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第七書・第六章

聖パウロの改宗

 聖パウロはユダヤ教に於て傑出しています。第一の理由は、彼自身の正確で、第二の理由は、彼の自然的に良い優秀さを悪魔が勤勉に利用したことです。聖パウロは寛大、高教、高貴、親切、活発、勇気と恒常の性質の持ち主でした。道徳的諸徳も獲得しました。モーゼの律法を信奉する教授として、その学問を積み重ねた人として栄誉を受けました。しかしながら、ティモテオに述懐したように、その精髄については無知であったのです。というのは、聖パウロの学問は人間的、現世的であったからです。多くのユダヤ人のように、彼は律法を外側から知っていただけで、その精神を知らず、神から洞察力を頂かず、正しく知ることができませんでしたし、その神秘の中を探れませんでした。

 キリストの律法を理屈と公式裁判により滅ぼせるように思えましたが、迫害という犯罪に身を落とし、暗殺の片棒を担ぐことは、自分の威厳と名誉にふさわしくないように感じられました。聖母を殺そうと考えると、もっと大きな恐怖を感じました。聖母が女であるからであり、聖母が落ち着いておられ、苦労やキリストの御受難をいつも良く忍耐されたことを目の当たりにしたからです。聖母が高密な女性で、崇敬に値すると聖パウロは思えたし、公衆の面前で聖母がどれほど悲しまれ、苦しまれたかを知っていて、少しは同情したからです。聖母を殺せという悪魔の非人間的暗示をはねつけました。その反面、改宗しようという気も起こりませんでした。ルシフェルの勧めにも関わらず、使徒たちの暗殺にも気が進みませんでした。悪魔の邪悪な考えを排斥しながらも教会を迫害し、キリストの御名も地上から消すように全ユダヤ人に呼びかけました。龍と手下たちはサウロをそこまで決心させたことで満足しました。この男の命をどのようにして保つかについてお互いに相談し合いました。サウロの保護者、そして生命と健康のための医者になったのですが、人間の生死は神の御手にあるという一事実を無視しています。サウロがキリストの信仰を受入れ、自分たちの拷問と滅びのために戻って来るとは悪魔たちは想像もつきませんでした。

 サウロの改宗がもっと素晴らしく光栄あるように神はお望みになり、サウロを祭司長たちの所に行かせます。サウロはエルサレムを離れたキリストの弟子たちを追いかけ、捕まえ、エルサレムヘ囚人として連れ戻す許可を願います〝 このためサウロは自分の地位、財産と生命までも提供します。自分の祖先の律法が十字架に付けられた者の新律法を打ち破ることがサウロの希望です。サウロの申し出は祭司長と顧問団に喜ばれます。サウロの意図は、エルサレムを離れてダマスコに引きこもった何人かの弟子たちを捕まえることです。自分の所持金から裁判所の官吏たちや兵隊たちに給料を支払い、旅の準備をします。旅に付き添う大団体は、地獄からやって来た大群の悪魔たちです。教会を火と血で全滅させる意気込みでサウロと同じ考えです。

 この動きは聖母には明らかに見えます。人々や悪魔たちの心の中を見せる幻視や知識の他に、使徒たちから来る報告もあります。迫害はますます激しくなり、サウロの改心は起こりそうもないので、聖母は教会のため、サウロの改心のために新しい勇気と信棺を奮い起こして祈られます。主は聖母の御希望を受入れ、ある感覚的苦痛や一種の失神さえも聖母の御身に降りかかることになります。見るに見かねた主は申されます、「御母、御身の御意志は即座に行われましょう。御身の軒い通りにサウロを変えます。この時からサウロは自分が今まで迫害してきた教会の守護者となり、私の御名と光栄の説教者となります。」

 短時間の後、ダマスコ近くの道でサウロに主は現れます。主は偉大な栄光の内にあり、光り輝く雲の上の御自身をサウロにお見せになります。同時にサウロは神の光に満たされ、心臓も感覚も圧倒されます。突然、馬から地面に落ちるやいなや、声が聞こえます、「サウロ、サウロ、何ゆえ汝は我を迫害するや?」 恐怖の驚愕の内に言います、「主よ、御身はどなたですか?」 声は答えます、「我は汝が迫害せるイエズスなり。汝が全能なる我を蹴ること能わず。」 恐れおののきながらサウロは言います、「主よ、私に何をお命じになりますか?」 サウロの仲間たちは質問と返答のやりとりを聞きましたが、救い主を見ることができませんでした。サウロを囲む光輝を見て恐れ、驚きのあまり、しばらく口がきけませんでした。

