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第八書・第四章

キリストの受難と御聖体に対する聖母の信心。
聖母が汚れなき御宿りと他の祝日をどのように祝われたか

 教会の実際の運営に注意を怠らない一方、聖母は密かに苦業、善業に励み、いと高き御方より無数の賜物と祝福、及び全信者の恩恵や大勢の霊魂の救いを頂きました。天の偉大なる女王として多くの特権を頂いているにも関わらず、聖母は御子の生涯の行動や神秘をいつも記憶しました。晩年、神やあらゆることを見せる知的幻視の他に、主は聖母の御宿り以来、何事も忘れないという特権を聖母にお与えになっています。

 前述したように、聖母は我らの救い主イエズスの御受難のあらゆる苦痛を心身共にお感じになりました。主の御受難の傷跡は聖母の内部に刻み込まれています。御心の中に御受難により傷つけられ変形した御子の御姿をいつも保存しました。主があらゆる状況、時と場所で受けた傷、暴行、侮辱や涜聖を聞きましたし、御受難をありありと見ました。一日中この悲しい幻視は聖母に徳行を積むきっかけとなり、悲しみと同情を引き起こし、更に別の苦行を天使たちと共に行われることになります。我らの主キリストが受ける傷や苦痛の一つ一つのため、聖母は特別な祈りと挨拶を唱えます。特別な讃美と礼拝の祈りです。ユダヤ人や他の敵たちの侮辱の言葉の一つ一つのため、涜聖の言葉の一つ一つのため、聖母は特別な讃美歌を作曲します。軽蔑の仕草、あざけりや個人的中傷のた価、聖母は最も深い謙遜、跪きや平伏しを実行し、それらの侮辱を償おうとなさいます。こうして聖母は御子の神性、人性、聖性、奇跡と教義を告白します。全てのため、聖母は光栄と荘厳さを御子に帰します。聖母の善業に参加する天使たちは、単なる被造物におけるこのような智恵、忠実さと愛の一致を崇めます。

 聖母が御生涯にこれだけの善業しかなさらなかったとしても、諸聖人が神のために耐え忍んだことの全てよりももっと成し遂げられ、もっと大きな功績になります。愛の力による聖母の御悲しみは、殉教を何回も繰り返したことと同じです。もしも、主が生き永らえさせて下さらなかったなら、聖母は何回も御死去になったことでしょう。これら全ての徳行を実際に教会のために捧げて下さったので、信者たちはこの献げ物を不幸な人たちのために自由に使えます。この救いの宝に信者たちは感謝しなければなりません。聖母の黙想の効果も驚くべきほどです。聖母は血の汗を何度も流されました。血は御顔を覆いました。苦しみの時、血の汗を全身に浴びました。血は床に落ちました。時々、心臓は極度の御悲しみのためにねじれました。このような時、御子は天から下りて来られ、新しい生命力を御与えになり、御悲しみを和げ、傷を癒して下さったので、聖母は同情の業を続けることができました。

 主は御復活節に聖母が悲しみを除くよう望まれました。しかし、喜びや主に対する感謝の時でも、主の御苦痛を決して見失わず、同情の他の効果も感じておられました。主の恩恵の甘美さの中に、主の御受難は苦みを混合させました。聖ヨハネの承諾の許に、毎週金曜日、御子の御死去と御埋葬を記念するため、祈祷部屋に引きこもられました。その日の訪問客を聖ヨハネが応対しました。聖ヨハネの都合が悪い時は、他の弟子が代わりました。聖母はこの徳行のために木曜日午後五時、自室にこもられ、日曜日の昼まで外に出て来られませんでした。教会の運営が疎かにならないように、聖母は天使に聖母の姿になってむらい、急ぎの件は早くしてもらい、教会員に対する愛徳業や家事も十分に果たしてもらいました。聖母のこの苦業の全貌は主のみ御-仔知で、いつか私たちに理解させてくださるかもしれません。主がなさったこと全て、足を洗うことから苦痛の数々を受け、御復活までの全てを記念し、体験されることを毎週毎週、聖母の御在世中続いたのです。この業により聖母は大きな恩恵と祝福を頂いたので、私たち全員に御受難の宝に参加するように御勧めになります。聖母は教会がこの記念を続け、保つように希望されたので、教会の大勢の信者が臼見習うように主は命じられました。

 聖母はこの徳業において、御聖体の秘跡を特に祝うように強く望まれました。主を崇め奉る聖母に、守護の天使たちや最高天の天使たちが参加するようにお望みになりました。いと高き御方は天使の大軍をお遣わしになり、キリストが聖母の中に秘跡的に留まり給う不思議をお見せになります。聖母の中にキリストがおられるため、聖母はどの天使よりも、セラフィムよりももっと純粋でもっと聖であることがわかり、天使たちは光栄と讃美を神に唱えます。

