2015.08.13

小説「インカルチュレーション」

その高位聖職者は語り続けた。

「それで、色んな点で、第二バチカン公会議の決定で・・・だいたい、昔はね、ラテン語だけでミサをやってたんですよ。各国語を使っていなかったんです。それを第二バチカン公会議で全世界の司教が集まってね、そういうことでは駄目だ、信者たちにミサの意味がよく分かるようにして、一致して一緒にお祈りできるような精神をね、ミサで持たなければならない。そして、その『共同体と一致して』っちゅうのは非常に大切なんだってことを、第二バチカン公会議の司教たち全員が異口同音にしゃべってね、で、ローマが決めたことに単に『はい、右へならえ』って言ってはいけないんだと、みんなの一致の、ほんと心からの一致の姿勢っていうのをやるために、地方の声も聞きながら典礼を改革してくださいと。で、典礼改革委員会っていうのが出来て・・・60年代ですがね。で、その時に、各国語にする、そして、その地方に合わない習慣やらね、非常に怪訝なものはやめるとね、そういうようなことが決議された。」

私は思った、「この人は、かつてカトリック教会の慣習の中に日本の未信者にとって『非常に怪訝なもの』が存在したかのように、それが確定的なことであるかのように言う」と。と云うのは、私自身かつて「未信者」であったが、その時も、カトリック教会の過去の慣習の中に「非常に怪訝なもの」は何も見なかったからである。その中に何を見たとしても、私はそれを「宗教的所作」として見た。「宗教的意味を含んだ宗教的所作」である。そして私は、自分がその「意味」についてまだよく知らないということを自覚していた。そしてまた、「宗教」の世界は「日常」の世界と同じではない、ということも、私はごく普通のことのように思っていた。

彼の話は続いた。

「だから、地方々々で違ってってるということも起きるわけです。で、色んなことがあって、『日本では礼をする』って言ったら、それはローマは承認したし、これからも承認するだろうとローマで言ってますね。そしたら、アジア諸国で日本の真似をしてみんな『礼をする』となってっちゃったんですよ。日本が一番最初に『礼をする』ってことを始めた国ですね。で、それまではどうだったかというと、全部ひざまずいたんです。で、『ひざまずく』っていうのは二つの方法があるんですよ。一つは片側の足だけ膝を曲げるね。それから、両方とも膝を曲げるね。そして、昔の外国の教会の仕方は、片膝を曲げて、祭壇に礼拝して、入る時もそうしなければならなかった。おみどう訪問する時も全部そうしなければならなかった。御聖体の前でもそうしなければならなかったんですよ。今でもそうですね、ある意味で、西欧でね。

そこにある論理
「日本の未信者の目には “異様” なものに映るので、福音宣教の邪魔になる」

しかし、日本ではおみどうに入るのには、それはちょっと、あの、ほかの人が見ると、ちょっと異様に思うよと、だから、深い礼でいいんでないですかと、ローマとも話したりしてね。そういうふうになってったんです。だから、『ひざまずく』という言葉がね、あの、二つの考え方・・・ちょっと、分けなきゃだめです。その、十字架とか祭壇に向かっての礼拝行為として、片膝をついて行くというのは今でも習慣です、ヨーロッパでね。そのほかに、御聖体を前に置いて両膝をついてね、こうやって礼したりね、時には、もう、地べたに伏せることもあるんですよ、人によって。で、それは向こうでも儀式の時にはね、目障りだしね、それから、あの、そういうことを、あの、なんちゅうの、この、おおやけの、みんなで共同のお祈りをしている最中はしないようにとね、いうふうになって来たんですよね。で、それは何処の国でもそうなんです。だから、この、『ひざまずいて御聖体を拝領することを希望します』と言う時に、あの、ちょっと疑いを持つわけよ。外国の場合の『ひざまずく』っちゅうのはね、御聖体の前で片膝ちょっとやってね、そしてこう受けるんですよ。日本ではその代わりに礼をすると言ったんです。で、今、外国でもね、もう礼をする方が多くなって来たんですよ。して、その方がかえってね、あの、ちょこっと膝を曲げるよりもいいというね・・・尊敬の念でね・・・そういう風潮が出て来てるんですよ、あの、外国でも。そのような時代になって来てる。だから、今、両膝をついてるという国はたぶんないと思います、ほとんどないと思います。ただね、あの、地方とか国で、あの、そういう習慣のある教会もあるんです、習慣のある国もあるんです。それは何故かっていうと、昔は、あの、お聞きになったと思うけども、昔は『跪き台』っていうのがあってね、ざーーっと全員ひざまずいたんですよ。そして、それの流れで、こっちから司祭が歩いてね、ずーっと授けてって、ここ半分終わったら、次のここになる。ここ全員さがって、次の人がここにひざまずくっていうふうにやったんです。で、公会議後、新しく建てる教会の場合、外国で、昔の教会でそういうのが残っている教会もあるんです、古い、あの、石造りで色んなもんでやるからね、そういう形式が残ってる教会もあるんですけど、その後建てる教会ほとんどね、それはあんまりいいことないと、尊敬、御聖体に対する尊敬はいいんだけど、近づき難く畏れ多いものだとね、敬遠してるような感じもあるんでないかと、ただ拝むためのね。しかし、もっと私達に近づいて来たんでないかと、イエス様がね。食べ物って言ったらおかしいけど、一応食べ物のようになってね、私達と一致したいと。それだのに、いや、あなたは立派な人だ、私は近づくのも、あの、畏れ多いですとね、こういう雰囲気の教会を作ってくことはいいだろうかっちゅう反省もあって、外国でもね、ほとんど公会議後建てる教会はね、そういうものをやらないような教会になってったわけなんです。あの、敷居みたいのね。そして、あの、そういうものがある教会も半分以上、その、壊しちゃったんですよ。そしてどうなるかというと、行列のようにして行くようなったんですね。で、それが、あの、長い歴史の中で、日本で司教団は考えたわけです、日本の教会はどうしたらいいだろうかと。

そこにある論理
「日本の未信者の目には “異常” なものに映るので、福音宣教の邪魔になる」

で、あの、日本の固有の文化から言えば、立つのがいいだろうと。ひざまずくっていうのは、なんか、向こうの習慣でね、日本の一般人にとっては、あの、なんて言うんですか、あの、異常な感じを与えるでしょうと。一般人だよ、信者でなくね。天皇陛下の前に行ってもね、ひざまずかないでしょ? 深ぁい最敬礼をして、あの、進むでしょ? で、そのような習慣を持つ日本では、あの、深い礼をして、そして、あの、受けることにしましょうと、いう決定をしたんですよ。・・・そして、礼をするということだって、決して失礼ということはないからね。」

彼は、「異様」「異常」という、ちょっと極端とも思える言葉を使った。神父様方の中にも「それはちょっと極端な言い方だと思う。私なら、『異質』とか、『違和感』とか、或いは『馴染みのない』とかいった程度の言葉を使うだろう」と思う人が居るだろう。

しかしながら、である、それらの言葉をそれらの言葉に入れ替えさえすれば、彼が言った上のような言い方、その基本線は、「インカルチュレーション」を愛するすべての神父様方のものなのである。

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