 この新しい不思議な事件は、それまで世にあったことより重大で、感覚的に知られることよりもっと遠くに達します。サウロは打ちのめされ、無力となり、神に支えられなかったら死んだでしょう。サウロの体の中では、母の妊娠の時の無から有への転換よりも以上の苦しみがありました。過去のサウロからの転換は、闇の中の光の出現、天地の分割よりももっと大きいのです。なぜなら、サウロは悪魔の顔形から、最高位の最も熱烈なセラフィムに転身したからです。この転身の時間は極めて短時間で、ルシフェルが自分の誇りにより、偉大なる美しい状態から大変に醜い姿になり、天国から地獄へ落下したのと同じくらいあっという間の出来事でした。聖パウロの転身は、神がルシフェルと手下たちに勝ったことです。恩寵の回復です。それと共に聖パウロへ光栄も与えられました。神を見るという光栄で、ルシフェルは頂いたこともなく、頂くための功徳も積んだことがありません。聖パウロの場合は一瞬の内に自分を清め、聖とし、恩寵を頂き、更に神の光栄に参加し、神を見せて頂くことになったのです。全ては救い主のお陰です。主の恩寵が罪より強く、聖パウロを本来の恩寵状態に戻しただけでなく、神の栄光に参加させたことは、天地創造よりも、盲目の人に視力を、病者に健康を、死者に生命を取り戻させることよりも偉大です。聖パウロになさったのと同じことを神は私たちにもして下さることができます。

 聖パウロは地面に平伏している間、聖化する恩寵により全身が更新され、内的能力の全てが回復し、最高天に昇りました。聖パウロは第三天と呼び、そこへ身体ごと昇ったのか、霊魂だけであったのか判らないと告白しています(二コリ12・2)。僅かな時間でしたが、神を明瞭に直感的に見ます。神の本性と無限の完全性の属性、受肉と救世の神秘、恩寵の律法と教会の状況を聖パウロは認識します。自分の義化という誰にも及ばない祝福、聖ステファノの自分のための祈りと聖母の祈りが判ります。自分の改心は聖母のお陰で早くなったこと、自分が神に迎えられたのは、主の次に聖母の功徳によることが明瞭になります。その時から聖パウロは、聖母への感謝と献身の気持ちで一杯になります。同時に、自分が使徒職に召し出されていることも認識します。聖パウロは神の聖旨に自分を捧げます。至聖三位一体の神は聖パウロを受入れ、異邦人への説教者として、世界中に主の御名を伝えるために選ばれた器として任命します。

 サウロの改心と視力損失の後、三日目に主はダマスコに住む弟子アナニアに出現され、市の中のユダという家に行き、タルソのサウロに会うように話されます。同時にサウロは、アナニアが来て自分に視力を回復してくれるという幻視を見ます。アナニアは主の御命令に答えます、「主よ、サウロはエルサレムの聖人たちを迫害し、大勢の人を処刑に追いやりました。それでも飽きたらず、サウロは祭司長からの逮捕状を持ってやってきました。御身の御名を唱える者を捕まえるためです。私の如き羊を、食い殺そうとする狼の所へ行かせたいのですか?」 主はお答えになります、「行け、我が敵と見なされる者は、我が御名を諸国民とイスラエルの民に伝えるために選ばれた器である。」 アナニアはサウロの改心のことも教えてもらい、聖パウロに会いに出かけます。祈りに耽っている聖パウロに挨拶します、「兄弟なるサウロ、あなたが旅で会った我らの主イエズスは私をよこし、あなたの視力を回復し、あなたを聖霊で満たします。」 聖パウロは御聖体を拝領し、元気になり、主に感謝します。三日間の断食の後の初めての食事をします。ダマスコにしばらく滞在し、弟子たちと相談します。弟子たちの足許に平伏し、赦しを願い、最む価値のない僕として、兄弟として扱ってくれるように乞うのです。弟子たちの承認を得て聖パウロは、キリストが世界の救い主であることを熱心に、智恵により説教して回ります。ダマスコの多くの集会望にいるユダヤ人は混乱し、言います、「この人はエルサレムでキリストの名を口にする者たちを火と剣で迫害した男ではないか? そのような者どもを捕まえにここへ来たのではないのか? 一体どうしたのだ?」

 聖パウロは毎日強くなり、ユダヤ人や異邦人にますます強力な説教を続けます。従ってユダヤ人たちは彼の命を狙います。

 聖パウロの改心は一月二五日に起こりました。聖ステファノの殉教後、一年と一か月たってからです。聖ステファノは三十四歳と一目でした。改心した時、聖パウロは三十五歳と一月でした廿そして、その年は我らの主の御生誕三十六年目にあたります。

 聖母は聖パウロの迫害からダマスコでの活躍までの様子を誰よりも良くご存知でした。

元后の御言葉

 私の娘よ、改心の時、聖パウロが叫んだ言葉を味わいましょう。「主よ、私に何をお望みですか?御身のために何を致しましょうか?」 この時、自分中心の生活から神中心に聖パウロは切り替えました。その時、本気であっただけでなく、生涯、主の聖旨に従い続けました。

 主は大勢の霊魂をこのように劇的にではなくとも目覚めさせます。目覚めた者の内、堅忍を通しおおせる者は少ししかいません。霊的な生活を始めても気が弛み、内的な生活に終わります。ある人々は最初から中途半端な気持ちで始めます〝自己愛を常に持ち続け、名誉欲、所有欲、肉欲や罪を愛する気持ちがある破り、こういう人々はすぐにつまづき倒れます。

 自己を無き者とし、聖旨に身を捧げる聖パウロの言葉、「主よ、私に何をお望みですか」に聖パウロ自身の救いがかかっています。主に選ばれた器が自己主張することなど一体全体考えられるでしょうか?

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