 聖聴に御聖体を安置するように、聖母が御自身の中に保有するに値すること以上に素晴らしいことは、聖母が聖体拝領の準備を毎日なさったことです。拝領の前日の夕方から祈祷部屋に入り、神の不変の真髄を拝み、御自身が卑しい身であるにも関わらず聖なる秘跡における御子を頂くことを許してくださるように祈られます。秘儀の内に教会内に留まり給うが故に、教会を愛する主に訴えられます。主に対し、御自身の御受難と御死去、主の人性と神性の一致、主の御生涯中の功徳、天使の徳と過去、現在、未来の義人の徳を捧げます。次に最も厳しい謙遜の業を行われます。神の無限に比べれば、塵と灰に過ぎない自分であることを公言されます。主を秘跡の内に拝領することを黙想し、心から感動し、天に昇り、セラフィムやケルビムを越えて高く上り、御自身は全被造物中最下等であると判断され、守護の天使たちおよび他の全天使たちに、御自身を聖体拝領を受けるに値するように準備できるよう、主に嘆願することをお願いします。天使たちは聖母の言いつけに喜んで従い、聖母の嘆願にお供します。

 ミサの終わり近く、聖体拝領台に近づくにあたり、三度も恭しく跪き、愛に燃え、秘跡の中の御子を拝領し、心から歓迎されます。拝領後、引きこもり、大事な用事のない限り、三時間一人きりでおられます。この時間、聖ヨハネは聖母から光が太陽光線のように照射しているのを見ることがしばしばありました。

 聖母は、ミサの無血犠牲を祝うため、使徒たちや司祭たちが普段とは違う飾られた神秘的着物を着るようにしました。御自身の手で飾りや秘跡用衣類を作り、教会の伝統を始めました。ローマ・カトリック教会で使われてきた物とだいたい同じで、材料はもっと良く似ていて、リンネルや絹で、聖母に与えられた施し物や贈り物で買われました。これらの衣料を縫ったり、大きさを合わせたりしている時は、いつでも聴いたり立ったりしていました。これらを天使以外の聖具係には助けを頼みませんでした。これらの飾りや祭壇に使用される一物を大変良く整頓し、きれいにしておきました。御手から天の芳香が出てきて、司祭たちの魂を燃やしました。

 使徒たちが説教していた諸国、諸地方から、大勢の改宗者がエルサレムに来て、世の救い主の御母に会い、話しました。訪問者の中には地域の監督である首長が多くの高価な階り物を持参し、聖母や使徒たち、弟子たちに勝りました。聖母は御自身が御子のように貧乏であり、使徒たちも主を倣い、貧乏であり、これら高級品は自分たちの生活に不適当であることを答えました。訪問者たちは贈り物を貧者のため、そして、礼拝のために受け取って下さるように乞いました。繰り返して頼まれたので、聖母は贈り物の一部を受け取り、高価な絹を使って祭壇の飾りを作りました。残りは芸者、病者に分配しました。聖母はそのような所を訪れる習慣になっていて、世話をしたり、両手で貧者の体を洗ってあげたり、続いて施し物を分配しました。可能な限り困窮者たちを慰め、病人の最後の苦しみを和げました。実際に愛徳を実行するか、自室で人々のために懇願するかして聖母は愛徳業を休んだことはありません。

 晩年になって聖母は寝食を極端に減らしました。聖ヨハネが少しでも眠るようにと頼んだので、少しは眠りました。しかし、この眠りは少しうとうととするくらいで、三十分以上は続かず、その間も神の幻視を失いませんでした。聖母の食べ物は普通のパンを二口、三口、口にされるのと、小さな魚一匹です。聖ヨハネが口やかましく言われるため、そして、聖ヨハネの食事の時、同席するためでした。聖ヨハネは聖母と共にいるだけではなく、聖母の料理された物を聖母が一人息子にするように仏和仕され、聖母から司祭として、キリストの代理者としての尊敬を受けたのは全く嬉しいことでした。聖母にとって、わずかばかりの寝食は生命の維持に必要ではなかったのですが、人間性を尊重するため、従順と謙遜を実施するために行われたのです。

 聖母が教会の中で保っておられる全ての義務と称号、すなわち、元后、女主人、御母、女監督、先生(教会博士)は、全能者より与えられたもので、意味もなく実もない名前ではなく、恩寵の山を意味し、全能者がその一つ一つの恩寵を名指しされるのです。この豊富さは次のようになります。元后としての聖母は、統治権とその領域を全て御存知です。女主人として権力の大きさを知っておられます。御母として、教会の終わりまでの全時代における教会貝全員、一人の例外もなくよく覚えておられます。女監督として、聖母に従う者全員をお知りになっています。先生として、聖母の御取次ぎにより、聖霊の御導きにより、聖なる教会を教え、案内すべき智恵と知識を備えておられます。

