2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

糺明と就寝

糺明の必要

昔し何処かの神殿の破風に「己を識れ」と書付けてあったとか。実に己を識るのは、罪を避け徳を修め、真人間となるのに必要欠くべからざるものである。悲しい哉、世には萬巻の書に眼を曝[さら]す人はあっても、自分の心中を読んで見る人は少い。わざわざ広い世界を漫遊する閑人は多いが、狭い我身の漫遊を試みる人は格別ない。為に自分には如何なる不足・欠点があるか、毎日如何なる罪に落ちて居るか、それすら悟り得ない位。然らば如何にして己を識るかと云うに、たゞ毎晩注意して我と我心を糺明して見ればそれで可[よ]いのである。

糺明をすると謙遜になる。謙遜の徳は己が弱点を認めて自ら己を卑めるに在る。自分では何[なん]にも出来ない、何にも知らない、何にも持たない、少しでも出来る所、知れる所、持てる所があるのは、皆主の有難い賜だと承知して、我身を卑めるのが謙遜である。何人[だれ]にしても自分の心を隈なく糺明して見たらば、不足でも過失[あやまち]でも数知れず転がって居るのに気が付いて、びっくりせずには居られまい。懶惰[らんだ]や怠慢や、祈祷の時に心を散したとか、肉慾に曳かされたとか、利己心に負けたとか、我儘をやり、短気を出し、無暗に喜んだり悲んだりした、空しく時を費した、無駄口を利いた、人誹[ひとそしり]をした、空想に耽ったと云う様に、毎日毎日沢山の過失に陥って居ることが分って来る。そればかりか、邪慾や悪い傾やが心に蟠[わだかま]って居て、始終自分を罪に引張って居るのを見ては、覚えず顔を赤[あか]めて、己を蔑視[さげす]む。聖パウロの如く「あゝ我は不幸の人なる哉、誰[たれ]か此の死の肉体より我を救うべきぞ」(ローマ書七ノ二四)と叫んで、謙遜する様になって来るのである。

自分は世界第一の罪人だ、人中に交るにも堪えない者だと、聖人等[たち]は始終言って居られた。余り大袈裟な申分の様に思われるが、実は決して然うではない。彼等は善く己を識り抜いて居た。自分が大した過失に陥らなかったのは、一に主の御恵に由るのだ。自分の力のみに托[まか]されたら、それこそどんな恐ろしい罪の中に倒込んだか知れぬ。異教者でも自分程に聖寵を忝[かたじけの]うしたら如何なる聖人にもなれるだろうか。それに自分は斯[か]ほどの聖寵を浴せられながら、やっと是位である、と思って謙遜されたのである。斯んな塩梅に十分己を識ってからと云うものは、謙遜ならざらんと欲するも得られぬのである。

毎日規則正しく糺明して居ると、罪を告白する時に頗る助となる。告白して罪の赦を蒙るが為には、其罪を洩れなく、真実に告白しなければならぬ。其為には己を有りの儘に認める必要がある。然しながら平生糺明なんかした事もない人が、一ヶ月も二ヶ月も、否、一ヶ年のも間に犯した罪を思い出すと云うは容易なものではない。毎晩糺明する人と、否る人とは告白の仕方が全く違って、光と暗[やみ]、夜と昼、秩序と混乱と謂っても可[よ]い位であるのは、実に是が為である。

容易に罪を避け、過失を改めることも出来る。すべて我等が過失に陥り、罪を犯すのは邪慾に引ずられるからだ。敵に不意撃を喰わされるからだ。心が迷って居るからだ。然るに平生我身の上に眼を注いで、小さな過失までも糺明して居る人には、其んな気遣いは一つもない。

先ず邪欲に引ずられる憂がない。邪慾と云うものは、小さな中[うち]に抜き取って捨てると何でもないが、それを打遣[うっちゃ]って置くものだから、次第に増長して、根を張り、枝を伸し、葉を繁らして、終にはどうすることも出来なくなる、思わず識らず之に巻き込まれるに至るものである。然るに毎晩怠らずに糺明をして、邪慾の萌[きざし]が少しでも顕れたと見るや、直ちに之を引き抜いて置くと、決して手に余る程の悪い習慣となる気遣がない。

次に敵から不意打を喰わされる恐もない。毎晩糺明する人は決して油断をしない。何時も自分の不足を見て居る。弱点を覚って居る。敵が未だ遠方に居る中から用心をして、避くべきは避け、改むべきは改め、備うべきは備えて置くから、不意の襲撃に面喰って、おめおめと胄を脱ぐような憂は決してないものである。

