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第六書・第七章

十字架の道行き

 ピラトは大声で我らの救世主の死刑宣告を群衆に申し渡しました。刑吏たちは重い十字架を主の傷ついた肩にかけました。主が十字架を支えられるように、両手の縄を弛めました。御体を締めつけている綱はそのままにしておき、桐の両端を刑吏たちは握り、主を引きずることができます。御首に綱の輪を二つもつけ、御首を二方向に引っ張れるようにしました。十字架は十五フィート(四メートル五十センチ)の長さで、太く重い材木です。先触れの者たちが主の処刑を宣言し、処刑人たちや兵士たちが渦を巻くように右往左往しながら、やかましく喚声を上げながらピラト邸を出て、カルワリオ山へ向かってエルサレムの市中を通って行きます。

 我らの救世主イエズス・キリストは、運ばれて来る十字架をご覧になり、大変お喜びになり、自分の花嫁を迎えるように次のように挨拶します、「ああ、私の愛するもの、我が渇望を満たすもの、我に来たれ、汝を両手で抱きしめよう。祭壇の上に置かれるように、私の両手が汝の上につけられる時、人類との永遠なる和睦の犠牲として永遠の御父に受入れて頂く。汝の上で死ぬため、私は天より降り、死ぬ運命にある肉体を私のものとした。汝は我が敵全員を負かす牧杖であり、選ばれた人々を天国に入れるため、門を開ける鍵であり、アダムの罪ある息子たちが慈悲を見出す聖所であり、貧乏な彼らに与える財産をしまって置く宝庫である。私の友だちが人々の与える不名誉とけん責を喜んで求め、受け取り、先に行く私の跡をついて来て欲しい。御父なる永遠の神を天地の主として崇め、聖旨に私自身を任せ、この十字架の材木を私の無実・有限の人性の犠牲のため、肩に掛け、人々の救いのために喜んで受け取ります。今日より、人々はもはや召し使いではなく、私と共に御身の王国の息子や娘となり、相続人となりますように」(ロマ8・17)。

 啓示と知力により、聖母は主をありありと見ることができ、主の心の中の御祈りを全部聞き取りました。十字架が我らの救い主に掛けられたとたん、無限の価値を与えられたことも判りました。御子に倣って聖母も十字架を喜んで受け取り、救い主の共頃者としての祈りを捧げました。主の死刑宣告をふれ回る者たちの声が街頭に聞こえてくると、聖母は抗議し、聖なる御子を讃美する歌を歌いました。我らの神なるイエズス・キリストに倣い、苦労を甘受し、身体の休息、栄養、睡眠を全部放棄し、霊魂の安らぎさえ求めませんでした。神が休息をもたらして下さった時だけ感謝してお受けし、悲しみと苦しみをもっと受けるため、回復することになりました。ユダヤ人の悪意に満ちた行動、人類の窮乏と将来の滅亡の脅威や人々の忘恩について、他の人たちよりももっと深く感じていたからです。

 神が聖母を通してルシフェルと手下たちに対してなさった奇跡をお知らせしましょう。龍(悪魔)と都下たちは、主の御謙遜を理解できず、主の御受難を注意深く見守っていましたが、主が十字架を受け取られると、不思議にがくがく震え始め、驚きと混乱のショックに見舞われます。地獄の統治は主の御受難と御死去により徹底的に崩れると、暗黒の王である悪魔は感知し、地獄の穴に向かって飛び、逃げようとします。そこへ事態を見守っておられた聖母が神の指図に従い、神の御力をもって地獄の軍勢の行く手を遮ります。主の御受難の最後まで、カルワリオ山まで見届けるように命令します。悪魔たちは神の御力を感じ、聖母の命令に従い、永遠の智恵なる神の勝利を見せつけられるため、極刑を受ける囚人のように落胆と怖れで、とぼとぼと行列の中に入ります。

