2011.09.08

マリリン・モンロー 2

「彼/彼女はカトリック教徒ではない」
という理由の上に育つ悪い木
前回に引き続き、モンローについて。
警告: 今回は多少、危険な画像があります。
以下に訳すは、以前トーリ・エイモスのことでお世話になった(参照)アメリカのプロテスタント集団  Good Fight Ministries  の文章である。モンローに関するこの記事では、特にモンローのニューエイジ思想への関与をほぼ確証に近いかたちで示していることが注目に値すると思う。
この文章の内容物、この文章が私達の目に映じさせるものは、言ってみればエログロである。けれど私は、時にはこの種のものも読んでみるよう勧める。何故なら、毎日「きれい」なものばかり見て、ネガティブなものに対する視力を少しも鍛えないでいれば、ある日あなたの前に悪魔が来て、ある種の魅力的あるいは魅惑的な花を差し出した時、あなたは騙されてしまうかも知れないから。
マリリン・モンローに好意的な人は、この記事の中に悪魔教会の開祖アントン・ラヴェイとモンローとの「関係」が “事実” として書かれているのを見て、憤慨するかも知れない。しかし、そのような「事実関係」に関する論議は、願わくは、第二のものとして頂きたい。第一のものは、この筆者のキリスト者としての視点であると思って頂きたい。
意訳,若干有り。笑止な誤訳、たぶん有り。御容赦。
また、文中、私による能書き(文頭に▶印のついた小さめの文字)をあまりに多く挿入してしまった。筆者の文章だけをシンプルに表示すべきだったかも知れない。煩わしければ、適当に飛ばして読んで頂きたい。
〔 〕、*、小題、画像の多く、画像に付した言葉、各種強調は管理人。
Marilyn Monroe
By: Jason Kovar
「ねぇ、あなたは自分がこの時代にどれほど重要な位置にいるか全くわかってないのね。あなたはこの時代で最も偉大な女性なのよ。この時代で、あるいはどの時代でもいいけど、あなたは最も偉大な人間なの。あなた以上に人気のある人間なんていない... つまり、イエスでさえ例外じゃなく... いないのよ」
(上は、モンローが心を許していた親友 ポーラ・ストラスバーグ がモンローに言った言葉である。その場に居合わせたローレンス・オリヴィエによれば、モンローはこの言葉を「喜んで受け入れた」そうである)
ストラスバーグ夫妻
〔管理人〕
モンローの霊魂に向ってそのような甘言を言うポーラ・ストラスバーグという人はモンローの親友であると同時に演技指導者だったようだ。しかし、いつも黒い服を着ているため、ハリウッド仲間の一部から「黒衣の魔女」などと呼ばれていたらしい。
彼女の夫は リー・ストラスバーグ という人である。彼も演技指導者のようだ。しかし彼はニューエイジ思想に深く傾倒した人で、後で出て来るように、「瞑想」するモンローの様を伝えている。
セックス・シンボルの女王
ジェニファー・ロペス、パメラ・アンダーソン、アンジェリーナ・ジョリー、ジェニファー・ラブ・ヒューイット、ジュリア・スタイルズ、ジェニファー・アニストン、エリザベス・ハーレイ、ペネロペ・クルス、ジュリア・ロバーツ、そしてキャサリン・ゼタ=ジョーンズのような女性たちがハリウッドのセックス・シンボルとしての地位を達成していたとしても、その中の誰一人として、いまだ彼女たちの女王であり続けているマリリン・モンローを退位させるには至っていない。銀幕の伝説モンローのイメージは根強いもので、今日に至るもハリウッドで続いている。無数の雑誌、テレビ番組、そして映画が、彼女の名の持久力を利用して来た。更に、どのような地上のスーパースターたちをも上回る数の本が──700冊以上──彼女について書かれて来た。
彼女のミステリアスな死については多くの推測がされるけれども、一つの事実が手つかずのまま残っている。それは「彼女がスクリーン上で演じたきわどくて不道徳な女神像は、舞台裏の彼女の実際の人生を特徴づける反抗とだらしのなさをほんの少し反映しているに過ぎない」という事実である。
〔管理人〕
筆者はモンローが生まれ落ちて直ぐからみまわれ始めた様々な不幸不運について少しも言及しない。母親が精神疾患を持った人だったこと、それは家系的なものでありモンローにも遺伝していたらしいこと、母親は離婚しておりモンローの父親が誰であるかさえはっきりしないらしいこと、ごく幼い頃に里子に出されたこと、性的暴行を受けたらしいこと等々である。これらの事に全然触れないのは、確かに少々人間味に欠けることのようにも思われる。
しかしまた、「不幸不運」を理由に、私達が「罪」を見る自分の目まで鈍らせるなら、それもまた間違ったことである。
Love Happy
なんだかうしろに不気味な目が見えます
ハリウッドの女王としての地位を維持するために、モンローはそのセクシュアリティに非常に頼った。男の血を欲望で沸騰させる彼女の神秘的な力は、疑いの余地なく彼女の成功の主要因であった。彼女はその表情の乏しさ故に酷評されたが、彼女の映画はそれほどは彼女の顔に焦点を置いていなかった。モンローの『Love Happy』のプロデューサー、レスター・コーワンは言っている、「彼女の顔は問題ではない。彼女を見たいと思う男たちは皆、要するに彼女に飛びつきたいのだから」。彼女のセクシャルな功績は1950年代にあっては最先端のものであり、世界中の何百万というファンを彼女の性的誘惑の網にからめ取ることに成功したのである。