終に心の迷う気遣もない。平生から心の中を隈なく調べて居るので、何処の隅にでも悪魔の隠場がない。如何に巧みな策略を運[めぐ]らして来ても、如何ほど忍びやかに入り込もうとしても、直様看破ることが出来る。どんな事があっても、悪魔に一杯喰わされる心配はないのである。

糺明の種類

そもそも糺明には、一般糺明と特別糺明との二種あり、二者いずれも怠りてならない。

〔一般糺明〕とは一日中の思・言・行・怠を吟味することである。商人は毎晩店を閉じると、早速算盤を執って、其日の損益を勘定する。同じく基督信者たる者も、夕の祈祷の後、心静かに我身を反省[かえり]みなければならぬ。今日は何を思い、何を為し、何を話した、何か為[し]てならぬことを為た覚は無いか、為[す]べき筈の事を怠りはしなかったかと調べて、過失が見付かったら、誠意[まごころ]から痛悔して主に赦を願い、明日は決して此過失を反復さないと固く約束し、その約束を守る為の聖寵を願って置く。若し大罪でも犯して居た時は、其儘ではどうしても休まれない。聖母の御伝達[おとりつぎ]を求めて完全なる痛悔を起し、一日も早く其罪を告白すると決心せねばならぬ。要するに一般糺明は霊魂上の損益の勘定である。初は多少面倒な様でも、慣れたら何でもない。時間も二三分間あれば沢山だ。非常に疲れた時などは、夕の祈祷はたゞ主祷文・天使祝詞の二三遍と使徒信経・告白の祈祷位に止[とゞ]めても、其日の罪を糺明して、痛悔を起し、御赦を求めることだけは怠りてならぬ。

〔特別糺明〕一般糺明は己が不足を認めるのに極めて肝要である。然し是ばかりでは、その認めた不足を改めることは難しい。頭髪[かみげ]の如く弱いものでも、幾百本と合せて大綱となしたら、容易に断[き]れるものではない。我等の不足もそんなもので、長くから幾個[いくつ]となく心に搦[から]みついて居るのだから、それを、一般糺明によって一度に打破って了[しま]うと云うは、なかなか以て覚束ない。是に於て特別糺明の必要が起るのである。

特別糺明とは読んで字の如く、或る一つの不足に就て特別に糺明することである。譬えば敵の一地点を目掛け、全力を傾けて突撃する様なもので、根気強くその突撃を続けさえすれば、成功は疑いない。昔シリアとイスラエルと戦った時、シリア側では、「たゞ敵王アカブを狙え、他を顧みるな」と命じ、全軍斉[ひと]しくイスラエル王を目指して進み戦い、終に大勝利を得た事がある。特別糺明を以て我身の不足と戦うのも全くこの筆法に外ならぬ。即ち数々の不足の中でも、一番人目に立ちやすく、主の御旨にも適わず、徳の歩みの障碍ともなる様な主要不足を狙って、側目も振らずに攻めかけるのだ。大将さえ倒したら、余[のこ]んの雑兵[ぞうひょう]なんかは、謂ゆる鎧の袖に触れた許りでも、ばたばたと突倒せる、造作は無い。然し一つの不足でも、一度にはなかなか破り難い。成るべく幾個にも区分けして、之を東から西から南から北から、根気強く、ぢりぢりと攻撃した方が萬全の策である。一例を挙げると、

人を愛するの務めに欠ける所を改めるとして、先ず人に就て悪く言わないと決心する。一週間も二週間も気永に戦った結果、思い通りに成功したとする。其次には、談話中に人に反対したり、言争いをしたり、人の言葉を遮ったりしないと決心する。又其の次には、成るべく人の事を善く言う様にする。又其次には人と機嫌よく交わる様に努力する。終には人を見ては主を見るが如くして、誠意[まごころ]から之を愛すると決心し、極力その決心の実行を務める。

祈祷を善く誦える習慣を養う、と云うのを目的とするならば、1、祈祷の時は主に見られて居る、聴かれて居ると思い、身を慎み、容[かたち]を恭しくして誦える。2、成るべく徐々[そろそろ]、主に御話をするのだと思いつゝ誦える。3、祈祷の意味を考えて、それぞれに適当な感情を起しつゝ誦えると云う様に務める。

