2015.01.10

「原則」と言わず「決まり」と言う司祭

 以前取り上げた日本司教協議会の『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』(2014年11月30日発効)の効果(?)がもう一つ現われた。
 長崎大司教区・西町教会の主任司祭、エウゲニウス・ジエブーラ神父が、同教会の公式ブログで「手で受ける聖体拝領」を「決まり」として打ち出したのである。「原則」ではなく。

 確かに、「原則」も「決まり」の一つではあるかも知れない。しかし、通常の日本語感覚を持った日本人にとっては(通常の日本語感覚を持っていない日本人も居るわけだが)「〜を原則とします」という言い方と「〜は決まりです」という言い方は同じではない。

 「でも、彼は外国人だろう?」──否、そのことを考えに入れる必要はあまりないだろうと思う。何故なら、彼の日本語の文章にはおそらく日本人が関わっているだろうから。そして何れにせよ、その記事が「司祭」の名によって公表されていることは事実である。

ちなみに、彼は神言修道会の司祭であって、神言修道会の日本管区長はと云えば、あの、「あがないの秘跡の文字通りの実行は避けるべき」と主張した市瀬英昭神父である。

 ジエブーラ神父のその文章を掲載しているのは西町教会公式ブログの2014年11月24日の記事である。ここに全文を引用したいところだが、部分引用のみとする。全体と詳細は西町教会のブログでお読み頂きたい。

 冒頭 (一個目の「決まり」という言葉)下線は管理人

2014年9月4日に日本カトリック司教協議会が、「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」という教令を11月30日より発効するように公布しました。この指針にもとづき、西町教会では通常の御ミサの中で御聖体の受け方について、以下の決まりを守るようにお願い致します。

 そしてこの後に「手による聖体拝領」についての今更ながらの懇切丁寧な説明が4項目続く。このような今更ながらの懇切丁寧さは単なる「親切さ」ではなく「原則の強化」である . . . と言いたいところだが、ジエブーラ神父の場合はそれ以上のものである。彼は「原則」と言わず「決まり」と言うのだから。(彼の日本語の文章をお世話している日本人はここを見直すべきである)

 4番目の説明の中に次のような言い方がある。
(私は少し笑いたくなった)

片手の指で御聖体をうやうやしく取り上げ

 彼もまた「作文する者」なのである。何故なら、一体全体、「掌[てのひら]に乗せられた御聖体をもう片方の手の指で取り上げる」というだけの動作に、どんな「うやうやしさ」が表現されたり、また表現されなかったりすると言うのか。
 もちろん、やり方によって多少の違いを出すことはできるだろうが、しかしそれでも、そこに大きな違いはない筈である。

 「うやうやしく」という副詞はどんな文にも挿入することができる。そして、それを挿入しさえすれば、一見、見栄えのいい文が出来上がる。しかし私は言う──「空虚な作文はやめよ」

[修正]気づけば、それは彼が発明した言い方なのではなく、今回の新指針にもあり、1970年の「聖体を手に授けるための手引き」にもある言い方なのだった。しかし、事は同じだ。

 4項目から成る説明の後に、いと敬虔なる注意事項が4つ列挙される。

 「いと敬虔なる」と、ちょっと皮肉っぽく言いたくなったのは、注意1にこうあるからである。

注意1:司祭が御聖体を授けている時(司祭が御聖体を手のひらに置く時)に、手も頭も下げないようにご注意ください。(御聖体が滑って落ちないために。)

 しかし、これによってジエブーラ神父の御聖体に対する敬意が保証されるわけではない。ホスチアそのものが床に落ちないようにしていればそれで十分というわけではないからである。

 次に、注意3が注目される。

注意3:この度の司教団の教令では、「一同が同じ姿勢で拝領することによって、ミサに集まった会衆の一致のしるしとして表す」と教えられているから、信徒の皆さんには1~4を御自分の身につけるように努力してください。

 「身につけるように」とある。そして、「努力」と。
 ところで、「1〜4」には「舌で受ける拝領」のことは含まれていない原記事。と云うことは、ジエブーラ神父に於いては「跪いて受けること」ばかりでなく「舌で受けること」も、「ミサに集まった会衆の一致のしるし」という観点からはいささか “外れた” ものと看做されているようである。彼はきっと「舌で受ける拝領」に冷淡な人だろう。

 彼が「舌で受ける拝領に冷淡な人」であることは、続く注意4で証明されているようである。

注意4:また、この教令にしたがい、日本の教会では御聖体を立って拝領すること、そして手で受けるか口で受けるかを選ぶことができるが、口で受ける場合、侍者(祭壇奉仕者)は口の下に拝領用の受皿(パテナ)を添える必要があるとなっている。これに付き、西町教会の事情では、すべての御ミサにおいて、この奉仕をする侍者が不足しているために困難な側面があるので、信徒の皆さんの手に御聖体を受けて頂くように薦められます。ただし、病人、体の障害や子どもを抱いている方などは、遠慮なく口で拝領してください。

 ①「拝領者の口の下に受け皿を添える奉仕者を用意するのは時に難しい」という理由で手による聖体拝領を「薦める」のはどこかおかしくないか。少し「簡単過ぎ」ではないか。そのような奉仕者を用意しようと「努力」する姿勢がここには見られない。信徒に「努力する」ことを呼びかけながら。

 ② 他方、彼は「病人、体の障害や子どもを抱いている方など」に対しては「遠慮なく口で拝領してください」と頗るの寛大さを見せている。

 この ① と ② の「コントラスト」が彼の「内心の吐露」である。彼は「なにも健常者が口で拝領することはないのだ」と内心を打ち明けたのである。

 最後の段落 (二個目の「決まり」という言葉)

御聖体を頂く方法について以上の決まりを守ることは、形式的なもののみならず、御聖体の内に秘められているキリストの現存を認める表現となり、神様に対する愛と尊敬する心の表現とならなければなりません。

 まさに「バチカン  スピリット」溢るる、
 それに特有の “ものの言い方” である。

 私達はこの文を読んで
 具合悪くならなければ嘘である。

 この種の “物言い” については、
 「文章詐欺 = Reality詐欺」
 という題名で、後日書くだろう。

日本の神父様方は「盆栽」が趣味?

 これはジエブーラ神父に限らず、日本の神父様方の事だが──

 以前書いたように、『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』は一応聖座の方針に従っているけれども、それに添付された “国内向け” と思われる文書「『指針』について」では、日本の司教様方は、物事を再び自分たちの方へ引き戻したのである。
(若干であれ)

 木に喩えれば、再び自分たちの方に「たわめ」たのである。
 まっすぐにしておけばいいものを。
(盆栽が趣味?)

 そうして、ジエブーラ神父のような司祭のところで、それはもう一段「たわめ」られる。

 日本の神父様方はそんなことばかりしている。

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