これは最近書いたもので、ですます調。
遮眼革
あなたは馬具の一つである「遮眼革(Blinkers)」というものをご存知でしょうか。
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上左の写真で言えば、馬の目のところの半カップ状の部分、上右の写真で言えば、革製らしき四角い部分のことです。
競馬馬にしばしばそれを見ることがあると思います。が、上右の写真に見るように、別に競馬馬に限らぬようです。
英語では──
blinker
3 ((通例~s))((主に英))(馬の)遮眼帯(((米))blinders, blinds)
be in blinkers
((比喩))周囲の事情がわからないでいる.
装着の目的は──
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つまりそれは、馬を《視野狭窄》させるためのものです。
走れー、走れー、前しか見るなー |
確かに「前進」することは良いことです。しかし、それが「うしろを振り返らないこと」と強固に共にあるならば、正常な、健康な判断プロセスが期待できますか? つまり、私たちは「反省することなしに前進する」ことができますか?
カトリック文書にはしっちゅうこの言葉が出てきます──
「賢明」。(或いは、「賢明な配慮」とか)
しかし、不肖私が「跪いて舌で受ける御聖体拝領」について振り返ったあれらの事ども(前回参照)を、神父様方が神父様方として(別に私の記事に依らんでも)少しも振り返るところがないなら、そこにどんな「賢明」がありますか? その時、その言葉「賢明」は、本当にただただ「絵に描いた餅」ではないですか?
私が思うに、「跪いて舌で受ける御聖体拝領」のことを簡単に「過去の習慣」と言っちゃうことが、神父様方にとって「遮眼革」として働いています。
この馬は軽く考えています。