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第六書・第八章

十字架につけられる

 首長アブラハムが一人息子イサクを連れて行ったのと同じ山の頂に、永遠の御父の御子は到着しました。イサクの場合は犠牲になることを免れましたが、最も罪のない御子は犠牲になりました。この山、カルワリオ山は汚され、蔑められています。犯罪人たちがここで処刑され、屍は放置され、悪臭を放っています。我らの最愛なるイエズスが山頂に着かれた時は、疲労困憊し、傷だらけ、引き裂かれ、腫れ上がり、見る影もない有様でした。今や救いの神秘が完うされることを感知した聖母は、永遠の御父に祈られます、「私の主なる永遠の神よ、御身は御独り子の御父であられます。御子は永遠に生れ、真の神、御身御自身でおられます。私の胎内より人間となられ、その人性の故、今、御苦しみになられます。私は御子に乳を含ませ、育て、母として愛しますが、今、母としての権利を御身に御返しし、御子を人間の救いのための犠牲として捧げます。これは、私が犠牲となることよりももつと尊いことでございます。私が御子の身代わりになることが許され、御子の聖なる生命を救えますならば、私の本望でございます。」 私たちの祖先アブラハムは、独り息子イサクを犠牲にせずに済みましたが、聖母は御子を失わなければなりませんでした。アブラハムの妻サラは、イサクが犠牲になることすら知りませんでしたが、聖母は、御子を犠牲にすることで神に一致しなければなりませんでした。

 時は六時、今の時間で正午。処刑人たちは御子から縫い目のない上着と着物を剥ぎ取るのですが、上着は御頭の上の方に引っ張り、茨の冠も一緒に引き上げます。乱暴に引っ張るので冠は壊れ、幾つかの刺は引き抜かれ、他の刺は突き刺さったままになっています。着物を御体から引き剥す時、着物にこびりついていた御体中の傷が開き、すごい痛みを起こします。着物をはいだり着せたりするのは四回も行われます。第一回目は柱の所で鞭打ちする時、二度目は紫色の着物を着せる時、三度目はそれを上着と着替える時、四度目は主を裸にする時です。カルワリオの山頂では冷たい風が吹きつけるので、開いた傷を通して寒さが凍みてきます。

 主は祈られます、「永遠の御父にして我が主なる神よ、御身の無限の善と正義に対して、私の全人性と聖旨に従い、人々の救いのため成し遂げた全てを捧げます。私と共に私の最愛の御母も捧げます。御母の愛、完徳、悲しみ、苦しみ、私に対する奉仕、私を見倣い、私の死まで付き添う御母を捧げます。私の使徒たち、聖なる教会と信者全体を御身に捧げます。アダムの子孫全員も捧げます。私の希望することは、私が全人類のため苦しみ、死ぬことです。皆が私に従い、私の救いを得るという条件が満たされることを希望します。人々が悪魔の奴隷ではなくなり、御身の子供たち、私の兄弟姉妹となり、私の功徳により獲得する恩寵を相続できますように。貧乏人、困窮者、世の中の嫌われ者や正義の人たちが御身の永遠の光栄に属することだけではなく、御身により罰せられるかもしれない人々も、御身の審判から免除されることを願います。御身は私の御父であり、皆の御父になられました。私を迫害する人々も私の死についての真理を御身から教わりますように。何にもまして御身の御名が崇められますよう、心から御祈り申し上げます。」

 聖母も御子に心を合わせ、同じ言葉で祈りました。御子が幼児の時の御言葉、「母上、私のようになってください」を決して忘れません。

 処刑者たちは、主に十字架の横木の上に両腕を延ばすように乱暴に命令します。御手のひらにあたる所に印をつけますが、実際はそれより少し外側に印をつけ、釘の穴を開けることにします。穴を開ける前に、主は上半身を起こさせられます。そこへ聖母が来られ、片手を取り、恭しくその手に接吻されます。処刑者たちは悲しむ母親に会わせて、主をもっと悲しませようと思ったのですが、反対に主は、御自身の似姿であり、御受難と御死去の結実である御母を御覧になり、幸せに思われたのです。

 主が再び十字架上に仰向けになられると、一人の処刑者は御手のひらに釘を打ち通します。静脈血管や腱は裂かれ、中手骨は釘の両側に押し離されます。もう一人の処刑者はもう一方の御手を釘穴にあてようとしますが、もともと、わざと御手の当たる所よりも外側に穴を開けましたから、御手首に鎖を掛け、外側にぐいと引っ破ると、御子の上腕骨の骨頭が肩関節から外されます。その上で御手に釘が打ち込まれます。次に処刑者たちは、御両足を重ね、同じ鎖を御足首にかけ、引っ張りながら、御両足に大きな長い釘を打ち込みます。主は御体が縦横に引き延ばされたまま身動きなさいません。処刑者たちは、十字架の下端を土に掘った穴に引きずります。二、三の者たちが十字架の上部の下に入り、体で十字架を持ちあげます。他の者たちは槍で十字架の上部を押し上げます。こうして十字架を主と共に建てます。主を十字架と共に持ちあげる時、ある者たちは槍をわきの下当たりに刺し、十字架の真ん中に御体を動かします。見ている群衆は喚声を挙げます。ユダヤ人たちは涜聖の言葉を吐き、親切な者たちは嘆き、異邦人たちは驚き、質問したり、恐ろしさと哀れさで頭を振り、他の人たちは我が身の危険を感じたり、又、他の者たちは主を義人であると宣言したりしています。人々の感情は聖母の心に矢のように刺さります。御子の御体の釘の傷は、御体の重みのため大きく開き、血が溢れ出てきます。(イザヤ12・3)イザヤが述べたように、御血は私たちの喉の渇きを止め、私たちの罪の汚れを洗い、清めます。

