2005.10.25

心と体の感受性

もとより「とにかく古い方がいいのだ」と言っているのではない。
根本的には「古い」「新しい」は関係ないと言っていいかも知れない。
怖いのは、私達の心の深層、無意識層で起こっていること、起こり得ることだ。
人はよくこう言う──「信仰は『心の問題』なので、基本的には『心』さえシッカリしていれば問題ありません」。
しかし私は、簡単にそんなことを言う人は、ご自分の「心」と「体」の、自然な、深いところでの、密接な、生きた結びつき方に対する感覚が、失礼ながら鈍いのではないかと思う。
「正統性」と「時代性」に関する議論を戦わせなくても、それ(御聖体)が真に神的なもの、人間世界の基準では計ることなど全く不可能なほど限りなく尊い「計り知れない賜物」であると云うのなら(そうでないと言うなら別だが)、それを突っ立ったまま、直前に手垢のついたお金や聖歌集に触ったと同じ手で、果して触れていいものだろうか、という疑問ぐらいは起こるのが普通だと思う。つまり、こういうことは、神学的な議論より何より先に、ご自分の体の内部機構、心と体の感受性に問うてみるべきことだ。
毎回毎回突っ立ったまま手で受けていると、どのようなことが起きると想像されるか。私達の心と体の密接な生きた連関の中に、「御聖体」というイメージと「立って手で受け得るもの」というイメージが無意識的にリンクされないだろうか。そうして「立って手で受け得るもの」は別の物ともリンクしている。
その辺を、御自分の心と体によく聞いてみて頂きたいのだが。
(私が思うに、あのように立って受けられるものは学校の卒業証書である。何ら「特別」ではない。しかし御聖体は特別中の特別のものだ。)
大人は鈍くなっていて、悪い意味で「精神的」になっている。つまり〈体の感受性〉と〈頭で考えること〉との間に乖離ができてしまっているから、つい言葉に騙されるんだと思う。
それでは子供は安全か。心と体の感受性がまだ分離していない(この表現もどこか素人くさいが)から安全かというと、まったくそんなことはない。彼らは「未熟」「白紙」という別の問題を抱えている。幾ら人間の心と体には或る種の智慧・感受性が本来的・生得的に備わっていると云っても、子供に於いてはそれを教育によって引き出し、神から頂いた魂の可能性を引き出してあげなければ、どうにもならない。(白紙はまた容易に汚され得るものである。)
彼らは物心ついた時から「御聖体というものは、皆と一緒にゾロゾロ歩いて行って、神父様が渡すそれを立ったまま普通に手で頂くもの」という感覚や雰囲気の中で育っていく。どれだけの親が「左手を王様を今から受けようとする右手の座のようにしなければなりません」(聖キリロがそう言ったという不確実情報がある)などと教えるものか。
またそもそも、言葉よりも「体で教える」方が百倍の効果があるのは間違いのないことである。(それは大人でも同じ)
私達はもともと「心と体」だ。
それ故、その「全体」を以て主を愛し奉らなければならない。
きっと人々は「御聖体」というものがどれほどのものか、ほとんどまったくわからずに受けているのだと思う。
そして、それを授けている側の人に於いてはどうか。
彼らはそれが何か本当にわかっているのか。
《ページ移動のためのリンクはにあります》
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