らの口振りなのです。つまり、前回の話じゃないけれど、彼らは人の傾向というものを一種「固定的」に見るのです。「アフリカにはアフリカ的な文化があり、日本には日本的な文化がある」というふうに。
もちろん、国民・民族というものをマスで見れば、そういうことになります。しかし、そういう見方が全てではないということです。何故なら──そういう見方をすると、第一に、既にある各国民・各民族の文化なり習慣なりを参照することになりますから、その時点で必然的に「世俗化」の恐れが出て来ることになります(参照)。そして第二に、「人間」というものは、本当言えば、それなりに「順応性」もあり、「固定的」ではない「流動的」「可塑的」な部分もあるものなのですが、そういう見方をする人たちに於いては、そういうことを簡単に捨象して澄まし顔なのです。
特に、それが神が人類に(あれこれの国民・民族にではなく)与え給うた “内なる自然” 、普遍的な “心身相関の感受性” に矛盾していない場合には、人々は自分たちの元々の文化や習慣にないものであっても、そう苦労することなく受け入れ、順応するものです。
だから、昔の教会では、たとえ成人受洗の者であっても、跪きという基本的に「身を低くする姿勢」であるものを一つの「謙遜」の表現として何の違和感もなく受け入れることができていた筈です。それを「生きる」ことができていた筈です。いわゆる「体で生きる」ことができていた筈です。それは、単に「慣れた」ばかりでなく、その姿勢の内には特定の「民族性」に限定されない「普遍性」が蔵されているからです。
第二バチカン公会議後の「改革」は、以上のようなことを「慎重」で「賢明」な「配慮」の対象としましたか?
ただほとんど踊り・踊らされただけではありませんか?
軽薄に「ええじゃないか」と。
彼らは「自家強調」する
ちょっと妙な日本語でしょうか。
自家強調? なにそれ。
つまり、
彼らは公会議後のインカルチュレーションの正当性を同じ
公会議後のインカルチュレーションの事例で印象強化する
ということです。
こういうような口振りで↓
「 |
見なさい、アフリカの御ミサなんかこうですよ、 南米の御ミサなんかこうですよ」 |
そして、私の錯覚でなければ、
彼らはそのように言うことで、
「 |
だから、日本のインカルチュレーションなんて大人しい もんでしょ。問題とするに足りないでしょ」 |
とでも言いたいかのようです。
注)いや、インカルチュレーションというものを心から「よいもの」と思い、疑うことなど夢にも思っていない司祭方に於いてはそんな “つもり” は決してないのだということは、私にも分かりますが。
そして、信者は信者でボンヤリしたもので、
そのように言われると、
確かにそのような気がして来たりするものです。
けれど、こういうのは「自家強調」とでも
言ってみたくなるようなものです。
つまり. . . もう言いましたよね。
しかし本当言えば、
アフリカや南米の例は参考にならないのです。
「インカルチュレーション」というものを
深いところから見直そうとする時。
この話はまた後で広げます。