 刑吏たちは、人間らしい同情の一かけらもなく、荒々しく救い主を引きずります。ある者は前方、他の者は後方へ主を引っ張るのです。引っ張られ、重い十字架にうちひしがれた主はよろよろし、何度も倒れます。右の敷かれた道に御騰が打ち当たるたびに傷が大きく広がります。重い十字架も御肩に深く食い込みます。倒れる時、十字架が御頭にぶつかり、茨の冠の刺が深く突き刺さります。悪の施工者たちは嘲り、呪い、唾を吐きかけ、歩道の土砂を主の御頭に投げつけ、御目を覆います。主を早く殺そうと、人々は主に息つく暇を与えません。既に二、三時間拷問を受けた主の至聖なる御体は弱り、傷だらけで、苦しみと悲しみのあまり、いつ御死去になっても不思議ではありません。

 聖母は、聖ヨハネと信心深い婦人たちと共に群衆の渦中を進んでおられましたが、怒涛のような群衆の中では主の近くにはとうてい行けません。聖母は永遠の御父に、十字架の下で御子の御死去を見守ることができるようにお願いし、聞き届けて頂きます。天使たちは脇道に聖母の一行をお連れし、主に面会できるようにします。お互いに顔を合わせ、お互いの心の悲しみを分かち合います。話しません。刑重たちが先を急がせます。聖母は心の中で主にお願いします、「御自身が十字架を持ち上げられませんし、天使たちに助けを願うわけにもいきませんから、主が誰かの助けを得るよう、残酷な刑吏たちに考えさせるように。」 この願いは聞き入れられ、シレネ人のシモンが主と共に十字架を担がせられます(マテオ27・32)。ファリサイ人と処刑人たちの中には主に同情する者たちもいたでしょうし、十字架に張りつける前に主が死んでは困ると心配した人たちもいたのでしょう。

 聖母の悲しみは人智を越えます。主の本当の価値を知っておられたからです。神に支えられなければ聖母は生き永らえられなかったでしょう。心の中で主にお話しになります、「私の御子なる永遠の神、私の目の光、私の霊魂の命よ、アダムの娘である私が、十字架を持ち上げたり、担いだりすることができないという苦しみを私の犠牲として受け取って下さい。御身が人類を熱愛するがゆえに、十字架の上で御逝去されるように、私は御身を愛するが故に死ぬべきでございます。ああ、罪と義の仲介者よ! さんざん痛めつけられ、恐るべき無礼を受けても、慈悲を願う方よ! ああ、愛徳は限りなきかな! それほどの拷問と侮辱を赦し、より多くの効果を挙ぐべきかな! 人々を滅亡より救わんためいけにえとなり給いし御身につきて、人々の心に訴えん者は誰ぞ!」

元后の御言葉

 御受難と御死去の秘密とは、唯一、真の人の道は十字架であることも、招かれた者全員が選ばれていないことを、あなたは納得したことと思います。主に従いたい者は多いが、主を真似る者は少ない。十字架の苦しみを感じるやいなや、十字架を棄てます。永遠の真理を忘れ、肉欲を求め、肉の喜びに耽る者は多いのです。人々は名誉を熱心に求め、不名誉から遠ざかります。富を求め、貧困を批難します。このような人たちは主の十字架の敵です(フィリッピ3・18)。

 もう一つのごまかしが世に広まっています。それは大勢の人たちが主に従っていると想像していますが、苦しまないし、労働もしていないことです。罪を犯さないことで満足します。自己犠牲や苦行を避けるという賢慮または自己愛を完徳と考えます。もしも、御子が救い主だけではなく、先生でもあることを考えるなら、この人たちは間違いに気づくでしょう。主は愛を誰よりも良く理解しておられ、誰よりも完璧に愛を実行されました。肉体にとって易しい生活ではなく、労働と苦痛の生活を選ばれました。主は、悪魔、肉欲と我欲をどのように克服するかを教えて下さいました。つまり、十字架、労働、償い、苦行と侮辱の甘受により勝利を得るのです。

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