Sister Lucia returned for the first time to Fatima on a brief pilgrimage in May 1946. In this photo she wears the habit of a Dorothean sister — she did not join the Carmelites until 1948.
With her here in Fatima is Father John de Marchi — the author of this book — together with two of Sister Lucia’s nieces.
The True Story of Fatima by John de Marchi, I.M.C. (
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ジョン・ドゥ・マルキ神父様(Pe. João de Marchi, Fr. John De Marchi,
I.M.C.)はファチマについての本を何冊か著わしておられます。
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神父様はカメラを向けられているのを意識し(“自意識” ということではなく)、子供をかまい、笑顔を見せています。しかし、シスター・ルチアと云えば「心ここに在らず」といった感じです。
私は、ドロテア会時代のシスター・ルチアの表情を見ていると、なんだか可哀想になります。子供心に地獄を見せられた上、第三の秘密やロシアの奉献の問題も運ばねばなりませんでした。また、子供時代から修道院生活に至るまで、常に人々のいろいろな反応を受けて来ました。それらの経験の集合がどんなに重い荷であったかを考えれば、上のような表情こそがリアリティのあるものに思えます。
今、
みこころネットさんの記事(文字化けしたら Shift JIS)で確認したのですが、シスター・ルチアが聖母から初めてロシアの奉献の必要のことを聞いたのは1917年7月のことですが、いよいよその実行段階に入ったことを知らされたのはそれから12年後の1929年6月13日のことだそうです。
そしてその後、初めてそれらしいことが行なわれるのを見るためにさえ、彼女は13年間も待たなければなりませんでした。すなわち1942年におけるピオ十二世教皇様による奉献。しかしそれは「世界の奉献」でした。
そして上の写真はおそらく1946年のものです。つまりそれは、聖母の御要求が果たされない「17年間」を行きてきたシスター・ルチアの顔です。
人は暗い顔が好きではありません。しかし、私はこれが本当なのではないかと思います。預言者の心の内の現実として。(洗者聖ヨハネも、旧約の預言者たちの幾らかも、“厳しい” 顔を、或いは人の目に「不機嫌」とも映るような顔を持っていたことでしょう。)
この人はファチマ預言の重荷を背負っている人ではありませんでした。
時には仲間のシスター達と笑いさざめき合うような人でした。
基本的に「年がら年中明るい」人でした。
「シスター・ルチアがこんなに明るい顔をしているのは『ロシアの奉献は1984年に為された』と思っているからでしょう」なんていう言い訳は成り立ちません。何故なら、上の写真は1980年のものだからです(画像はリンクされています)。この事は以前も書きました。『
替え玉』である 3
口では何と言おうと、この人にとって「ロシアの奉献」が重大懸案であったことはありません。かつて一度も。
彼女は地獄を見せられてもいなければ、メッセージを受けてもいません。
それどころか、ファチマの三牧童自身以外にもファチマ・メッセージを真剣に受け止めるカトリック信者はもちろん居るものですが、彼女はそのような者でさえありません。
人間の弱点
話を少し広げれば、これだけによってみても、ただ「明るい」ものを好み、「明るい」ものを選択するということが如何に間違っているかが分かります。何事も他との関連によります。家が火事になっているのに部屋で明るい顔をしていたら馬鹿です。神の要求が満たされていないと知っている預言者が深刻な顔をしているのは当然です。
しかし私達の多くは、上の二人のうちのどちらと一緒に居たいかと問われれば、つい「前者(本物のシスター・ルチア)と一緒に居るのはちょっとしんどそうだなぁ」などと感じるのです。後者と一緒に居る方が自分の心が喜びそうな気がするのです。それが人間のさがです。
人間の弱点、それは「明るいもの」に惹かれることです。もっとも、これ自体そんなに罪なことには思われません。むしろ人間の霊魂の根源的な要求のように思われます。けれど、「明るさ」をあまり手近なところに求めようとすると、そこから愚かさが派生します。
私はもちろん御ミサのことを考えています。
御ミサはイエズス様の御犠牲の再現ですから、どうしたって一定の「重さ」を持っています。その重さこそがミサ聖祭の本質と結び付いている、と云えます。それを全て取り外そうと試みることは、いわば「ミサ殺し」を試みることです。
しかし、その重さを受け止められない人達にとっては──その重さを受け止めることは一つの “学び” や “訓練” の問題でもあると考えもしない人達にとっては──「重い」は常に「暗い」と映るのです。自分の心を省みたり、物事の深みを考えたりせずに、比較的、表面の感覚に生きているからです。
そのような人達は浅薄なヒューマニズムに走ります。
たとえファチマ預言に関心を持つほどには良い信者であっても、偽シスター・ルチアの言説に騙されます。
「神がこのようにわたしたちを罰しておられる、というのはやめましょう(let us not say that it is God who is punishing us in this way)」参照・・・
やめましょう?
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だんだん腹が立ってきましたw
この人の主観がどんなことになっていたのか、それは私には分かりません。そして、裁きは、量刑は、天主様のお仕事です。
しかしながら、彼女がやったことだけを見れば、この人は確かに「詐欺師」です。ファチマ・メッセージを明るく優しいものに変造したところの。「ロシアの奉献は済んだ」と言ったところの。
彼女は、自分が死んだ時、聖母の御前にどのような顔して立つつもりだったのでしょう?
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