2013.02.06

カトリック相模原教会と同性愛の牧師さん 4

この問い、再掲。
これはこの件を知ったカトリック信者と思われる人が言った一言です。
教会には、同性愛であることに悩んで、その傾向を何とかしたいと思っている若者もいるのに。
私は全くその通りだと思います。
そのような努力をしている若者が、自分の教会の掲示板に平良愛香氏のあのような言葉が貼られているのを見るのです。その若者は努力の意味を見失うかも知れません。
それとも教会自らが「悩む必要はないんだよ」とその若者に言うのでしょうか。「努力は要りません」と。
その一言は 2ch に落ちていました。私は普段 2ch は覗かないけれど、今「カトリック相模原教会 同性愛」で検索すると、そのページが4番目くらいに出て来るので、目にとまった次第です。
私はひたすら「教会当局」の異常にばかり目が行っていたので、信徒側が被るこのような被害まで想像力が回っていませんでした。しかし、言われてみれば、全くその通りです。
さて、教会、「悩む必要はない」「努力は要らない」と言いますか?
しかし全体、どうしてこのようなことになっているのでしょう。
相模原教会は、その主任神父様が左がかっているとは云え、痩せても枯れても「カトリック教会」ではありませんか。一体、どうして。
私は、一つは “言葉のマジック” と云ってみたいようなものが、ここにはあるような気がします。もっとも、相当 “イノセント” な人でなければ、それに引っ掛かりそうもない、と云うのも本当ですが。
「神様がつくったものに不良品はない」
こんな言葉に引っ掛かって(騙されて)しまう人が、カトリック教会の中にも居ると云うことでしょう。
しかし、その言葉は悪い言葉です。
「不適切さ」が二つ入っています。
一つは、「同性愛」を「神様がつくったもの」と決めてかかっていることです。しかし同性愛は「生得的なもの」と決まったものではありません。且つ、たとえ生得的なものだったとしても、それを以て「一も二もなく受け容れられるべきもの」と決まったものでもありません。過去記事参照
もう一つは、「不良品」と云う言葉です。
この言葉を採用することで、その文は、読む者に罪悪感を喚起します。
「同性愛」を少しでも疑問視すれば、それは即ち同性愛者を「不良品扱い」することだ、と云う印象を、この文は発しているのです。
平良氏がそのような効果を狙ったかどうかは知りません。しかし、それとは無関係に、この文自体が読む者の心にそのような作用を及ぼすのです。
しかし、ここでも事実は違っています。
同性愛を〈疑問視〉する人の全てが、同性愛者を「不良品扱い」するなどと云う、そのような失礼な、人倫に悖るような態度を取るわけではありません。更に、同性愛をはっきりと〈否定〉する人さえ、その全てが、そのような態度を取るわけではありません。
平良さんだって、同性愛を疑問視したり否定したりする宗教家、あるいは科学者の全てが、同性愛者に対してそのような失礼な態度を取るものでないことは、知っておられる筈ですが、しかしその短い文は、そのような仔細(真実)を伏せるのです。
心に良心ある人ほど、このような一見「人道的」な言葉によって、理性(知性?)が曇らされてしまうかも知れません。つまり、一つの “マインド・コントロール” にかけられたようになってしまい、上のような仔細(真実)を「見分ける」ことが出来なくなってしまうかも知れません。
平良さんに悪気はないのかも知れません。平良さんはただ、苦しんでいる若者達の方だけを見ているのかも知れません。
しかし、それにも拘らず、「神様がつくったものに不良品はない」、この何気なく置かれた短い文は、悪い文です。
否、結局のところ同性愛を肯定した文ですから、本当は “悪い文” で済むものでなく、霊魂に猛毒を注ぐものです。
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