2008.01.06

セルフ・インティンクション と Universal Salvation のある教会

今日は自分の所属教会とは別の教会に行きました。まあ、早い話が、以前掲示板でちらっと触れた「トリエント・ミサのことで私が目星を付けている一人の神父様」にお会いしようと思ってです。そう、今頃なんですが...
でも、あいにく神父様は海外に出ておられ、御不在でした。代わりに別の神父様(西洋人)が御ミサを立てられました。
その教会は、ネット上の紹介記事にあった画像では、信者席は長椅子で、しかも跪き台が付いているのが見えるのです。それ故私は「聖変化の時に跪く教会でありますように」と願いつつ行ったのですが、御聖堂の中に入って見てみると、信者席の全てに跪き台が付いているわけではないことに気づきました。・・・嫌な予感がしました。
案の定、聖変化の時に跪く人は誰もいませんでした。少なくとも私の見える範囲では、一人もいませんでした。
御聖体を舌で拝領する人も、私の見た限りでは、一人もいませんでした。
御聖体拝領ではセルフ・インティンクションが行なわれていました。どういう形式のセルフ・インティンクションかというと、司祭が信者各自の手にホスチアを乗せ、次いで信者は横に立っている侍者が傾けて持っているカリスの中の御血にホスチアを浸す、というものです。日本の教会で一番多いやり方です。
しかし、ある程度は気を使っているようであり、拝領に入る前に「御血をこぼさないように気を付けて下さい」とのアナウンスがありました。また、侍者はカリスの前方に、つまり信者側に、かなり幅をもってプリフィカトリウムを差し出すようにして広げていました。
神父様の説教(私の記憶による要旨)
主の御公現を境に世界は変わった。それまでは「 “選民” としてのユダヤ人」対「 “異邦人” としての他の民族」という構図だったが、それを境にそのような区別はなくなった。神の恵みは全民族に向けられるようになった。しかし、実は今でも教会の中にユダヤ人的な選民意識が残っている。
よく「信仰を伝えなきゃ」と言うが、それをあんまり意識して努力したりすると皆さんは気が重くなるし(笑)、それにそもそも「自分は神様に選ばれて、他の人達にはないものを持っている。その自分の内側から何かを取り出して他の人達に伝える(与える)」というふうに捉えるのは、果たしてどんなものか。そうではなくて、私達は全ての人の中に既にある神の恵みに気づき合い、それを分かち合うことの方が大事なのではないか。
洗礼というものも、天国への切符(?)みたいに捉えるんじゃなくて、天国への招待状(?)みたいなものと考えた方が良いのではないか。つまり、カトリック信者だけが天国に行って、それ以外の人達は行けない、というのじゃなくてね。
以上は私の記憶によるものですが、しかし要旨としては間違っていません。神父様は確かにそのようなことをおっしゃいました。
私は要求が高いのでしょうか。
身の程知らずにも。自分のことを棚に上げて。
しかし、確かにその聖堂内に、何ら「祈り」の雰囲気を感じることができなかったのです。
聖堂の中に一つの部屋へ通じる扉があり、それには「祈念堂」というプレートが掛かっていました。告解室のことでしょうか。「祈念堂」...
ポワ〜ンと幸せそうな人達の間を抜けて、寂しく帰って来ました。
私はその人達の「幸せ感」に難癖を付けたいのではありません。
その人達は良い人達です。真面目な人達です。
でも、これは「信仰」です。
私達の「罪」と主の「御いけにえ」への意識は、
何処に行ってしまったのか?
何処に放り投げてしまったのか? こんなにも。
「真面目」だけでは足りない。
信仰の要求するものを知っていなければならない。
「敬虔」でなければならない。
主がそれを指して
「女から生まれた者のうちでこれ以上に偉大な人は出たことがない」
とおおせられたところの洗者ヨハネが、主を指して
「私などその方の履物の紐を解く値打ちもない」
と言っているのに、何故私達は
聖変化の時にも御聖体拝領の時にも突っ立っているのか?
私達はいつ、主の背丈まで達したのか?
いつ、主と頭を上げて対面する
「値打ち」のある者になったのか?
主が「愛しているよ」とおっしゃったからか?
おお、何という単純過ぎる受け取り方だろう!
何故、「頭を下げるからいいだろう」なのか?
私達の体の英知は何処に行ってしまったのか?
アカデミックな文化論を調べてみないと分からないというのか?
それは果たして英知か?
立ってみて、跪いてみて、自分の体に直接聞けばよい!
体には、天主の刻印したものがあるからだ。
言ってしまえば、この記事で取り上げた教会は、札幌の月寒教会です。
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