巧く題目を区分けしたばかりでは足りない。始終之に注意して忘れない様にせねばならぬ。即ち朝、目が醒めると直ぐ糺明の題目を思い出す。今日は恭しく跪いて祈祷を申上げねばならぬとか、今日は祈祷の意味を考え、それぞれに感情を起して誦えねばならぬとか決心して、主の御助を求めて置く。日の中にも成るべく朝の決心を思い出す。夕方、一般糺明の後に、それに就て細かに調べて見る。決心通りに実行して居た時は、心から主に感謝し、明日の為にも御助を求める。不幸にして過[あやま]つ所があったならば、何故過ったか、注意しなかった為か、等閑[なおざり]にした為か、朝の決心が不十分であった為か等と、その過った原因までも取糺[とりたゞ]した上で、痛悔して御赦を願う。明日は斯る過失を再びすまじと固く決心する。

尚忘れてならないのは、些[すこし]の申分もないほど立派に出来た法律・規則でも、之に違背[そむ]いた時、相当の制裁を加えなくては、それこそ死文・死法で、何の効[かい]もあるものではない。だから過失の大小・軽重に応じて、跪いて主祷文を誦えるとか、過った数だけ胸を打つとか、或は過失一つに罰金を幾何[いくら]と定めて置いて、その金は貧困者に施すとか云う様にするが可い。きっと著しい効果を見ることが出来る。少し面倒ではあるが、小さなノートに、毎日過失の数を記し、翌日になると前日のと比較[くら]べ、一週の終には前週の成績と比べて見ることにし、終に告白の折にはそれを打ち開けて「私は斯んな決心をして居ましたが、成績は斯うでした。それはこの理由に基くと思います。今度は斯んな決心をして、それには斯んな方法を用いる考えです」と簡単に申添えることにすると、一度は必ず其効が顕れ、神にも人にも鐘愛[しょうあい]される程の立派な人物となることが出来るであろう。

就寝

夕の祈祷を終り、糺明も型の如く済ましたら、無益な雑談に夜を更[ふか]さないで、早く床に就くことにする。遅く寝めば従って朝も早く目が醒めない。身体にも霊魂にも少からぬ害を招くものだと云うことは、既に申上げた通りである。

床に就くには先ず聖水を撒いて、悪魔を逐[お]い、謹んで衣服を脱ぎ、跪いて十字架の印をなし、イエズス、マリアの聖名を呼び、それから朝起きた時の如く、天使祝詞を三回誦え、一回毎に「あゝマリアよ、云々」を加えて、汚れなき童貞聖マリアの御伝達によって、不浄の罪に陥らない様に祈る。終に守護の天使に身を托せて、心静かに眠に入る。

床に就くと共に頭に浮べねばならぬのは死の念[おもい]である。我国の昔の信者等は「蓙[ござ]は御棺[おかん]、枕は十字架[クルス]、其身は死骸、衣物[きもの]は蓋にして、霊魂は天主に献げ奉る」と言って寝むのであったとか。実に床を棺と見れば、夜具は死骸を包む布片[ぬのぎれ]で、其床に仰臥[あおむけ]となって寝んでからと云うものは、目は閉じ、耳は塞がり、五体は動かずなり、全く棺に収められた死骸その儘である。眠ってる間は、親にも子にも離れたようになり、貨財[かねたから]も名誉も、快楽[たのしみ]も苦痛[くるしみ]も一切忘れて了う。死骸と変った所がない。夜の暗[やみ]は墓穴の暗黒[くらき]を想起させ、朝目の醒めるまで然うして居るのは、生ける人と死せる人とを裁かん為に、主がお降りになる暁まで、墓の中に眠って居るのに左も似たりぢゃないか。

されば眠に入る前に、又殊に眠れない夜などには、死を想い出して、私は今死ぬとすればどんな宣告を受けるだろう。唯今でも死んで地獄に罰される霊魂が居るかも知れぬ。今時分、苦しい病に悩されて、ウンウン呻って居る人もあろう、等と考えて見給え。悪しき望が起っても、良からぬ妄想が浮み出ても、容易にそれを遠けることが出来よう。終に心を煉獄に馳せて、煉獄の霊魂は、今どんなに苦しんで居るだろうかと思い、彼等の為に天使祝詞の一回も誦えて上げると、それで彼等も多少の慰安[なぐさめ]を得て、どんなに喜んで感謝するであろうか。

《ページ移動のためのリンクはにあります》
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