〔管理人〕
Love Happy(公開1949〜1950年)ではモンローは端役だったようだ。そして、端役時代のことは別にして、世間にはモンローの演技を評価する向きもあるようだ。しかし、いずれにせよ、もし自分の霊的生命を失ったら、そんなものの価値は全くゼロである。
しかし、当時最も注目を浴びた最も有名な映画スターであった彼女ではあるが、彼女の人生に向けられていた批判的な目というものもあったのであって、彼女を崇拝する大衆のほとんどが知らなかった側面を明らかにしている。彼女は三回結婚し、三回離婚した。彼女は色々な男と共にやって来ては、また去って行った。彼女はあまりに自由奔放であり、映画のプロデューサーやその友人たちとあまりに親しくしていたので、彼女の最も熱烈な支持者、彼女の演技指導者であったリー・ストラスバーグでさえ「ハリウッドはしばしば彼女を売春婦のように考えていたものだ」と言ったほどだった。モンローによる性革命とその時代のタブーの破壊は突出していた。情欲、不倫、私通、これら全ての主題に沿った筋書きは、彼女のフィルムの中で示され、また同時に、彼女がその私生活でも生きた現実であった。
〔管理人〕
そして、恐ろしいことに、彼女は10回を超える人工妊娠中絶をしたようだ。しかも最終的に悔い改めたのでもない。モンローを司法解剖した医者が死の二週間前の中絶跡を確認しているそうである。
まるでそれが自分の個人的任務でもあるかのように、モンローは、自分の性的にきわどいショットを、ハリウッドの検閲官(1950年代において、それはまだ幾分時代に先んじた職業だったが)の目を盗み、なんとかもぐりこませる決意だった。検閲官の目を盗み、それをもぐりこませようとしながら、彼女は本当は、それらのショットを彼女の観衆の精神と心の中にもぐりこませようとしていたのである。彼女のなした伝統的な性的慣例と道徳性からの解放は、彼女という人物を、『格言の書』の言う「その歩みは、冥土へたどる。その女の足どりは、死へと下る」姦婦として適切に分類する。それ故にモンローは、演技することを一人の「セイレーン」であることに喩えたのである。セイレーンはギリシャ神話中の存在で、通行する人々に歌いかけることによって誘惑し、死へと引き込もうとするものである。
Sirens
『七年目の浮気』〔1955年〕のような映画を見れば、彼女が何故そのような言葉で彼女自身を定義したのか理解できる。その映画は妻と子供たちが留守の間に上階に住む女性によって誘惑される既婚男性の物語である。モンローがセクシーな寝間着を着、階下に住む既婚男性に会おうとして階段の下でコソコソしているイタズラっぽい場面は、まったくもって刺激と性感の両義的エクササイズである。また、彼女が夏の暑さの中、自分は下着を冷蔵庫の中に保管していることを一人の隣人の男性に知らせるためにバルコニーから身を乗り出すシーンでは、マリリンはあたかもヌードであるかのような印象を与える。実際、監督のビリー・ワイルダーは、自分は裸でのラブシーンを演じることもできるのに、というモンローの考えを彼女の中から追い払わなければならなかった、と言っている。
かの悪名高いスカートが吹き上げられるシーン(プレスはこれを「ゴダイヴァ夫人 以来の最も面白く壮観な演出」と評したものだが)を演じさせるために、彼女を説得する必要はなかった。しかし、いくら真夜中過ぎに撮影されたとは云え、そこには送風機が彼女のスカートを肩を越えた高さまで何度も吹き上げる様をじっと見詰めて立つ多くの人々が居たのである。
〔管理人〕
二番目の写真に見るように、彼女は撮影中、カメラが止まっている時でも上機嫌な顔を見せていたようである。
それは悲しみを隠した笑顔だったか? おそらく、いいえ。
状況的に憮然としているわけにもいくまい? まあ、確かに。
しかし真の解答は、彼女はこのようなものを気にしなかった、別に抵抗はなかった、ということだろう。フラッパーだ。
彼女の映画の画期的な大当たりと結び付いたこの種の振る舞いは、まったくもって、アメリカという国がその建国以来堅く保持していたところの正当なタブーを打ち倒すことに成功したものである。この1950年代の「セイレーン」は、確かに、多くの男性たちを神の招きから離れるようにと、永遠の生命の自由から離れて束縛の墓の中に入るようにといざなったのである。
〔管理人〕
正しいと思う。たとえ彼女に「犯意」がなくても、結果的にそうである。
キリストの再臨に先立つサタンの計画はヨハネの黙示録の中で概観されている。彼の狙いは、罪を通して全世界を騙し、人々が彼を崇めるように誘導することである。それは、世界が罪を受け入れ、それを讃美するように変わることで、ユダヤ教/キリスト教の主要原理が破壊される、ということを含んでいる。アレイスター・クロウリーは20世紀の主要な悪魔主義者として知られた者だが、彼は、サタン自身とされる霊から、来たるべき反キリストの王国の基盤としてのニューエイジ革命について前もって知らされていたという。『法の書』という表題の下、タブーの破壊によってもたらされる自由で倒錯した性の諸原理がその時代を印づけるものである、とされた。この狙いの下にモンローは、荒れ狂う1960年代にその到来を告げられるフリーセックスの急進的な哲学のために社会を慣らすツールとして使われたのである。
