2012.01.25

地獄に関して惑っておられたJPII教皇様

前教皇様のことを「責める」ためではなく、あくまで天主様の御心を訪ねるために最近の一人の(しかし傾向が顕著な)教皇様の御事を検討させて頂きます。
多くの人が知っていることだろうが、ヨハネ・パウロ2世教皇様は、残念ながら、地獄に関して惑っておられた。
『希望の扉の開く(Crossing the Threshold of Hope)』という本の中で、次のように書いておられる。強調は管理人。
 神は次のようなご意志をキリストにおいて啓示されました。「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望む」(テモテI 2・4)と。テモテへの手紙1のこの言葉は、「最後の事柄(=終末)」を考え、教えるに際して基本的な重要性を帯びています。もし神がこのようにお望みなら、そしてそのために御子を遣わされ、御子が聖霊をとおして教会の中で働いておられるならば、人間が神から断罪されることなどありえるでしょうか。人間が、神から拒否されることなどありえるでしょうか
 地獄の問題はいつの時代にも、教会の偉大な思想家たちを悩ませてきました。オリゲネスに始まって、現代では、ミハイル・ブルガコフ、ハンス・ウルス・フォン・バルターザルに至る人々です。実を言えば、初期の諸公会議は、最終的アポカタスタシス(=万物の復興)の理論を排斥しました。この異端説は、世界は滅亡の後に再生し、すべての被造物が救われるというもので、間接的に地獄を否定する理論です。この説が拒否されたあとも、問題は残ります。これほど人間をお愛しになった神が、人間が断罪され、永遠の責め苦を受けるまでにご自分を拒むのをお許しになれるのでしょうか。とは言ってもキリストのお言葉の意味は違った解釈を許さないものです。マタイの福音書において、キリストは永遠の罰を受けることになる人々について、明白に語っておられます(マタイ25・46参照)。では、永遠の苦しみを受けることになるその人々とはだれなのでしょうか。この点については教会は一切発言したことはありません。これは神の聖性と人間の良心との間に存する、究めがたい神秘です。それゆえ、教会の沈黙はキリスト教徒が執るべき唯一の適切な態度です。イエスが、裏切り者のユダに、「生まれなかった方が、その者のためによかった」(マタイ26・24)と言われたときでさえ、その宣言を確実な永遠の断罪という意味で理解することはできないのです。
新潮文庫『希望の扉を開く』229〜230頁
「キリストは明白に語っておられる」と言いながら、再び彷徨い出ておられる。
「カトリックの教義はストレートに告げられなければならない」 悪魔の返答
 
教皇様の主観には少しも悪意はなかったと思う。しかしながら、開いた扉から入って来たのは「希望」ではなかった。別のものだ。
「そして今、私が地上のわが家、わが教会を見た時、あなた方が泥棒と強盗のためにドアを開いているのに気づく」 ベイサイド
そして、再びこの十字架を見て下さい。
以前、この十字架を調べていた時(サタンの煙: Bent Cross)、Gib Singleton という名の悪魔的芸術家を見つけた。あまりにも醜悪なので、あまりにも地獄の腐臭が来るので、その時は紹介しなかった。しかし、その作家が作っている磔刑像が、教皇様が使っておられた Bent Cross と似ているのである。中には、教皇様の十字架を作ったのはこの人物だと勘違いしている人もいるくらいである。
その名前で画像検索でもすれば直ぐに見ることができるが、あなたは見ない方がいいかも知れない。見るのは私だけということにして、ここに彼の作品のシルエットだけを表示することにする。
これらのシルエットだけでも、教皇様の十字架との共通性が分かる。
十字架の棒が、縦も横も、不自然に歪められていることだ。
確かに、「同じ」と「似ている」は違う。しかし、この場合は、やはりピアーズ ・コンプトン氏らの言っていること(参照)が正しいのだろうと思う。
吐き気がする。本当に、西洋のサタニズムというのはわれら東洋人の想像を絶しているようなところがある。
教皇様をお気の毒と思わなければならない。
次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