 処刑者たちは二人の盗賊を十字架につけ、救い主の両側に立てます。ファリサイ人たちや祭司たちは頭を振りふり嘲笑し、石や土を救い主に投げつけて言います、「おい、神殿を壊し、三日以内に建て直す者よ、自分を救え。他人を治したのに自分を救えない。神の子だったら、十字架から降りてこい。そうしたら信じよう」(マテオ27・42)。二人の盗賊たちも調子を合わせ、言います、「お前が神の子なら、お前自身と俺たちを救ってくれ。」 この二悪人が臨終に際し、正当な罰を受け、その効果を受けることに気付いていないので、主はお悲しみになります。

 十字架の木は御子の玉座です。この玉座の上で主は御自分の教えを確認されて仰せになります、「御父よ、この人たちを赦して下さい、訳がわからずやっているのですから!」(ルカ23、34)。敵を赦し、愛されるばかりでなく、知らないで自分たちの神を迫害し、涜聖し、十字架に掛ける人たちのためにも弁解しておられます。ああ、理解を越える愛! ああ、考えの及びもつかない忍耐、天使たちは讃え、悪魔たちは恐れる! 二人の盗賊の内の一人、ヂスマスという名の盗賊は、主の神秘に気付き始めます。聖母のお取次も加わり、主の十字架上での最初の御言葉の意味を神より教えて頂き、自分の罪を悲しみ、悔やみ、自分の仲間に向かい、言います、「罰せられてもお前は神を恐れない。我々は自分たちの犯したことに正当な報いを受けているが、この御方は何も悪いことをしておられない。」 イエズスに顔を向け、お願いします、「主よ、御身が天国に入られる時、私のことを思い出して下さい」(ルカ23・42)。盗賊どもの中で最も幸せなヂスマスや百夫長、その他、十字架上のイエズス・キリストに信仰告白した者たちの間に救いの結果が現れ始めます。一番の幸せ者はヂスマスです。主の御返事があるからです。「真に汝に告ぐ、本日、汝は我と共に天国に入らん。」 次に、十字架のそばに直立しておられる聖母と聖ヨハネに主は語りかけます、「婦人よ、汝の息子を見よ」、「汝の母を見よ」(ヨハネ柑・26)。「婦人」という言葉は、あらゆる女の中で祝されたる女、アダムの娘たちの中で最も思慮深い娘、主に対する奉仕に欠けることなく、主に対する愛に於て最も忠実な女を指します。「私が御父の所に戻る時、汝は私の愛弟子の世話になる、愛弟子は汝の息子となる」と主は意味され、聖母にはそれがはっきりしています。聖ヨハネも理解し、主の次に最も大切な御方の面倒を見ることになり、聖母は謙遜に新しい息子を養子にします。

 時は第九時近くとなり、天地は暗くなり、荒れ狂う様子を見せます。主は大声で叫ばれます、「我が神よ、何ぞ我を見棄て給うや?」(マテオ27・46)。この御言葉はヘブライ語でおっしゃるので、理解できない人たちもいます。「エリ、エリ」で始まるので、預言者エリアを呼び出しているのかと思います。主の御悲しみは、全人類を救いたいのに、告められる者たちの幸福を与えられないということにあります。

 主の聖心の御苦しみは御体の御苦しみとなります。「我、渇く!」アダムの子孫たちが、主の功徳によりもたらされた赦しと自由を受け取るよう渇望しておられますが、大勢の者たちがこの恩寵をないがしろにしています。聖母は御子に御心を合わせ、貧乏人、困窮者、下賤の者、忌み嫌われた人たち全旦が救世主のところに集まり、主の渇きを少しでも癒して欲しいと呼びかけます。しかし、不信なユダヤ人たちや処刑役人たちは頑固です。肝を酢に漬けたものに海綿を浸し、葦の枝の先にその海綿をさし、嘲りながら主の口許に持っていきます。「私の渇きのため、酢を飲ませようとした」(ヨハネ19・29。詩編69・22)がダビデの預言の成就を物語ります。

 主は第六番目の言葉、「仕遂げた」は、主の御降誕、御受難と御死去という救世の御業の完成を表します。旧約の預言の実現と主の人性のこの世に於ける結末です。教義、秘跡と罪の癒しも設けられました。主の聖なる教会は人々の罪を赦せます。勝利の教会の基礎が戦闘の教会の中に据えられています。

 主の最後の御言葉、「御父よ、我が霊魂を御手に委ねます」(ヨハネ19・30)をおっしゃった後、死を通して永遠の御父の不死の生命の中に入られます。この御言葉が大きく響いた時、ルシフェルと手下たちは地獄の一番深い穴に投げ込まれ、身動きできませんでした。全てを主と共にされた聖母は主の死の御苦しみも体験しました。聖母が御死去されなかったのは、神の特別な御計らいによるものです。聖母の体験された死の苦しみは、全殉教者や処刑された者たち全員の苦しみを寄せ集めたものよりももっと酷いものです。

元后の御言葉

 私の娘よ、私の教えた神秘を片時も忘れず、主と共に十字架に張りつけになって生活し、この世に対して死んだ者となりなさい。

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