〔管理人〕
上はハリウッドが1957年に全世界に放った「輸出品」のポスターである。まったく大したものだ。ほとんどポルノだ。
〔管理人〕
彼らの策術の一つの方法は、良いように見えるものと悪いものを同じ籠の中に入れて私達に差し出すということだ。「魅力的」に見えるものと「毒」を一つに混ぜて差し出す。人間はぼんやりしているから、大抵、「魅力」に惹かれて「全部」を呑んでしまう。「丸呑み」してしまう。「ファン」になればもっと厄介だ。誰かが「それ、毒入りだよ」と教えても、「別の面もあるのよ。彼/彼女のことをロクに知らないくせに」と、防衛が始まる。
ニューエイジ宗教への関与
モンローのオカルトへの関与は、当時のほとんどのアメリカ人が性道徳に関して持っていた伝統的な価値観に対する彼女の猛攻についての多くの疑問に答えるものである。『女神:マリリン・モンローの知られざる人生』を著わした伝記作家アンソニー・サマーズは、「マリリンは生涯に亘るオカルトへの関心を持っていた。彼女はしばしば占星術師と心霊研究家を訪問した」と書いている。一つの好例を挙げれば、ハリウッド・セレブたちの霊能力者ケニー・キングストンはモンローについて次のように書いている。
「私の親愛な友人であり私のかつてのクライアントであったマリリン・モンロー。彼女がジョー・ディマジオ夫人であった時、私は彼女の霊能力者になりました。彼女は多年の間、何度も私に助言を求めました。そして、彼女と私は、彼女の死のほんの二、三日前まで接触していたのです」
〔管理人〕
このバナーに見るように、彼は生前のモンローばかりでなく死後のモンロー(と彼が信ずるもの)とも交流しているらしい。
彼は今も現役で、最近レディ・ガガの相談にのったらしい。しかし彼はガガのあれほどのパフォーマンスを咎めることを少しも含まない「親身なガイダンス」をガガに与えたようだ。何だそれ。
キングストンとモンローは、最初、仲間の俳優クリフトン・ウェッブを通じて知り合い、そしてそのうち、チャネリング、心霊現象、霊の導きなどへの強い傾倒を基盤として、深い親交を結ぶようになった。モンローは多数の占星術師や霊能力者を訪ねるのに慣れていた。キングストンは次のように振り返っている。
「詳しい心霊的アドバイスを必要とした時にはいつでも、マリリンは私に直接会っていました。彼女がどれほど多くそうしたかは、神がご存知です」
しかし神の御言葉は、それがどんな方法によってであろうと、悪霊に助言を求めることを戒めている。申命記には次のようにある。
「あなたのところでは、自分の息子か娘かを火で通す者、占い、まじない、鳥占い、魔法を行なう者、逆さ魔法をかける者、幽霊、先祖の霊を呼ぶ者、死霊に伺いを立てる者があってはいけない。なぜなら、これらの行ないをする者はみな、主から憎まれるからである。あなたの神である主が、あの民々を、あなたの面前から追い払われるのは、まさにそれらの憎むべき行ないのためである。あなたは、あなたの神である主に対して、完全に忠実な者でなければならない」(申命記 18:10-13)
〔管理人〕
申命記 = 第二法の書
これら全ての禁じられた実践には一つの共通項がある。サタンがそれら全ての背後に隠れている、という事である。聖書は、サタンは人間を欺き騙して神を拒絶させ、人間自身のために生きるよう仕向ける現実の存在である、と言っている。サタンがこのために使う手段の一つは性である。神はセックスを結婚の枠内における美しい行為となし給うたが、サタンは人間を煽動してそれを誤用させ、それに関する真理をねじ曲げることを望んでいる。広範にひろがったオカルト結社は、同性愛、小児性愛、獣姦、またこれらに限らず、性の倒錯逸脱した形態を好む。悪魔教会の高僧アントン・ラヴェイの死後、サタニストのロード・イーガンは、悪魔のマントを取り払い、彼の最初の悪魔教会のウェブサイトで次のように認めている。
「私は常にラディカルな哲学と型に嵌まらない発想に惹かれていました。1990年以前のことですが、私は或る事柄に強い関心を持ちました。小児性愛です。それが彼らの間で行なわれていました」
更に彼はこう付け加えた。
「私は NAMBLA の広報〔公示〕に賛成しました」
NAMBLA とは North American Man Boy Love Association を意味する。それは少年たちと合法的に性交渉できるために性的同意年齢を引き下げたいと願う男たちで構成されている。しかし聖書は、邪悪さの裏には、神に対する人間の反抗を悪化させ、サタンの悪魔的アジェンダを推し進めようとする悪霊が存在している、と言っている(エフェゾ人への手紙 6:12)。
〔管理人〕
エフェゾ人への手紙 6:12「私たちが戦うのは、血肉ではなく、権勢と能力、この世の闇の支配者、天界の悪霊だからである」
