2013.12.18

とがめることなどしない?

 遠藤周作氏の親しい文士仲間に三浦朱門という人が居る。
 彼が遠藤氏の信仰について書いた文章の一節を紹介する。

(…)聖書の神、ことに旧約の神には男性的、というより遊牧民の族長的性格、厳しいリーダー、理性的な保護者という性格がある。近年、フェミニストがなぜキリスト教の神が男性か、といったことを問題にするが、それは聖書で伝えられるユダヤ教、それを母体としたキリスト教の中に、これらの宗教の最初の布教の対象になった人々に、遊牧民的社会観が強かったからである。
 もし農耕民が最初の布教の対象になったとしたら、彼らの伝統的な神である、たとえば日本神道の天照大神的な女性神の形をとったかもしれない。
 いずれにせよ、遠藤の信仰の救いには、母性的な優しさ、慈悲というか、何をしても許してくれる母性愛的なものが感じられる。結局のところ、母親は子どもの失敗をみても、最初から許す気になっている。とがめることなどしない

三浦朱門著「わが友 遠藤周作」(PHP研究所, 1997年) pp. 67-68

* 誤記か誤植ではないか。正しくは「自分の罪への恐怖反省」?

 池長大司教様は、ほぼ、上の下線部分に賛成である。違いますか?

 もしそうだったら──もしあなたがこの三浦氏の言葉に共感するのだったら──すなわち仮定ですが──あなたにとっては、例えば、ご自分がかつて主の祭壇の上にサンダルを置いたこと(参照)も大したことではありません。何故なら、神は「子どもの失敗をみても、最初から許す気になっている。とがめることなどしない」のだから。

(注: 私は「サンダル」の件それ自体をいつまでもしつこく責めたいのではありません。そうではなく、その一つの事は池長大司教様にとって「大いなる顧み」の、「深い顧み」のキッカケに必ずなると思うのです。そのお気持ちさえあれば。目をそむけていたのでは駄目だけれど。参照: いったい、どれほどの変化が?

 それにしても、三浦朱門氏は何ということを言うのだろう。

 そのフェミニストの質問をもう一段階遡らせば、「なぜ旧約聖書の神は男性か」ということになるだろう。それについては三浦氏は何と言うのか。「族長(父長)社会に受け入れられる神のイメージはどうしても男性でなければならなかった」とでも言うのか。つまり、全て一切を人間の「社会」やら「文化」やらに還元するのか。

 彼のようなインテリにとっては「聖書」は十分に「啓示の書」ではないのである。その多くが「人間社会」から出たものと映るのである。

 しかし、聖三位の第一位格が「男性的」であることは明らかである。何故なら、これがあるからである。

599 イエスの非業の死は、さまざまな事情が不幸に絡み合った偶然の結果ではありません。それは神の計画の神秘に属します。聖霊降臨の日、聖ペトロが初めての説教で、「神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で」(使徒言行録2・23)このかたを彼らに引き渡されたと、エルサレムのユダヤ人に説明しているとおりです。ただし聖書のこの表現は、イエスを引き渡した者たちは神によって前もって定められたことをただ筋書どおりに実行したにすぎない、といっているのではありません。

(…)

601 「正しいしもべ」の死刑による神の救いの計画は、以前から聖書の中で、普遍的あがないの神秘、すなわち、人間を罪の奴隷の状態から解放するあがないの神秘として告げられていました。聖パウロは、自分が「受けた」という信仰宣言の中で、「キリストは、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」(一コリント 15・3)と述べています。イエスのあがないの死は、とくに、イザヤ書にある苦しむしもべの預言を実現しました。イエスご自身、自らの生と死の意味を、この苦しむしもべに照らして述べておられます。復活の後イエスは、マオの弟子たちに、ついで使徒たちに、このような聖書の説明をなさいました。

『カトリック教会のカテキズム』

 つまり、御子に対しそのような残酷な*「計画」を組むのは「母親」ではあり得ないからである。

* もちろん残酷と云えば残酷である。私はここを誤魔化すつもりはない。しかし、その「計画」は人類に対しては "憐れみ" であった。

 つまり、御子をそのような過酷な運命の方に "促す" のは「母親」ではあり得ないからである。

 これが解答であり、これで終わりである。

 "促す" と書いたのは、「御父はそれを御子に促し、御子は "出来得るならそれを避けたい" という御自分の望みとの間で葛藤し、しかし最終的には御父の御旨を受け入れられた」という聖書のストーリーをそのまま信じるからである。しかし、三浦氏のようなインテリは、おそらく、そのようなものをそのままには信じていない。そのようなものをそのまま信じるのは、彼らにとっては「素朴過ぎる」ということなのだろう。しかし、それは聖書が言い、全ての*公教要理も言うところのものである。だから、私の疑問はこうである──「三浦氏はカトリック信者なのか?」

* ここで「全ての」と付ける必要を感じるのは、全ての公教要理が同一の内容を持っているとは思わないからだ。つまり、現在の公教要理(カトリック教会のカテキズム)には問題があると思う。しかし、上のストーリーに関しては現在の公教要理も問題ないのであって、三浦氏は全ての公教要理の最大公約数的なところを裏切っている。

もし農耕民が最初の布教の対象になったとしたら、彼らの伝統的な神である、たとえば日本神道の天照大神的な女性神の形をとったかもしれない。

 つまり、三浦氏はこう言っているのである。

“

もし救い主が日本のような農耕社会に生まれていたら、彼は「魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方」と言わず、「永遠の刑罰」と言わず、喩え話で「外の闇に投げ出せ」と言わなかったかも知れない

”

 ご自分が結局のところそのような可能性について言っているものであることを、彼は、言われて初めて気づくのかも知れない。
 或いは、もっと悪いことに、「そうだ、私はその可能性はあると考える」と言うのかも知れない。
 作家の頭なんて靄[もや]である。

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