激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。
形容詞
以前、「形容詞本舗」と題した、ちょっとフザケタような漫画をアップしたが、否、真面目な話、形容詞の使い方に目をとめることで、その筆者のモノの見方がかなり的確に分かると思う。
“ sacred ”
「イエズスの聖心(Sacred Heart of Jesus)」 という |
この宣言は、上に見る如く、個人と家庭の権利に──即ち「人間の権利」に──そしてここでは「信教の自由の権利」に──「sacred」という形容詞を付している。
この司祭はイエズスの聖心が「Sacred Heart」と呼ばれている時に、人間の権利にも「sacred」を付すのである。
しかも、彼がその形容詞を付しているのは「天主の宗教」に関する権利に留まらず、広く「宗教」に関する権利なのである。
例えばシーク教やジャイナ教に関する(対する)人々の宗教選択と宗教実践の権利も「sacred」なのである。
彼はシーク教やジャイナ教そのもののことを「sacred」と呼んでいるわけではない。しかし、人々がそれらの宗教に連なることを可能とする「信教の自由の権利」を称して「sacred」と言うのである。
彼の「感覚」はカトリック信者としては異常である。
私は「形容詞本舗」のところで言ったように再び言いたい。
神父様方、このように形容詞が乱されると教会はどうなると思いますか? 私達はこのような形容詞の使い方をする者の文章を「公会議文書」として読まされているのです。
“ true ”
宗教者にとってはこの形容詞も極めて大事なものではないか?
この筆者にとって「真の自由を愛する人間」とは、上の下線部のことを意味するらしい。
しかしこれは全くキリスト教的ではない。そもそもキリスト教にとって「真の自由」とは、キリストへの「信仰」と強く結び付いた言葉だからである。(聖ヨハネ 8:31-36)
早い話、宣言筆者はこれ→ |
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(実際に「加入」しているかどうかの話ではない)
「true」についてもう一つ。既出だが、振り返っておきたい。
このように、「真の宗教」と「キリストの唯一の教会」を並列的に書いている。キリストの唯一の教会、すなわちカトリック教会は「真の宗教」であるが、宣言はその他にも「真の宗教」があるかのように言うのである。(真の宗教: 英訳では the true religion )
こんな「いい加減」な言葉遣いをしている文書を、神父様方は教会での勉強会で信徒達に教えるのか?(他の公会議文書も同様)