マリリン・モンローのオカルトとの結びつきは、彼女とその同じ霊たち(この世のあらゆるキリスト教的また道徳的な倫理体系を破壊せんとする霊たち)との間の提携を意味するものである。彼女は故意に悪霊の力を呼び込み、力を得るために彼らと取り引きした故に、革命のアイコン〔象徴、偶像〕としての成功を手に入れたのである。1950年代、アメリカの主流はまだフリーセックスをタブー視していた。しかしその後、モンローの演技が、フリーセックスを何か美しいもの、許容できるものに変えることで、アメリカの主流を変えることに貢献したのである。
〔管理人〕
これらもモンローの映画のポスターである。扇情性は明らかであり、ひどい。やっぱりポルノのテイストだ。
モンローの霊能力者ケニー・キングストンが、彼女の人生と霊との結びつきを固めることを助けた。それによって彼女は、すっかり、完全に、それを受け入れたのである。キングストンはモンローの魔術について触れている。
「私達は、心霊現象を信じる私達のような者によってしばしば使われるところの『視覚化テクニック』をもって始めました。私はマリリンに、私達が言うところの『保護の白き光』によって自分が包まれている様を視覚的に想像しなさい ... あなたの体全体がその光によって包み込まれている様を、と促しました」
〔管理人〕
「白い光」は悪霊たちが自分たちや自分たちの霊団を表わすための大事なイメージであり言葉であるらしい。それは例えば「聖白色同胞団 Great White Brotherhood」であり、イルミナティまがいのことを言うシルバーバーチの祈り「ああ、真白き大霊よ Oh, Great White Spirit」であり、シャンバラやアセンデッド・マスターズを歓迎する開祖を持つ「白光真宏会 White Light Association」である。
キングストンはモンローに、彼に続いて復唱するようにと求めた。
「私マリリンは、自分の頭頂、目、鼻、口、それらの周囲に、白き光を置きます。しかし、それらは決して私の体に触れません。保護の白き光は、私の首、肩、そして胸をも包み始めます。しかし、決して私の体には触れません。… 白き光は私を完全に保護し、保ちます… 」
何世紀にも亘ってオカルティストによって使われて来たこの「白き光」のテクニックはおそらく、「有害な悪霊」からの干渉を祓い除けるために「有益な悪霊」を召喚する、ということであろう。しかし「有益な悪霊」などというものは存在しない。それはスピリチュアルな自己撞着語である。悪霊というものは人間を欺くために人間の信頼を得ようとすること以上のことはしない。キングストンはモンローが悪霊によって苦しめられていると思い、「保護の白き光」を実践した。彼は次のように説明している。
「このテクニックはパワフルです。これは(…)人の体をどのような外部的影響力からも完全に保護し、それらの侵入を防ぎます」
サタニストのアントン・ラヴェイはその著作の中でこの白き光の実践について触れ、偽善的にもラヴェイが代表するところの邪悪な力から人々を保護するために何らかの他の名のもとにサタンを召喚する者らのことを馬鹿にしている。
演技指導者(acting guru)のリー・ストラスバーグは、モンローの様子について次のように言っている。
「彼女は神秘的な炎のようなものに包まれました。それは、あなたがイエスの晩餐に立ち会っていたなら見たであろうようなものです。イエスの周りには神々しい光がありました。マリリンもまた、その偉大な白き光によって包まれたのです」
モンローは、力を得るために、自ら進んで悪霊の領域に足を踏み入れ、自分自身をサタンの管理下に置いたのである。
〔管理人〕
リー・ストラスバーグはモンローとごく親しい。だから、「モンローとサタニズム」について「それは事実無根だ」と憤慨する人も、「モンローとニューエイジ宗教」については憤慨できないだろう。それは確認された事実であると言っていいだろう。リー・ストラスバーグは嘘は言わないだろう。
交霊会
モンローは、明らかに、定期的に霊とコンタクトしていた。キングストンは、自分がどのようにモンローに「霊の世界の注目を引き、霊の助言を引き出す」ことについて教えたか、について書いている。映画『荒馬と女』での共演者クラーク・ゲーブルが心臓発作で亡くなった時、モンローは責任を感じ続けていた*。キングストンは彼女を罪悪感から解放するために交霊会を催すことにした。
*〔管理人〕
それが何故なのか、私はよく知らない。
「『マリリン、私達はこれからゲーブルの霊とコンタクトする。そして、問題をこれで最後にするんだ』 彼女は興奮して『ああ、そんなことが本当にできるの?』と甲高い声で叫んだ。そして、『彼は私のことで怒ってないかしら。たぶん、彼は私と話したがらないわ』と言った。私は彼女に、私はゲーブルがしきりにコミュニケートしたがっているのを感じる、と請け合った。そして、私が次にマリリンを訪問した時、私達は本を読む代わりにクラーク・ゲーブルを思い出しながら短い交霊会を開いた。私がゲーブルの霊が来たと感じるや、マリリンは直ぐに大きな喜びに包まれた。ゲーブルは私達を安心させた。(…)交霊会が終わった時、マリリンは『彼は本当にそう思っていたと思う?』と尋ねた。私は『マリリン、霊は嘘をつかないよ』と彼女をたしなめた。『そうね、あなたが言うことが正しいのね!』と彼女は微笑んだ。『とっても気が楽になったわ!』」