 聖母以前と以後の全聖人の生涯、業績、死と天国における報いばかりではなく、教会のあらゆる儀式、決定や祝日が、教会が発足して以来、何の理由、動機、必要性、機会のため、聖霊の御助けにより設定されたことを明瞭に知っておられます。聖母の全知識とそれに釣合う聖性により、地上の戦闘の教会に、勝利の天の教会の礼拝、崇敬や祭礼を紹介されました。天使たちがいつも見聞きしていて、聖母御自身、天国においていと高き御方の讃美と光栄のための礼拝に何回も参加されました。

 このようなセラフィム約精神により、聖母は多くの儀式、祝典や徳業を実践し始めました。これらは後に教会に紹介されました。これらについて使徒たちに教え込まれました。前述した御受難の信心業は聖母がお考えになったものです。その他も全ては後ほど、教会、信者や修道院に導入されました。主の礼拝と徳を積むことに関して知っておられることは何でも実行されました。知るべきことは全て知っておられました。主と御自分の祝日や、人類に関する一般的な恩恵のため、感謝と崇敬のお祈りをお忘れになりません。御自身の汚れなき御宿りと御子の御誕生をどのようにお祝いになったか、私は説明しましょう。両祝日を、御言葉の受肉の時から、特に被昇天の時から祝い始めました。十二月八日の汚れなき御宿りの祝日は、その前の晩から準備します。一晩中平伏し、主を讃美し、御自分がアダムと同じ土から作られ、自然の法則に従ってアダムの子孫になったことを深く黙想しました。御自身は同じ罪で圧迫されず、多くの恩恵を与えられて受胎されたのは、全能者により他の人たちから選り分けられたゆえであることに思いを致しました。御自身、守護の天使たちに一緒に感謝の歌と讃美の歌を交互に歌うように頼みました。夜中、歌い通した後、キリストが天より降りて来られ、天使たちが聖母をキリストと御一緒に天に御連れしました。天のエルサレムでは、主の宮廷全体の新しい光栄と喜びと共にお祝いが瞭けられました。聖母は平伏し、聖三位を崇め、御自分を原罪から離し、汚れなき御宿りをして下さったことを改めて感謝しました。聖母は御子なる主御自身の右に坐しました。聖三位は聖母の特権を今一度確かめられ、承認され、喜ばれたのです。次のような繰り返しの証言がありました、「ああ、王女よ、御身の足跡は美しい、罪なくして宿りたり。」 御子の御声は申されました、「我に人を救わんため、人体を下さりし御母は全く純にして罪の汚れなし。」聖霊の御声が隙こえました、「我が浄配は美しい、御身は美しく、宇宙の罪の汚点なし。」 御声と御声の間に全天使、諸聖人の合唱がありました、「至聖なるマリア、原罪なくして御宿られし。」最も賢慮なる聖母は、感謝、礼拝と讃美を最も謙遜にいと高き御方に捧げられました。聖母は聖三位の直感的至福の幻視にあずかりました。何時聞か神の光栄をお喜びになった後、天使たちに連れられて高間に戻られました。

元后の御言葉

 私の娘よ、一生を通じて私は御子の御受難と御死去を感謝しながら思い出しました。御受難を記憶しているだけでなく、苦しみました。人々は救いの理解できないほどの恩恵を忘れています。恩を忘れ、感謝しないことは、軽蔑することです。御子を犠牲にしてまで御父は私たちを愛してくださり、御子も私たちのために死を受入れてくださるのに、この愛を人々は嫌います。

 この状態をルシフェルと手下たちは次のように言います、「この霊魂は神の救いを覚えないし、敬わないから、我らの側に引き入れられる。そのような祝福を記憶しないほど馬鹿なら、我らの企みに気付くまい。一番強力な防衛をなくしているから、誘惑して滅ばしてやろう。」 この考えは間違っていないことを経験上知っているので、悪魔たちは熱心にキリストの御受難と御死去の記憶を消そうとし、説教や講演を軽蔑させようとします。これまで霊魂に恐るべき害を与えることに大成功しています。他方、キリストの御苦痛を黙想したり、思い出す者たちに対して油断せず、恐れています。キリストの御苦痛から勢力と影響力が出て来るのを悪魔たちは感じるのです。

 私が主の御母でありながら、主の御体を拝領する価値のない人間であると考え、非常に多くの手段で何とか自分を浄めようとしていますから、とても貧弱で色々な悲惨や不完全さを抱えているあなたも、自分の内部をきれいにすべきです。神の光により内部をよく調べ、大きな徳により内部を飾りなさい。諸天使、諸聖人の取り次ぎを願いなさい。とりわけ、私の助けを呼ぶことを勧めます。私は聖体拝領のために浄めたいと思う者の特別な弁護者であり、守護者です。

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