注)内容はほとんど既出
upside down cross
共同体で語り合っていた、そこから共同体のテキストを作らなければならない。共同体の記憶を確保するために、決まった言葉にする。イエスの生涯について。教えについて。特に死と復活。それをある人はこんな話し方をする。別の人はこんな話し方をする。いろいろあったでしょうが、それをまとめてきちんとした決まった言葉でまとめる。そして集まった人が同じ言葉でキリストの、イエスの思い出を語り、一緒に祈る。一緒に唱える、一緒に聴く。日常性の中からやがて4つの福音書が編集されていくことになります。
福音書の成立は「日常性」から。
人間の人間に依る宗教的な「編集会議」の如きものから。
霊感によって書かれたのではなく。
だからこれを変えようとしたヴァチカン第2公会議、典礼憲章、その前後の典礼運動、そしてその後の又いろんな刷新の動き。これはものすごいことだと思います。ミサっていうのはカトリックのトレードマークなんですよ。そのトレードマークの基本的な考え方を変えるっていうのは本当に大変なことで、やっぱりこれね、聖霊が働いてくださらなければ不可能なことだと思います。
第二バチカン公会議こそが聖霊に息吹かれたもの。
(福音書よりも?)
その謂う所の「刷新」の中には確実に「跪いて舌で受ける御聖体拝領」から「立って手で受ける聖体拝領」への転換の事も含まれている。それは天主の御ミサの中で、それにとって、決して小さな事ではない。国井神父様はこの転換も「聖霊が働いてくださらなければ不可能だったことだ」と言うのか。
しかし、その転換の経緯は今まで見て来たようなものだ。違反、不従順、ゴリ押し、詐欺的文章。
聖霊は教会の古い体質を変えるために、必要な「刷新」を行なうために、一つの「力業」を行なった、だから若干の乱暴さや disorder も仕方なかったと云うのか。
聖霊は小泉純一郎のように「ぶっ壊す」のか。
国井神父様、あなたの物の見方は見事に「ひっくり返って」いる。「逆さま upside down」だ。「悪霊の働き」に「聖霊の働き」を見、「聖霊の作品」を「弟子たちの努力作品」に貶めている。