「霊は嘘をつかない」というマリリンの希望は、信じられないほど間違っている。なぜ、霊は嘘をつくことがない、などと言えるのか。悪霊には、そうすることが利益になると考えた時には悪をする自由意志があるのである。イエスは、サタンは「嘘の父である。彼の中には真理がない」(ヨハネ 8:44)とおおせられた。サタンは悪霊たちのプリンスである。そして彼と彼の手下どもは大昔から嘘つきの詐欺師として知られている。その結果、明らかに今日、世界中に嘘つきの霊が蔓延している。使徒ヨハネがこの事を更に明確に言っている。
「愛する者よ、無差別に、霊を信じるな。霊が神から出ているかどうかを試せ。多くの偽預言者が世に出たからである。次のことによって神の霊を認めよ。すなわち、イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである。またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく、来るだろうと聞いている反キリストの霊である。それはもう世に来ている。小さな子らよ、あなたたちは神から出た者であって、もはや彼らに打ち勝った。あなたたちにましますのは、この世にいる者より偉大なお方である。彼らは世の者であるから世について語り、世は彼らの言うことを聞く。しかし私たちは神からの者である。神を知る者は私たちのことばを聞き、神からでない者は聞かない。これによって真理の霊と誤謬の霊が区別される」(ヨハネの第一の手紙 4:1-6)
聖書は「霊を、それが神から来たものであるかどうかを見分けるために、試せ」と命じている。このことは特に、終末の世において世界の意識の中に侵入する偽りの宗教システムについて聖書が特別に警告を向けているところの時代、すなわち私たちの時代、この現代にあてはまる。道徳通念とユダヤ/キリスト教における倫理体系の崩壊は、邪悪な反キリストが一人のヒーローとして世の檜舞台に上がる条件が整う前に、必要とされる。モンローが発表してきた写真、彼女の映画の中のメッセージ、そして雑誌『プレイボーイ』のショッキングな創刊号を飾った彼女のヌード写真のような諸々の彼女の功績を見れば明らかであるように、モンローは上記の悪化のために有用な道具だったのである。
創刊号(1953年)
神と神が置き給うたモラル保護のためのバリアーを彼女が拒絶したため、彼女は、使徒ヨハネが警告した反キリストの嘘つきの霊たちから出る欺きに対し全く無防備な者となった。キングストンの回想によれば、その霊たちは、決定が必要なあらゆる事項において、関心が向けられたあらゆる事柄において、「〔自分たちの〕助言に耳を傾けるように」とモンローに熱心に勧めた。悪霊の憑依は新約聖書の記述だけに限らない現実である。サタンとその配下たちは今もなお、その機会さえあれば、また、そうすることが彼らの最終的なゴールのためになると見れば、それ〔憑霊〕をする用意があるのである。以下に見ていくように、この真実は特にモンローの演技上の能力にあてはまる。
各演技場面を控えてのマリリンの準備は極めて形而上学的であった。ロイド・シェアラー〔コラムニスト〕は、「各テイクの前に、マリリンは瞑目し、深いトランス状態に入っていた」と書いている。魅惑的なキャラクターの誘惑的な演技を成功させるために、マリリンは多くの霊のガイダンスに個人的に依存していた。国際的に評価の高い映画監督ビリー・ワイルダーは二つの作品でモンローを監督した。彼は、モンローがあまりにも無気力に一まとまりの台詞を読んだ時のことを覚えている。予定より遅れていたので、彼は彼女を急がせたかった。ワイルダーは回想する。
「彼女は、できないわ、と言った。彼女は スタニスラフスキー の弟子だった。それで、彼女は『シュガー・ケーン*とコンタクトする』ことが必要だった(彼女自身がそう説明した)」
*〔管理人〕
ビリー・ワイルダー監督作品『お熱いのがお好き』でモンローが演じた主役のキャラクター
彼女が霊に頼っていることは彼も知っていたので、こう返した。
「行って、シュガー・ケーンとコンタクトして来るといい。しかし、頼むから、もう少し早くコンタクトしておいてくれないか」
〔管理人〕
ビリー・ワイルダーも嘘は言わないだろう。
サタニズム関与の疑い
〔管理人〕
「疑い」と小題を打ったのは管理人である。筆者はあくまで「事実」として書いている。しかし、アントン・ラヴェイの話を真っ向から否定するモンローに近しい人達の証言もあるようである。
おそらく最も衝撃的なのは、彼女と悪魔教会の高僧アントン・ラヴェイとの間のサタニックな関係である。ラヴェイにとってのゴールは、聖書で予言されている反キリストの王国を樹立するため、公然たる、また隠然たる手段を使いながら、キリスト教世界を打倒することである。ラヴェイは、彼とモンローとは長年の友人であると言い、そして彼と彼女がこれほど長い間良い関係を保って来られたのは両者とも宗教に対する共通の軽蔑を持っているからだと信じている。マリリンは、アントンが自分の人生について語る話とサタニズムの学習に魅了されていた。「彼女はいつもオカルティズムと死についてもっと聞きたがった。不可思議と怪奇の世界を探索したがった」と、ラヴェイの個人的な伝記作家であるブランチ・バートンは書いている。オカルトの門を叩いたことは、既に増大しつつあったモンローの好奇心をスパークさせた。ラヴェイは、彼女は「魔術と人間の性質のより暗い面」について彼が話すのを聞くのが好きだった、と言う。
