激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。
仮にもカトリック教会の「宣言」であるものが |
何と云うまやかしの作文だろう。前回、「この宣言はしきりに『真理、真理』と言うが、その『真理』なるものが何を意味しているのかさっぱり判然としない」と書いたが、ここも全く同様である。
言葉というものは現実的な裏付けがなければならない。抽象的な表現に於いても或る程度具体性を感じさせなければならない。しかし、上のこれらの言葉は抽象的な「だけ」である。
「神的な、永遠の、客観的、普遍的な法が、人間生活の最高の規範であることを考える者にとって」
彼は「神的な、永遠の、客観的、普遍的な」と派手に形容詞を並べる。しかし、それらの形容詞が捧げられているところの「神の法」というものをこの者がどう考えているのか、また、それとイコールであるものとして挙げている「人間生活の最高の規範」というものをこの者がどう考えているのか(何を指してそう言っているのか)、判然としない。ひょっとすると彼にとっては、それらは「共通善」と関係する事なのかも知れない。「共通善」と関係する事こそ、彼にとっては「最高(highest)」なのかも知れない(私は本当は疑問に思っていない)。しかし、人間にとっての「生活の最高の規範」は信仰的なものである。
「適当な手段によって(under use of all suitable means)、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を…」
この「信教の自由」というテーマがいかに「地上の人間社会」という限られた範囲に関するものであろうと、仮にもカトリック教会の「宣言」であるものが、「人は皆、真理の探求に於いて、何であれ各自に適当と思われる手段を以ってすればいい」というような言い方をするとは何事か。
そして、「賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を…」。ただの「聞こえのよい言葉」の羅列である。
英訳では、上の初めの文に「however」という副詞が入っている。つまり、前の段落を含めて言えば──「人は各自に適当な手段を以って真理を探究しなければならないが、しかし人間はその尊厳によって教育を受ける権利があるし、また社会的な存在であるから、教育を含め種々の交流の場を通して真理を探求することが望ましい」というニュアンスだろう。
「真理探求の面で互いに協力するため、自分が発見したか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する」
この、非常に... 傲慢に響くことを恐れずに言えば「鈍臭い」言い方は、この人が「真理」というものに対して地上的な感覚しか持っていないことを意味している。宗教的真理というものは「説明」などと云う... もう一度言うが「鈍臭い」方法によって受け渡しできるようなものではない。
それは勿論、或る程度は人間の精神的努力も必要だが、人は最終的には超自然的な恩寵によって確信に至らせられるのである。それが、人間が「宗教的真理」を得る時の "実情" である。
「認識した真理に、個人的な承認をもって堅くそれに同意しなければならない」
英語訳に従えば、少しニュアンスが違って来るようである。
Moreover, as the truth is discovered, it is by a personal assent that men are to adhere to it.
つまり、「その人がその認識した真理に堅く立つべきは、外的拘束力によってではなく、あくまで個人的な承認によってでなければならない」というニュアンスだろう。
彼は本当に外的拘束力が嫌いな人である。そして、実は教会の権威も嫌いである。彼は、「人は強制されてはならない」「自分の良心に忠実にしなければならない」という言い方で、実は「公教会のおきて」さえ有名無実にしたい、そのような勢力の者である。
もう一度。
最終的に、何より優先すべきは、人間各自が自分の良心に従わねばならないという事だ。プロテスタントが発明した、自分の良心に忠実でなければならないというこの方式は、実に素晴らしい。
(管理人訳)
Finally, what must take priority over anything else is that each one will follow his own conscience. This method, invented by Protestants, which consists in obeying one's conscience, is of great excellence.
「4(宗教団体の自由)」については省略する。
「5(家庭における信教の自由)」は後回しにする。