10年以上に亘る交流を通して、ラヴェイの教えと影響は、モンローのオカルトに導かれた成功の上に決定的な役割を演じた。ラヴェイには長年のお気に入りであるロックスター、マリリン・マンソンがいた。悪魔教会の司祭であり、自身の音楽を通じてサタンの哲学を忠実に促進している彼は、自分の芸名のファースト・ネームをモンローから取った。マンソンは「自分はキリスト教世界を終わらせた者として知られたい」と認めている。マンソンとラヴェイは、その共有された目的を実現しようとする同志として友情を育んでいる。
モンローが社会の上に持っていた巨大な力を思う時、議論の余地なく、世論を揺り動かし人々をして悪に同意させるために、悪魔世界が彼女の成功を後押ししていた、と見るべきであろう。マンソンは自叙伝の中で、ある日の彼とラヴェイの会話でラヴェイがまさしくそのようなことを主張したことを回想している。彼はこう書いている。
「次いで(ラヴェイは)、モンローがストリッパーをしていたクラブで彼がオルガニストとして働いていた時から始まった彼とモンローとの性的関係について話を進めた。その会話の中で彼は、彼との付き合いが彼女に職業上の花を咲かせたのだ、という話の種を蒔いた」
〔管理人〕
「planted the seed that〜」であるから「話の種を蒔いた」としたが、合っているだろうか。「自説を展開した」か?
マンソンは上の言葉に続けて次のように書いている。
「そのようなものを自分の手柄にするのはラヴェイのスタイルの一部だ。しかし、そこに傲慢な感じはない。まるでそれが周知の事実でもあるかのように、彼はいつも自然に語る」参照
ラヴェイはモンローにサタニズムのあれこれを教えた。そしてその結果として、彼女はサタンと契約を交わし、ハリウッドスターとしての「開花」と引き替えに、自分の霊魂をサタンに引き渡したのである。ビリー・ワイルダーの妻オードリーは、モンローが冷静さを失った時のことを伝えている。
「まるでデーモンが取って代わったかのようでした。マリリンの声は甲高く汚いものになりました。彼女は叫んでいました」
自分の憑霊状態に完全に気づいたモンローは、一人のレポーターに、自分の中に別のものが居る、住んでいる、と話した。モンローはそれを次のように表現した。
「まるでジキルとハイド。一人の中に二人。二人以上かな。私はそれほど多人数なの。彼らは時々私にショックを与える。自分一人だけだったらいいのにと思う」
〔管理人〕
普通、人はモンローのこのようなものを何らかの「精神疾患」の一症状と考える。実際、モンローの家系にはそのような血が流れているらしい。また、まさに「悪魔憑きではないか」と思われるほどの症状を示す「精神病」があるそうである。確か精神科医の香山リカさんが書いていた。
私は、精神医学の説明も必ずしも嘘ではないと思うし、それに沿って一定の効果が出るなら悪いことではないとも思う。しかし、うまく言えないが、精神医学に限らず科学というものは一つの「閉じた世界観」であって、その「枠内」においての「説明」の世界だと思う。悪くすれば「辻褄合わせ」のようになることも多いのではないかと。精神医学などというものは特に。
精神病の裏には、かなりの度合と頻度で、悪霊が関わっているように思えてならない。参照
しかし世界はこのハリウッドの若手女優に魅了された。ラヴェイは、悪魔教会の狙いは人々の目にその正体が見えない者らを使って社会を転覆させることだと述べたが──「そのアイディアとは、まずその者らの心を解放する。次にその者らを他の人々の間に送り込む。(…)その者らは進化した黒魔術を実践し、外部の世界に影響を与えていく」──このアイディアはモンローを通して成功したのである。
しかし、モンローのオカルトにおける霊交流と、霊が彼女に与えた諸々の成功は、彼女が本当に必要としていたものを与えただろうか? 答えはノーである。実際、彼らは彼女を悩ますばかりで、彼女は何度も精神科の診療所や病院に入院しなければならないほどだった。モンローは自分の状態を「いつ起こるか知れない」無名に返ることへの激しい怖れとして話している。キングストンは言っている。
「彼女は、自分は入浴してないし、髪も洗ってないし、服も着ていなかった、と言いました。彼女はただ自分のプライベート・ルームに、安全な部屋に、自分を監禁していたのです。そして、外界を恐れていました。自分が『マリリン・モンロー』でいなければならない責任を恐れていたのです」
彼女に「モンロー」のイメージを与え、彼女の名を継続的にスターダムに押し上げ続けた悪魔世界は、彼女を苛め、彼女を怖がらせたのである。モンローにエネルギーを与えた霊の干渉のせいで、彼女は次のように言っている。
「人間って、時々、自分がほとんど狂気寸前であるかのように感じるものね」
彼女は自分の状態をこう説明している。
「私は時々恐れによってほとんど身動きができなくなるの … 出掛けるのが怖いのよ」
彼女の無神経な遅刻癖が知られた時、彼女はこう認めている。
「彼らは、私が人目につく登場の仕方をしたいのだ、それをドラマチックにしたいのだ、と考えているわ。違う。私はただひどく怖いの」
苦しめられた人モンローは、彼女がスクリーン上で演じる自信に満ちたキャラクターとは似ても似つかぬ人だった。彼女の名声と栄光の全ては実は彼女から来たものではなく彼女を通してサタンがしたことだと気づいてからは、彼女にできたことと言えば、とにかく何とか外面を取り繕う、ということだけだった。実際、彼女は自分に課された苦しみの種から逃れるために錠剤とアルコールを必要とした。自分の罪深いライフスタイルと自分の成功は悪魔によってアシストされたものだという恐ろしい現実から目を逸らすことが、彼女が平和を探すためにできる全てだった。
モンローの死を取り巻く「他殺か自殺か」に関する紛糾した全ての陰謀論があったとしても、彼女の死は聖書的展望から見さえするならば全く理解容易なものである。神の御言葉は、霊媒、即ち霊能力者、チャネラー、占い師などに相談を持ちかけることを戒めている。彼の禁止は私達を保護するためである。何故なら主は、私達がそれらのセッションで接触する嘘つきの霊によって誤導され騙されてしまうことをご存知だからである。更に、霊能力者と霊媒が合図と共に招き入れるその力それ自体が、主に真正面から刃向うところのあの力とまさしく同じものだからである。従って、それらは主の忌み嫌い給うところの悪である。モンローがオカルトの中に立て籠ったことが、また、彼女が神と神の戒めに対する反乱を普及したことが、彼女が36歳という若さで死ななければならなかった理由である。聖書がこのことを説明している。
旧約聖書にそれと似たシチュエーションが記載されている。それはサウル王についてである。彼は天主に反抗し、自分の望みを続けることによって主の目的を徐々に蝕もうとした。反抗したいという発作的欲望にかられ、サウルは彼を導いてくれるオカルトパワーを探した。彼はそのような霊とどんな関わりも持ってはならないこと(既出、申命記 18:9-12)を知っていた。そして、そのような罪に対する罰は死であること(レヴィの書 20:27)も知っていた。彼の違反への報いとして、神は彼を死に渡し給うたのである。
〔管理人〕
レヴィの書 20:27「あなたたちの間で、口寄せや、占いをする男女があれば、死ななければならない。彼らは、石殺しにしなければならないが、彼らの血は、彼ら自身の上にかかる」
「歴代の書、上」には次のようにある。
「こうしてサウルは、主に対して犯した不忠実のため、つまり、主の御言葉に耳を傾けず、その上、伺いをするために、死人の霊を呼びおこしたために、死んだのである。すなわち、サウルが主に伺わなかったために、主は罰として彼を死なせ、王位を、イエッセの子ダヴィドに移された」(10:13-14)
これは無慈悲のように思われるかも知れない。しかし、罪は生ける聖なる神にとって嫌悪すべきものである。更に、主は御自分が聖書でおおせられた事柄に真剣であられる。聖句はまた次のように言っている。
「悪につく人は、死に走る。神は、心の曲がった者を憎まれる」(格言の書 11:19-20)
悲しむべきことに、モンローは主を拒絶し、その真実に気づいた時、自分の生命を買い戻すためには遅過ぎたのである。誘惑とそそのかしを行なう女性について主はこう言われる。
「 “白痴” 婦人は、薄っぺらで、馬鹿げていて、ものを知らない」〔格言の書 9:13〕
モンローと彼女のような女性は甘い言葉を口にするが、
「だが、その行く末は、にがよもぎのように苦く、両刃の剣のように突き刺す。その女の足どりは、死へと下り、その歩みは、冥土へたどる。その女は、生命の道を歩まず、行く先もわからず、迷いの道を歩き続ける」(格言の書 5:4-6)
サタンは、ハリウッドの若手女優たち、自称セイレーンたちを、イエスが警告し給うた破滅の広い道に大衆を導くために利用する。が、私達のあるべき姿をパウロがティモテオへの手紙の中で教えている。
「あなたは、若い者の欲を避け、清い心をもって主にこいねがう人々とともに、正義と信仰と愛と平和とを求めよ」〔ティモテオへの後の手紙 2:22〕
僅かしか身にまとっていない女性を見て楽しむことは明らかにこの戒めに反する。
サタンは社会を彼の邪悪なスタンダードに従わせることを望んでいる。そのために彼が使う手段は、人々を「魅惑された状態」に落とし込むことである。彼の主要な従者の一人としてモンローは、ほぼ50年の間、首位のセックス・アイコンとして性革命を導いて来た。アントン・ラヴェイは1973年、ある記事の中で、モンローは21世紀の悪魔の「マドンナ」になるだろうと書いた。しかしそれは既に十分過ぎるほど起こっている。彼女の死以来、彼女は性の女神に仕立てられ、神格化されて来た。悪魔教会を引用すれば──
「彼女は今や我々にとって、彼女の神秘的な過去を想起させるほとんどアイコンのようなもの、霊験あらたかな護符のようなものである。しかしマリリン・モンローは純潔の女神でもなければセックスレスでもない。彼女はまさに悪魔的な正反対物──情熱的な、瑕のある、誘惑的な、美しい肉体の女神である」
あなたは誰の後に従おうとしますか?
サタンがずる賢く考案し、全世界にバラ撒いている欺きに順応してはなりません。聖書の真理とイエス・キリストに目を見開いて下さい。イエスは死から復活することによって世と死に勝利した究極の非順応者です。死の統計学は依然として1対1です。全ての人が死に、おのおの創造主の前に立たされます。あなたもその中の一人です。彼は神聖であり、恐るべき神です。聖書は、生ける神の御手に落ちるのは恐ろしいことである(ヘブライ人への手紙 10:31)と言っています。今直ぐイエスを確かに知るようにして下さい。そして、あなたの目の前に神の正しい聖句を置く時間をとって下さい。映像を通して流れて来るハリウッドの騙しの脚本ではなく。
〔管理人〕
「自分をこの世に同化させてはなりません」(ローマ 12:2)
ヘブライ人への手紙の第三章は次のように言っています。
「兄弟たちよ、警戒せよ、あなたたちの中には、生きる神から遠ざかる悪い不信の心がないようにせよ。今日と言われる間に、毎日互いに勧め合い、誰一人罪に誘われて頑なになる者がないようにせよ。私たちが、キリストに与る者となるためには、初めに持っていた信仰を終わりまで堅く守らねばならない。『今日御声を聞いたなら、反逆の所でそうしたように、心を頑なにするな』と言われているからである」(3:12-15)
私達が主に背かないように、この御言葉を胸にたたもう。
〔翻訳、了。〕
管理人
私の言いたい事は、本当は前回の自前の文章で全て書いたつもりである。しかし、もう一度簡単に言う。
カトリック信者は、いかなる人のことをも「裁く」ことはできない。相手がカトリック信者であろうと、非カトリック信者であろうと、共産主義者であろうと、フリーメイソンであろうと、サタニストであろうと、である。
しかし、「裁かない」ということと「好き」というのは全く違う
カトリック信者は「罪を犯している非カトリック者」のことを、「彼/彼女はカトリック信者でない」という理由で、自分にはその者を「好き」である自由がある、と考えることはできない。何故なら、罪はそれを犯す人間がカトリック信者であろうとなかろうと罪であることに変わりはないからである。
カトリック信者と非カトリック信者との間で違うのは、ただ罪の「量り」だけだろう。例えば人工妊娠中絶だが、カトリック信者の場合、通常はそれが罪であると知っているわけであるから、罪の「量り」は重くなる。他方、それが罪であるとの十分な意識のない非カトリック信者がそれを犯した場合、カトリック信者の場合よりも罪の「量り」は軽くなるだろう。
しかしながら、それは裁判でいう「情状酌量」のようなもので、それによって罪が罪でなくなるわけではない。(そして私は、たとえ非クリスチャンの場合でも、その「情状酌量」の幅はそんなに広くないと思う。)
よく言われることだが、これを「被害者の視点」で見てみよう。殺された胎児の視点から見てみよう。直ぐに分かるのは、そこには自分を殺した者が「カトリック信者か非カトリック信者か」の違いはないだろうということである。殺された側からすれば「殺された」のだし、また胎児に生命の息を吹き込み給うた天主様からすれば「わが被造物を不当に権利なく殺した」ということだろう。どうしてカトリック信者がそのようなことをした者のことを「好き」であることができるのか。
これら諸々を考えれば、モンローを「好き」であることは、キリスト者においては到底できない。もう一度言うが、「裁かない」ということと「好き」ということは全く違う
「彼/彼女はカトリック信者でない」ということの後には、キリスト者はむしろ次のような聖句を思い出さなければならない。
つり合わない首かせを未信者とともに持つな。正義と不義に何のつながりがあろう。光と闇に何の交わりがあろう。キリストとベリアルに何の了解があろう。信者と未信者に何の関わりがあろう。神の聖所と偶像に何の一致があろう。まことにあなたたちは生きる神の聖所である。神は、「私は彼らの中に住んで歩む。私は彼らの神であり、彼らは私の民となる」と仰せられる。そして、「彼らから離れてとどまれ」と主は言われる。「汚れたものに触れるな(…)」と全能の主は言われる。
2コリント 6:14-18
「好き」ということは、口では何と言おうとも感情において、霊において、それを肯定的に認め、受け入れ、歓迎し、それと会うことを喜び、それと「交わる」ということである。あなたの霊魂は影響を受けないわけにはいかない。
言うだけ言った。私としては、言葉としてできることは、もう何もない。
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